1814年10月17日。ロンドンのセント・ジャイルズ地区で巨大なビール貯蔵槽が突然破裂しました。
大量のビールは醸造所の壁を破壊し周辺の通りや住宅へ流れ込みます。家屋は崩れ地下室までビールで満たされ、最終的に8人が命を落としました。
これは後に「ロンドンビール洪水」と呼ばれることになる奇妙でありながら極めて深刻な産業事故です。
しかしインターネット上で語られるこの事件には一次資料で確認できない話も少なくありません。そこで今回は1814年の同時代誌、イギリス下院議事録、翌1815年に成立した法律をもとに、実際に確認できる範囲から事件を追っていきます。
ロンドンビール洪水事件とは?
事故が発生したのはヘンリー・ミュークス社がセント・ジャイルズ地区で経営していた醸造所です。
当時の同時代誌『The Gentleman’s Magazine』によれば、1814年10月17日の午後6時ごろ、醸造所に置かれていた巨大な貯蔵槽の一つが破裂しました。
同誌が記録した貯蔵槽の内容量は、3,555バレルです。資料はリットルではなくバレルで記録しており後世の記事に見られるリットル換算には幅があります。そのため本記事では一次資料に記された元の数字を優先します。
巨大な貯蔵槽から放出されたビールは醸造所内だけでは収まりませんでした。
一つの貯蔵槽だけでは終わらなかった
翌1815年に成立した「ミュークス社物品税免除法」の前文には事故がどのように拡大したのかが記されています。
それによれば最初の貯蔵槽が破裂した際、崩れ落ちた板材が別の貯蔵槽の排出口を破損させました。さらに別の貯蔵槽へ通じる管も壊れそこからもビールが流出したとされています。
つまり最初の貯蔵槽に入っていた3,555バレルだけが流れ出したのではありません。破裂した貯蔵槽の残骸が周囲の設備を壊し、被害を連鎖的に拡大させたのです。
同法の前文ではこの事故を「偶発的な貯蔵槽の破裂」と表現しています。火災や燃焼による爆発ではないため「樽が爆発した」よりも「巨大な木製貯蔵槽が破裂・崩壊した」と書く方が正確でしょう。

ビールの濁流が住宅地を襲う
『The Gentleman’s Magazine』によれば流出したビールはニュー・ストリートやジョージ・ストリートなどへ押し寄せました。
醸造所に隣接する住宅2棟は完全に破壊されます。周辺に住んでいたのは主として貧しい人々でした。ある住宅では母親と娘が上階でお茶を飲んでいました。
そこへ濁流が襲来し母親は窓の外へ押し流されます。娘は間仕切りを突き破るほどの勢いで流され命を落としたと記録されています。またグレート・ラッセル・ストリートのタヴィストック・アームズという酒場でも建物の後部が破壊され、女性使用人が死亡しました。
普段は飲み物として親しまれていたビールがこの日だけは壁や家具を押し流す危険な濁流となったのです。
地下室で逃げ場を失った人々
被害をさらに深刻にしたのが周辺の地形と住宅事情でした。同時代誌は現場が低く平らな場所にあり流出した液体を逃がす傾斜がなかったと説明しています。そのためビールは周囲へ広がり住宅の地下室へ流れ込みました。しかもそれらの地下室は単なる倉庫ではありません。
『The Gentleman’s Magazine』と『The Annual Register』は地下室が実際に居住空間として使われていたと記録しています。地下室にいた住民の中には溺れるのを避けるため家の中で最も高い家具の上へ登らなければならなかった人もいました。地上へ逃げる階段や出口へ向かう前に大量のビールと建物の残骸が押し寄せたのでしょう。
醸造所内でも3人の従業員が巻き込まれましたが、集まった人々によって困難な救出作業が行われました。
死者8人、負傷者5人
『The Gentleman’s Magazine』はこの事故による死者を8人と記録しています。さらに5人がひどい打撲を負ったものの回復が期待されていたと報じました。
犠牲者の死因は一様ではありません。ビールに溺れる危険だけでなく崩れた壁や屋根、重い木材、破壊された家具などが住民を襲いました。したがって「8人全員がビールだけで溺死した」わけではないようです。
それでも住宅や地下室に突然ビールが流れ込み住民が溺れかけたことは同時代史料から確認できます。事故後には被害者家族を助けるための募金も行われました。この事件を「ビールに溺れた珍事件」として笑うだけでは破壊された家や命を失った住民の姿が見えなくなってしまいます。

結局どれだけのビールが失われたのか?
ロンドンビール洪水では史料によってビールの量が異なります。確認できた数字は次の3種類です。
・『The Gentleman’s Magazine』
破裂した貯蔵槽の内容量を3,555バレルと記録。
・1815年6月28日のイギリス下院議事録
ミュークス社は7,664バレルのポーターが完全に失われ、別の916バレルも損傷したと請願。
・1815年7月11日の制定法
事故で失われた対象として7,355バレルを記載。
これらは必ずしもまったく同じ範囲を数えた数字ではありません。
3,555バレルは最初に破裂した貯蔵槽の量です。7,664バレルは会社が議会へ申告した全損量です。そして7,355バレルは最終的な法律に記載された量です。会社の請願と制定法の間には309バレルの差がありますが今回確認できた公的記録には、数字が変更された理由までは書かれていません。
したがって流出量を一つの数字で断定するよりそれぞれの史料が何を数えた数字なのかを分ける必要があります。
ミュークス社は議会へ救済を求めた
事故から約8か月後、ミュークス社の共同経営者たちは議会へ請願しました。
1815年6月28日の下院議事録によれば会社側はビールと醸造所設備を合わせた損失が2万3,000ポンドを超えたと主張しています。
さらに会社は失われた7,664バレルのポーターに関係する税負担について7,216ポンド18シリング8ペンスに相当する救済を求めました。ただしこれは会社側が議会へ提出した自己申告です。
事故直後の『The Gentleman’s Magazine』は会社の損失を約1万5,000ポンドと見積もっており後の請願額とは差があります。
現金補償ではなく将来の醸造を免税にする法律
1815年7月11日ミュークス社を救済する法律が成立しました。
しかし会社へそのまま現金が支払われたわけではありません。法律が認めたのは事故で失われたビールと原料に課された税に相当する分だけ今後醸造するストロングビールを免税にする措置でした。
法律に記載された免税相当額は6,694ポンド14シリング4ペンスです。
さらに免税には条件がありました。物品税委員が事故を調査し会社や従業員の過失、不作為、合理的な注意の欠如によって起きた事故ではないと認める必要があったのです。そのため「政府が無条件で会社の損失を補償した」とする説明も正確ではありません。

ビールに溺れた人々は何を思ったのか
1814年10月17日に起きたロンドンビール洪水では巨大な貯蔵槽の破裂をきっかけに周囲の設備も壊れ大量のビールが住宅地へ流れ出しました。住宅2棟が破壊され地下室までビールで満たされ8人が命を落としました。
ここからは史料に残されていない私自身の感想です。
犠牲者たちの最期の言葉やその瞬間に何を考えたのかは記録されていません。だから本当の気持ちを断定することはできません。それでももし彼らの恐怖を言葉にするなら
「なぜビールが家の中へ押し寄せてくるのか」
「外へ出たい。誰か助けてほしい」
「ただ家で過ごしていただけなのに」
そんな気持ちだったのではないでしょうか。
地下室に流れ込んだビールから逃れるため家具の上へ登った人々がいました。救助する側は瓦礫の下から助けを求める声を聞き逃さないよう周囲を静かにさせながら作業を進めたと記録されています。普段なら人を楽しませるはずのビールが暗い地下室を満たし、呼吸する場所さえ奪っていく。その恐怖は、想像するだけでも胸が苦しくなります。
「ビールに溺れる」という言葉だけを見れば奇妙な笑い話のように感じるかもしれません。
しかし実際にそこにいた人々にとっては家族との何気ない夕方が突然奪われた、逃げ場のない災害でした。ロンドンビール洪水は珍事件ではあります。しかしその濁流の中で亡くなった8人の人生まで珍事件として軽く扱ってはいけないと思います。
参考資料・出典
- 『The Gentleman’s Magazine』Vol.84、1814年10月号、pp.389–390
- 『The Annual Register, or a View of the History, Politics, and Literature, for the Year 1814』Vol.56、Chronicle、pp.93–94
- 『Journals of the House of Commons』Vol.70、1815年6月28日、pp.441–442
- 「Allowance of Duty to Meux and Company Act 1815」55 Geo.III c.189、pp.582–583
