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【戦国】茶器と爆死したと創作された武将、松永久秀とは

松永久秀といえば、戦国時代きっての「梟雄」として語られる人物です。

裏切り者。
茶人。
信長に反逆した男。
そして、平蜘蛛の釜とともに爆死した武将。

……というイメージが強いですが、今回はあえて有名な逸話をいったん脇に置きます。この記事では確認した資料を 『信長公記』と『多聞院日記』(一次資料)に限定して、松永久秀の姿を見ていきます。

結論から言うとこの二つの資料だけで見る久秀は、単なる「悪役」ではありません。大和国をめぐる実力者であり、信長に従い、反逆し、許され、また反逆し、最後は信貴山城で滅びた人物です。

そして重要なのは今回確認した範囲では、平蜘蛛の釜を叩き割った話や、爆死した話は見当たりません。ひらぐものひの字も出てきません。

↓平蜘蛛についての記事↓


目次

松永久秀は大和国を任された有力者だった

まず『多聞院日記』を見ると、松永久秀は大和国で非常に大きな力を持っていたことがわかります。

永禄11年ごろの記事には、

和州一國ハ久秀可為進退

という趣旨の記述があります。これは自然に読むと、「大和国一国は久秀の進退、つまり久秀の処置に任せる」という意味です。

つまり『多聞院日記』の記録上では、信長上洛後の情勢の中で、久秀は大和国を動かす立場として扱われていたように見えます。ただしこれは正式な書状や判物そのものではなく、日記の記述です。

ここからわかるのは久秀が単なる悪役や反逆者ではなく、少なくとも大和支配において無視できない実力者だったということです。


大和国は久秀の支配下でも荒れていた

しかし、「大和一国は久秀の進退」と書かれているからといって大和が平和だったわけではありません。『多聞院日記』には、筒井順慶方との戦いや大和国内の焼き討ち、寝返り、籠城の記述が多く出てきます。

確認した範囲では

  • 松永方が筒井方面へ出撃する
  • 筒井順慶が堅固に籠城する
  • 柳本福智堂が多聞山方へ寝返る
  • 布施方面が焼き払われる
  • 敵味方を問わず国中が焼かれているようだ、と筆者が嘆く

といった内容が見えます。つまり久秀は大和国で強い立場にいた一方で筒井順慶ら在地勢力との争いは続いていました。ここで見える久秀は、「完全に大和を支配した安定政権の主」ではなく、大和を押さえようとしながら、なお抵抗勢力と戦い続ける実力者です。

戦国大名としてはかなり現実的な姿です。悪役というより泥臭く大和支配を進めていた武将に見えます。


辰市方面での大敗

『多聞院日記』の中で、久秀にとってかなり痛い出来事として読めるのが元亀2年ごろの辰市方面の戦いです。記述では、久秀が信貴城から出陣し、河内方面の軍勢とともに動いたことが見えます。しかし結果は大敗でした。

日記には、松永方の戦死者が多数出たこと、首数が五百ほど、負傷者も五百余りにのぼったという趣旨の記述があります。数字については、戦国期の記録なので誇張の可能性には注意が必要です。
ただし、『多聞院日記』筆者が非常に大きな敗北として記録していることは確かです。

この敗北は、久秀の大和支配が簡単なものではなかったことを示しています。信長とつながり大和で大きな権限を得ても、筒井順慶ら地元勢力を完全に押さえ込むのは難しかった。ここは久秀の人生を見るうえでかなり重要だと思います。さすが光秀も頼った順慶さん。


『信長公記』に見る一度目の謀反

『信長公記』では、元亀3年ごろ、松永久秀・久通父子が三好義継とともに謀反したことが記されています。この時期、久秀たちは河内方面で軍事行動を起こし、松永方の大将たちが城を築いて軍勢を配置したとされています。

これに対して信長は、佐久間信盛、柴田勝家、森長可、坂井政尚、蜂屋頼隆、斎藤新五、稲葉一鉄、氏家直通、安藤守就、不破光治、丸毛長照、多賀常則らを派遣しさらに将軍義昭も幾内の武将を加勢させています。

つまり、久秀の謀反は小さな反抗ではありません。信長側が本格的に軍勢を動かすレベルの反乱でした。ただし、この時は風雨の影響もあり、敵は脱出したと記されています。久秀側が完全に討ち取られたわけではありませんでした。

ここでの久秀は、信長政権に従いながらも、状況次第で反旗を翻す危険な存在として描かれています。


久秀は一度許されている

興味深いのは久秀が反逆しても、すぐに滅ぼされていないことです。

『信長公記』では、天正2年正月の記事として、松永久通が多聞城を明け渡して降参したことが記されています。
信長は山岡景佐を城番として多聞城へ入れました。そして一月八日、松永久秀は美濃の岐阜へ出向き、赦免された礼を述べたとあります。

さらに天下に二つとない名刀を献上したことも記されています。『信長公記』では、久秀が名刀を献上していたことが強調されています。ここからわかるのは、信長にとって久秀は、反逆したから即処刑という単純な相手ではなかったということです。

久秀は危険人物でした。しかし同時に、大和や畿内情勢を動かせる利用価値のある人物でもあったのでしょう。個人的にはここが久秀の怖さであり、すごさでもあると思います。信長側からみれば、名物好き同志気が合った側面もあったのかもしれません。

普通なら一度の謀反で終わりです。しかし久秀は、名物を差し出し、頭を下げ、また生き残る。「裏切り武将」というより、生き残るためなら恥も飲み込む現実主義者に見えてきます。


最後の謀反―天正5年、久秀父子は信貴山城へ

しかし久秀は最終的にまた信長に背きます。

『信長公記』によれば、天正5年、石山本願寺に対する備えとして天王寺の砦に松永久秀・久通父子が入れられていました。ところが八月十七日、松永父子は謀反を企て、砦から退去して大和の信貴山城に立て籠もります。

この時、信長はすぐに問答無用で攻め滅ぼしたわけではありません。松井友閑を通じて、「何か理由があるのか。言い分があるなら望みをかなえよう」という趣旨を伝えさせています。

これはかなり意外です。信長は久秀に何度も裏切られているはずなのに、最後の段階でも一応、理由を聞こうとしているのです。しかし久秀は出頭しませんでした。『信長公記』では、久秀は逆心を抱いていたため出頭しなかった、という趣旨で書かれています。


人質の処刑

この最後の謀反で、かなり重いのが人質の処刑です。『信長公記』によれば、久秀が京都へ提出していた人質は子供でした。永原の佐久間盛明のもとに預けられていたとされます。

村井貞勝らは「まだ幼い子供であり、助命してほしい」という趣旨の嘆願をしたようです。しかし信長は、髪を整えさせ、衣服を着替えさせ、京都へ連れて来させます。そして二人の子供は六条河原まで引かれていきました。見物した人々は集まり、幼い二人が顔色も変えず念仏を唱える姿を見て、涙を流したと記されています。

ここは読んでいてかなり胸が痛い部分です。久秀の謀反は、久秀本人だけの問題では終わりませんでした。子供たちまで巻き込まれています。戦国時代の人質制度とはいえ、資料を読んでいると「裏切る」という行為の代償がどれほど重かったかを突きつけられます。


片岡城の攻略

久秀討伐の一環として、片岡城も攻められます。

『信長公記』では、片岡城に森秀光、海老名勝正らが立て籠もっていたと記されています。
攻め手には、細川藤孝、明智光秀、筒井順慶、山城衆らがいました。戦いは激しく天守の下まで攻め寄せたとされます。守備側は鉄砲や弓で抵抗しましたが、最終的には攻め破られました。

ここで注目したいのは筒井順慶が信長方として動いている点です。かつて大和支配をめぐって久秀と争った筒井順慶が最後は信長側として松永方攻略に関わっている。この構図は久秀の失脚を象徴しているように見えます。


信貴山城の最期

そして天正5年10月、信貴山城が攻められます。

『信長公記』では、織田信忠が安土から出陣し信貴山城攻めを進めたことが記されています。十月十日夕刻、信忠は佐久間信盛、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀らに攻め口を命じ、信貴山へ攻め上らせました。

松永勢は防戦しましたが、やがて弓折れ矢尽きたとされます。そして久秀は天守に火を放ち、焼死したと記されています。

一方、『多聞院日記』天正5年10月11日条には、

昨夜松永父子腹切自焼了、今日安土ヘ首四ツ上了

という趣旨の記述があります。つまり『多聞院日記』では、昨夜、松永父子が腹を切り、自焼した。今日、安土へ首四つが上ったと記されているのです。ここから断定できるのは、久秀父子が信貴山城で自害し、火によって滅んだということです。ただしここで注意すべき点があります。そうです、平蜘蛛です。


平蜘蛛の記述は見当たらない

松永久秀の最期といえばよく知られているのが

  • 名物茶器「平蜘蛛」を信長に渡さなかった
  • 平蜘蛛を叩き割った
  • 平蜘蛛とともに爆死した

という話です。しかし、今回確認した『信長公記』と『多聞院日記』の久秀関連箇所には、平蜘蛛の記述は見当たりません

『信長公記』は、久秀が天守に火を放ち焼死したと記します。
『多聞院日記』は、松永父子が腹を切って自焼したと記します。

どちらも、平蜘蛛を叩き割ったとも、爆薬で爆死したとも書いていません。そのため久秀が平蜘蛛とともに爆死したとは書けません。

久秀の最期は、資料だけでも十分に劇的です。わざわざ爆死まで盛らなくても、信貴山城で父子ともに自害し、城が燃え、首が安土へ送られたというだけで戦国末期の悲惨さは十分に伝わると思います。


久秀はなぜ何度も裏切ったのか

ここからは、資料に基づく事実ではなく、個人の感想を含む解釈です。

『信長公記』だけを見ても、久秀は一度信長に背き、降参して許され、さらに天正5年に再び背いています。これは確かに「裏切り武将」と呼ばれても仕方ない動きです。ただ、資料を追うと久秀の裏切りは単なる気まぐれには見えません。

久秀は大和国で大きな権限を持っていました。しかし筒井順慶らとの争いは続き、辰市方面では大敗もしています。つまり久秀は、常に安定した支配者だったわけではありません。大和を支配したい。信長にも認められたい。しかし信長の下に入れば、いつか自分の裁量は削られていく。大好きな名物も献上しろとか言ってくるし。

この矛盾の中で、久秀は何度も賭けに出たように見えます。一度目は、失敗しても降参して許されました。しかし最後は、もう許される道を選ばず、信貴山城に籠もります。

これは美化すべき話ではありません。実際、人質の子供たちまで犠牲になっています。それでも、久秀という人物には「何としてでも自分の城、自分の国、自分の生き方を守ろうとした執念」があったように感じます。

戦国武将としてはしぶとい。でも、そのしぶとさが周囲を巻き込み最後には自分の家もろとも燃え尽きる。そこが久秀の怖さであり、同時に人間くさいところだと思います。


まとめ

『信長公記』と『多聞院日記』だけで松永久秀を見ると彼は単なる「爆死した悪役」ではありません。大和国を任されたように見える実力者であり、筒井順慶らと激しく争い、信長に背いては許され、最後には再び反逆して信貴山城で滅んだ武将です。

確認できる範囲では

  • 『多聞院日記』には「大和一国は久秀の進退」とする記述がある
  • 大和国内では松永方と筒井方の争いが続いていた
  • 辰市方面で久秀は大きな敗北を喫した
  • 『信長公記』では久秀・久通父子の謀反と降参が記される
  • 天正5年、久秀父子は再び謀反し、信貴山城へ籠もった
  • 久秀の人質だった子供たちが処刑された
  • 信貴山城は攻め落とされ、久秀父子は自害・自焼した
  • 今回確認した範囲では、平蜘蛛や爆死の記述は見当たらない

という流れになります。

松永久秀は確かに裏切りを重ねました。しかし資料を読んでいると、ただの悪人というより戦国の権力争いの中で最後まで自分の立場にしがみついた人物に見えてきます。

信長に従えば生き残れたかもしれない。しかし完全に従えば久秀は久秀でなくなってしまう(茶器も名刀も持っていこうとするし)。そんな意地や執念があったのかもしれません。

そしてその結果、城は燃え、父子は死に、人質の子供たちまで命を落としました。正直、久秀の生き方はかっこいいだけでは語れません。むしろ、かっこよさと愚かさが同じ場所にあるような人物です。

でもだからこそ、松永久秀は今も強烈に記憶に残るのだと思います。平蜘蛛や爆死伝説がなくても、彼の人生そのものがすでに十分すぎるほど激しい。戦国時代の怖さと人間の執念の深さを感じさせる武将でした。

↓久秀が所持していた他の茶器↓


参考文献

  • 『信長公記』
    • 元亀3年「三好義継・松永久秀、謀反」
    • 天正2年「松永久秀・久通、降参」
    • 天正5年「松永久秀謀反、人質を成敗」
    • 天正5年「片岡城を攻略」
    • 天正5年「織田信忠、信貴城を攻略」
  • 『多聞院日記』
    • 永禄11年ごろ「和州一国ハ久秀可為進退」
    • 元亀2年ごろ、辰市方面の松永方大敗
    • 天正5年10月11日条「松永父子腹切自焼」
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