~諸葛亮に次ぐ待遇を受けながら36歳で散った劉備の軍師~
三国志で龐統(ほうとう)といえば「鳳雛(ほうすう)」の異名を持つ軍師として知られています。諸葛亮の「臥龍」と並び称される人物ですが、実際の龐統はどのような人物だったのでしょうか。
龐統は若い頃から天才として有名だったわけではない
正史によると龐統は字を士元といい襄陽の出身でした。若い頃は「樸鈍」と見られ彼の才能を認める者はいなかったと書かれています。転機になったのが人物を見る目で知られた司馬徽との出会いでした。成人したばかりの龐統が訪ねた時、司馬徽は木の上で桑の葉を採っていました。龐統は木の下に座り二人は昼から夜まで語り続けます。
司馬徽は龐統を非常に高く評価し「南方の士の第一人者になる」と称賛しました。龐統の名が知られるようになったのはそれからだったと陳寿は記しています。ここで重要なのは、正史本文の龐統が最初から誰もが認める天才として描かれていないことです。むしろ周囲には才能を見抜かれず、語り合って初めて司馬徽に高く評価された人物でした。
「鳳雛」の呼び名は裴松之注に見える
有名な「鳳雛」の呼び名は正史本文ではなく、裴松之注が引用する『襄陽記』に登場します。
『襄陽記』によると、龐徳公は諸葛亮を「臥龍」、龐統を「鳳雛」、司馬徽を「水鏡」と呼びました。また龐統は龐徳公の「従子」と記されており一般には甥にあたる関係と解されています。
同じ注釈では龐統が18歳の時に龐徳公の勧めで司馬徽を訪ねたとも書かれています。司馬徽は龐統と話した後「龐徳公は本当に人を見抜いている。これはまことに優れた徳である」と感嘆しました。
したがって「龐統=鳳雛」は裴松之注で確認できる呼称です。ただし正史に直接書かれた異名ではありません。ここは正史と注釈を分けて読むうえで大切な点です。人を評価しあえて長所を大きく褒めた龐統は郡の功曹に任命されました。陳寿は彼が人物の評価を好み人の長所を伸ばすことに熱心だったと記しています。
ただし龐統の人物評は実際の能力以上に相手を褒めることが多かったようです。不思議に思った人々が理由を尋ねると龐統は天下が乱れて善人が少なくなった時代だからこそ人を称賛して善行を志す者を増やしたいという趣旨を答えました。十人を抜擢して五人を見誤っても残る五人を得られるなら世の教化に役立つという考えです。
これは単に「人を見る目が甘かった」という話ではありません。少なくとも龐統本人は人物評を乱世の風俗を立て直す手段として考えていました。人の欠点を暴くより、長所を世に知らせて善い方向へ導こうとしたのでしょう。
ただしここで述べた最後の一文は史料を読んだうえでの解釈です。正史の本文が龐統の内心をそれ以上説明しているわけではありません。

県令として失敗し魯粛と諸葛亮に救われる
劉備が荊州を領有すると龐統は耒陽県令の職務を代行しました。しかし県で治績を上げられず免官されます。なぜ龐統が治績を上げられなかったのか。陳寿は理由を書いていません。本人の怠慢だったのか、県政に不向きだったのか、それとも別の事情があったのかは正史だけでは不明です。
ここで龐統を推薦したのが呉の魯粛と諸葛亮でした。魯粛は劉備に書状を送り龐統は一県を治めるだけの小さな器ではなく治中や別駕のような重い職に就けて初めて才能を発揮できると訴えました。諸葛亮も龐統を推挙します。
劉備は龐統と直接語り合った後その才能を高く評価して治中従事に任命しました。やがて龐統は諸葛亮と並んで軍師中郎将となります。陳寿は劉備からの親愛について「諸葛亮に次いだ」と明記しています。県令を免官された人物が対話と二人の名士による推薦を経て軍師中郎将まで引き上げられたのです。その後の龐統が大局的な判断や軍略を示したことは、陳寿の本文から確認できます。
ここからは裴松之注―益州を取るべきだと進言
ここからは裴松之注が引用する『九州春秋』の記録です。
龐統は劉備に荒廃した荊州では東の孫氏と北の曹氏に挟まれ、大事業を成し遂げることは難しいと説きました。一方の益州は国が富み人口と兵力に恵まれているため、大業の基盤として利用できると主張します。劉備は曹操が苛烈なら自分は寛大に曹操が暴なら自分は仁によって対抗してきたとしてわずかな利益のために天下の信義を失うことを拒みました。
すると龐統は、情勢が変化する時には一つの方法だけに固執できないと反論します。まず益州を取りその後に劉璋へ大国を与えて義をもって報いれば信義に背くことにはならない。今取らなければいずれ他人の利益になると説きました。『九州春秋』では、この進言を受けて劉備が益州へ向かったことになっています。
劉備に示した「上・中・下」三つの計略
ここからは再び陳寿の正史本文です。
劉備と益州牧の劉璋が涪で会見すると龐統はこの場で劉璋を捕らえれば戦わずして益州を定められると進言しました。しかし劉備は、入国したばかりで恩徳も信頼も行き渡っていないとして退けます。その後、龐統は劉備に三つの策を提示しました。
上策は精鋭を密かに選び、昼夜兼行で成都を急襲することでした。劉璋は武勇に乏しく備えもないため、一挙に決着できると考えたのです。
中策は荊州で急変が起きたため帰還すると装い、関所を守る劉璋配下の楊懐と高沛を誘い出すことでした。二人が軽騎で訪ねてきたところを捕らえ、兵を奪って成都へ向かう計画です。
下策は白帝まで退き、荊州と連携しながら時間をかけて再起を図ることでした。
龐統は決断しないまま立ち止まれば大きな苦境を招くとも警告しました。劉備は中策を採用し、楊懐と高沛を斬って成都へ進軍します。陳寿はその途上で劉備軍が次々と勝利したと記しています。

劉備に「他国を攻めて喜ぶのは仁者ではない」と直言
涪で宴会が開かれた時、劉備は龐統に「今日の集まりは楽しいものだ」と語りました。ところが龐統は「他人の国を討ちながら喜ぶのは、仁者の軍ではありません」と答えます。
酒に酔っていた劉備は怒り龐統を退出させました。しかし間もなく後悔して彼を呼び戻します。龐統は謝罪する様子もなく、元の席で普段どおりに飲食しました。
劉備が先ほどの言い争いは誰の過ちだったのかと尋ねると龐統は「君臣ともに過ちがありました」と答えます。劉備は大笑いし、宴は元の雰囲気に戻りました。
この場面について裴松之は自ら意見を述べています。益州を欺いて取る計略を出した龐統にも心の負い目があったため、劉備の喜びの言葉を聞いて思わず批判したのだろうと推測しました。そのうえで、過ちは劉備にあり龐統にはなく「君臣ともに過ち」という返答は主君の非難を分け持った言葉だと評価しています。
これは裴松之自身の解釈であり、正史本文の説明ではありません。ただ策を献じるだけでなく勝利に浮かれる主君へ正面から意見できたことは正史本文から確認できます。
雒城攻撃中、流れ矢を受けて36歳で死去
劉備軍が雒県を包囲すると、龐統は兵を率いて城を攻めました。その最中に流れ矢を受け、36歳で亡くなります。
陳寿の本文に書かれている最期はこれだけです。龐統が劉備と馬を交換したこと、張任が龐統を劉備と誤認したこと、落鳳坡で待ち伏せされたことは、今回確認した陳寿本文と裴松之注には見当たりません。また命中した矢を誰が放ったのかも不明です。
『三国志』巻三十二「先主伝」によると、雒城は一年近く攻撃を受けた末に建安十九年夏に陥落しました。ただし龐統伝は死亡した年月を明記していません。そのため、史料から確実に言えるのは「雒城包囲中に戦死した」というところまでです。
劉備は龐統の死を深く惜しみ、彼のことを話すたびに涙を流したと記されています。龐統の父は議郎に任命され、のちに諫議大夫へ昇進しました。龐統自身には関内侯の爵位が追贈され、靖侯という諡が贈られています。
陳寿は龐統をどう評価したのか巻末の評で陳寿は、龐統が人物を論じることを好み、学問と計略に優れ、当時の荊州・楚地方で高俊と呼ばれたと記しました。
さらに魏の臣下にたとえるなら、龐統は荀彧の伯仲にあたるのではないかと評価しています。陳寿が龐統を、単なる奇策の軍師ではなく人物を見る力と学問を備えた一流の人材として見ていたことが分かります。

龐統が生き残っていたなら
龐統は最初から世に知られた天才ではありませんでした。司馬徽との対話で才能を認められ、人を評価して育てる姿勢を持ち、いったん県令を免官されながらも魯粛と諸葛亮の推薦によって再び登用されました。
劉備のもとでは諸葛亮に次ぐ待遇を受け、益州攻略では状況に応じた三つの策を示しました。一方で他国を攻めた勝利に浮かれる劉備を公然と批判しています。現実的な軍略を用いながら、勝った側が忘れかけた道義を指摘する。その両面を持っていたことが、正史の龐統を単純な「天才軍師」以上に興味深い人物にしています。
ただ彼は、ようやく劉備の大事業の中心に立った時期に36歳で亡くなりました。もし生き残っていれば、益州を得た後の政治や次の戦いで、諸葛亮と並んでどのような策を示したのでしょうか。その後の歴史が変わったとまでは断定できません。それでも劉備が語るたびに涙を流したという記録を読むと、あまりにも惜しい死だったと感じます。
「鳳雛」が翼を広げる時間は、あまりにも短かったのではないでしょうか。もう少しだけ長く生きた龐統の働きを見てみたかった。正史を読み終えた後にも、そんな思いが残る人物です。
参考文献
- 陳寿『三国志』巻三十七・蜀書七「龐統法正伝」龐統伝(裴松之注を含む)
- 陳寿『三国志』巻三十二・蜀書二「先主伝」



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