フランスを救った少女ジャンヌ・ダルクと中国史を代表する勇将・関羽。
生きた時代も国も違う二人ですがその最期を追うと不思議なほど似た構図が見えてきます。二人とも勝利によって名声を極めた直後、味方側の連携崩壊と別勢力の奇襲によって退路を失い捕虜となったのち命を奪われました。そして死後、生前以上に大きな象徴となっていきます。
ただし後世の物語は彼らの最期を劇的に脚色しました。そこで今回は『三国志演義』などの創作を使わずジャンヌ本人の裁判供述、同時代に近い年代記、陳寿『三国志』と裴松之注などの史料を中心に比較します。
なお一般に「関羽最期の戦い」は「麦城の戦い」と呼ばれますが正史に独立した合戦名としての「麦城の戦い」があるわけではありません。実際には樊城・襄陽包囲戦、孫権軍による荊州急襲、麦城への退却、臨沮方面での捕縛という一続きの崩壊でした。本記事ではこの全過程を関羽の「最期の戦い」として扱います。
まずは二人と最期の戦いを比較
| 比較項目 | ジャンヌ・ダルク | 関羽 |
|---|---|---|
| 時代・地域 | 百年戦争期のフランス、1430~1431年 | 後漢末の中国、建安24年(219年)末ごろ |
| 直前の絶頂 | オルレアン解放とシャルル7世のランス戴冠に貢献 | 樊城で于禁の七軍を降し、正史が「威、華夏を震わす」と記す |
| 最期の軍事局面 | コンピエーニュ救援後の城外出撃 | 樊城・襄陽包囲から荊州喪失、麦城退却まで |
| 当初の主敵 | イングランド勢力 | 曹操政権(魏) |
| 決定打を与えた別勢力 | イングランドと同盟するブルゴーニュ公国勢力 | 背後から荊州を奪った孫権勢力(呉) |
| 味方側で響いた判断 | 守備隊長ギヨーム・ド・フラヴィが橋を上げ、門を閉鎖 | 麋芳・士仁が降伏。劉封・孟達は援軍派遣を断る |
| 捕縛 | コンピエーニュ城外で退路を断たれ、ブルゴーニュ側に捕らえられる | 麦城を離れたのち兵が離散し、孫権軍に捕らえられる |
| 最期 | イングランド側へ引き渡され、ルーアンで裁判後に火刑 | 息子の関平とともに捕縛後、斬られる |
| 死後 | 1456年に有罪判決が無効化。1920年に列聖 | 「壮繆侯」と追諡。遅くとも唐代には関羽廟と神霊信仰が確認できる |

ジャンヌ・ダルク最期の戦い―コンピエーニュで閉ざされた退路
1430年5月23日、ブルゴーニュ公国軍に包囲されていたコンピエーニュを救うためジャンヌは少数の兵とともに市内へ入りました。その日の夕方、彼女は城外へ出撃します。
ジャンヌ自身は翌1431年3月10日の尋問で堡塁を越えて敵を二度押し返し三度目にも途中まで前進したもののイングランド兵が自軍と堡塁の間の道を遮断したため退却中に堡塁近くで捕らえられたと供述しています。これは敵に追われながら城門へ戻ろうとした本人の説明です。[J1]
一方、アランソン公に仕えたペルスヴァル・ド・カニーの年代記はブルゴーニュ側の伏兵が橋とジャンヌの間へ入り込み守備隊長が市の喪失を恐れて橋を上げ、門を閉じたと記します。城外に残されたジャンヌはわずかな味方と抵抗し、数人に取り囲まれて捕らえられジャン・ド・リュクサンブールのもとへ送られました。[J2]
ここで重要なのは守備隊長ギヨーム・ド・フラヴィがジャンヌを故意に売った、と一次史料から断定することはできない点です。年代記が示す動機はあくまで「敵が市内へ雪崩れ込み、コンピエーニュそのものを失うことへの恐れ」でした。フラヴィは都市を守るために門を閉じその判断が結果としてジャンヌの退路を消した―これが史料から言える範囲でしょう。
捕虜となったジャンヌはブルゴーニュ側からイングランド側の手に渡りルーアンで異端審問を受けます。そして1431年5月30日、火刑に処されました。

関羽最期の戦い――樊城の大勝から荊州崩壊へ
建安24年(219年)関羽は曹操軍の拠点である樊城・襄陽を攻めました。秋の長雨で漢水が氾濫すると救援に来た于禁の七軍は水没し于禁は降伏、龐徳は斬られます。周辺の反曹勢力まで関羽に呼応し陳寿はその勢いをわずか五字「羽威震華夏」と表現しました。曹操が許都からの遷都を議論したほどの衝撃でした。[K1]
しかし前方の勝利に対して後方はもろくなっていました。曹操の参謀である司馬懿と蔣済は関羽の成功を孫権が快く思わないはずだと読み、孫権に背後を突かせる策を進言します。曹操はこれを採用しました。
孫権側では呂蒙が病気を装い関羽に荊州の守備兵を樊城方面へ移させます。そのうえで精兵を船内に隠し兵を商人姿に変装させて長江をさかのぼり、関羽の監視所を次々に制圧しました。公安の士仁と江陵の麋芳は降伏し、荊州の中心地は大きな戦闘なしに孫権軍へ渡ります。[K2]
関羽は樊城を落とせないまま撤退しますが、すでに江陵は奪われ、兵士の家族も孫権軍の支配下にありました。呂蒙は住民や家族を厚く保護し、その無事を知った関羽軍の兵は戦意を失って離散します。関羽は麦城へ走り、さらに西へ脱出したものの、孫権が先回りさせた朱然・潘璋の部隊に進路を断たれ、潘璋配下の馬忠に捕らえられました。『三国志』関羽伝は、関羽と息子の関平が臨沮で斬られたと簡潔に記しています。[K5] [K1]
裴松之注には孫権が関羽を生かして劉備・曹操に対抗させようと考えた、という別史料の説も収められています。しかし裴松之自身は捕縛地点が江陵から遠く孫権のもとへ生死を相談する余裕はなかったとしてその話を明確に退けています。したがって正史だけに基づくなら「関羽が降伏を拒絶して処刑された」といった『三国志演義』的な場面は採用できません。確実なのは捕縛されその直後に斬られたということです。

共通点1 味方に足を引っ張られた
二人の最期には正面の敵だけでなく味方側の判断が重く響いています。
ジャンヌの場合、フラヴィが橋を上げて城門を閉じたことで退路が失われました。ただしそれを故意の裏切りとする証拠はありません。市を守る守備隊長と城外で戦い続けるジャンヌの優先順位が食い違った結果です。ジャンヌ自身の供述では直接退路を遮ったのはイングランド兵でした。つまり敵の遮断と守備側の門閉鎖が重なって彼女は孤立したと見るのが公平です。
関羽の場合は味方側の崩れがさらに複雑でした。
- 江陵の麋芳と公安の士仁は以前から関羽に軽んじられていると感じていました。軍需の供給が十分でなかったため関羽から「帰還したら処罰する」と言われて恐れ、孫権の誘いに応じて降伏しました。
- 上庸の劉封と孟達は関羽から繰り返し援軍を求められましたが、「山間部が帰順したばかりで動揺させられない」として出兵しませんでした。これは麦城からの救難要請ではなく、樊城・襄陽を包囲していた段階の要請です。関羽敗死後、劉備はこの不救援を恨んだと『三国志』は記します。[K3]
麋芳・士仁の降伏と劉封・孟達の援軍拒否は同じ行動ではありません。しかし前線の関羽を支えるはずだった補給・拠点・増援という三本の柱が相次いで機能しなかった点では一つの流れを作っています。
考察
英雄の強さだけでは戦争に勝てません。城門を開けて待つ者、兵糧を運ぶ者、援軍を出す者がそろって初めて前線の武勇は力になります。ジャンヌも関羽も最前線ではなお戦う力を持っていました。しかし後方との結び目が切れた瞬間、その武勇を生かす場所そのものを失ったのです。
共通点2 絶頂期からまさかの転落
ジャンヌは1429年、オルレアン包囲を破り、ロワール戦役を進め、シャルル7世をランスの戴冠式へ導きました。ところがその翌年にはコンピエーニュで捕虜となっています。
ジャンヌの詳細はこちら↓

関羽もまた、于禁の大軍を降伏させ、「威、華夏を震わす」と評された直後でした。それからわずかな期間で荊州を失い、軍勢は離散し、十数騎ほどの一団にまで追い詰められます。[K5]
関羽の詳細はこちら↓

考察
二人の転落が急だったのは弱かったからではありません。むしろ大勝によって戦線を押し広げ、敵から「今ここで止めなければならない存在」と見なされたからです。頂点は安全な場所ではなく敵の注意と対抗策が最も集中する場所でもありました。勝利の大きさが反撃の大きさを呼び込んだのです。
共通点3 捕らえられ処刑された
ジャンヌは戦場で捕らえられたのち長い拘禁と裁判を経て火刑に処されました。関羽は退路を断たれて捕らえられほどなく斬られました。
厳密にはジャンヌは裁判という形式を経た公開処刑、関羽は軍事捕虜として捕縛直後に殺害されたので、同じ手続きではありません。それでも二人とも戦場で討死したのではなく、生きたまま敵の手に落ち、その支配下で命を奪われた勇将でした。
考察
敵にとって二人は単なる一兵士ではありませんでした。ジャンヌはフランス王権を勢いづけた旗印であり、関羽は曹操を震撼させ荊州を預かる劉備陣営の柱でした。彼らを生かしておくことには大きな政治的・軍事的危険が伴います。二人の死は敵がその象徴性を恐れたことの裏返しでもあります。
共通点4 本当の決定打は「第三勢力」から来た
ジャンヌが戦ってきた最大の敵はイングランドでした。しかしコンピエーニュで彼女を直接捕らえたのは、イングランドと同盟していたブルゴーニュ公国側の軍勢です。ジャンヌはジャン・ド・リュクサンブールの管理下に置かれたのち、イングランド側へ引き渡されました。
関羽が正面から包囲していたのは曹操軍の樊城・襄陽でした。しかし敗北を決定づけたのは孫権軍による背後の荊州急襲です。劉備と孫権は赤壁以来、曹操に対抗して協力してきましたが荊州をめぐる対立は深まり、219年にはその関係が破裂しました。
ここでいう「第三勢力」は中立勢力という意味ではありません。当初の主敵とは別の政治勢力が、最期の局面で決定打を与えたという意味です。
考察
百年戦争期のフランスも後漢末の荊州も単純な二陣営の戦争ではありませんでした。同盟は利害が一致する間だけ続き地域の支配権が動けば昨日の協力者が今日の敵になります。ジャンヌも関羽も歴史物語で「最大の敵」とされがちな相手そのものではなくそれと結んだ、あるいはそこから離反した別勢力の手によって最期を決められました。
共通点5 死後、崇敬を集めて生前以上に有名になった
ジャンヌを有罪とした裁判は死後25年を経た1456年の復権裁判で欺瞞や重大な手続き上の問題を含むものとして無効と宣告されました。判決はジャンヌとその家族の汚名を取り除き、処刑地に記念の十字架を立てるよう命じています。[J3] さらに1920年、教皇ベネディクトゥス15世によってカトリック教会の聖人に列せられました。[J4]
関羽は蜀漢から「壮繆侯」と追諡されました。さらに唐の貞元18年(802年)に董侹が記した玉泉関廟の碑文は、その地にすでに関羽の廟があったことを伝え、関羽を「生きては英賢、没しては神霊」と称えています。[K4] 後世の巨大な関帝信仰へ至る道が少なくともこの時代には確認できるわけです。
考察
二人の崇敬の形は異なりますが、共通するのはその死が「敗北」で終わらなかったことです。ジャンヌは信仰と祖国救済の象徴に関羽は忠義と武勇の象徴になりました。捕縛と処刑という悲劇的な結末が人々に「なぜこの英雄は救われなかったのか」と問い続けさせその記憶をいっそう強くしたのでしょう。

二人とも死ぬにはあまりにも惜しい勇将だった
ジャンヌ・ダルクと関羽の最期には、五つの共通点がありました。
- 味方側の判断や機能不全によって前線で孤立した
- 大勝と名声の絶頂から短期間で転落した
- 戦場で捕らえられその後に命を奪われた
- 当初の主敵とは別の勢力が決定打を与えた
- 死後に崇敬され生前以上に大きな象徴となった
史料を読み進めるほど私は二人とも死ぬにはあまりにも惜しい勇将だったと感じます。
ジャンヌは退路を断たれてもわずかな味方と城外で抵抗しました。関羽も荊州も軍勢も失ったあとまで脱出路を求め続けました。二人の最期が胸を打つのは華々しく死んだからではありません。まだ戦えたはずの力、まだ果たせたはずの役割が政治と同盟と連携の崩壊によって突然断ち切られたからです。
門が閉じず補給拠点が持ちこたえ援軍が届いていたなら―歴史は違う姿を見せたかもしれません。もちろん史料から「もしも」の答えを出すことはできません。それでも最前線で自ら危険を引き受けた二人を思うとその喪失を惜しまずにはいられません。
二人は敗者として捕らえられました。しかしその勇気まで敵の手に渡ることはありませんでした。だからこそ、ジャンヌと関羽は死後もなお国境と時代を越えて人々の心に立ち続けているのでしょう。
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使用した史料
ジャンヌ・ダルク関係
- J1 『ジャンヌ・ダルク処刑裁判記録』1431年3月10日の尋問(ジャンヌ本人によるコンピエーニュでの捕縛状況の供述)。Jules Quicherat編、Procès de condamnation et de réhabilitation de Jeanne d’Arc, t. 1, pp. 114–117.
- J2 ペルスヴァル・ド・カニー『年代記』コンピエーニュ出撃・捕縛の記述、pp. 172–176。本文成立は事件から数年後。1902年刊校訂版。
- J3 『ジャンヌ・ダルク復権裁判記録』1456年7月7日の無効判決。Quicherat編、同書、t. 3, pp. 354–362.
- J4 教皇ベネディクトゥス15世、列聖教令 Divina disponente、1920年5月16日。
関羽関係
- K1 陳寿『三国志』巻36「関羽伝」、裴松之注――樊城包囲、于禁降伏、孫権の背後攻撃、麋芳・士仁の降伏、軍の離散、捕縛・斬首、追諡。
- K2 陳寿『三国志』巻54「呂蒙伝」、裴松之注――呂蒙の偽病、商人への変装、公安・江陵の降伏、関羽軍離散と捕縛。
- K3 陳寿『三国志』巻40「劉封伝」、裴松之注――関羽による援軍要請と劉封・孟達の拒否。
- K4 董侹「荊南節度使江陵尹裴公重修玉泉関廟記」(802年)――唐代の関羽廟と神霊信仰を示す碑文。
- K5 陳寿『三国志』巻47「呉主伝」、裴松之注――孫権軍の荊州攻略、関羽が十数騎となって脱出したこと、章郷での捕縛。
※本記事では創作小説『三国志演義』の逸話を使用していません。



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