天正10年(1582年)6月2日。織田信長は宿所としていた京都の本能寺を明智光秀の軍勢に包囲されました。
『現代語訳 信長公記』によると、信長は最初は弓を取り弦が切れると別の弓に替えて戦いました。やがて弓矢が尽きると槍を手にして応戦します。しかし肘に槍傷を負い御殿の奥へ退きました。
火が近くまで迫る中、信長は納戸の戸を内側から閉めて切腹したと記されています。このとき失われたのは信長の命や本能寺の建物だけではありません。
『山上宗二記』の「茶碗の事」には、信長の最期に火中して失われた茶碗として、次の三碗が挙げられています。
・松本茶碗
・引拙茶碗
・珠光茶碗
ただし『信長公記』の本能寺の変の記述には茶碗や茶道具の名前は出てきません。三碗が火中したと伝えているのは『山上宗二記』です。本記事では『山上宗二記』で茶碗の運命を確認し、『信長公記』で本能寺の変における信長の最期を見ていきます。

失われた茶碗は現代ならいくらだったのか
最初に驚かされるのが三碗に付けられた途方もない価値です。『山上宗二記』の現代語版には当時の評価額と現代の金額に換算した目安が掲載されています。
| 茶碗 | 当時の記録 | 添付本による現代換算 |
|---|---|---|
| 松本茶碗 | 五千貫 | 約五千万円 |
| 引拙茶碗 | 三千貫 | 約三千万円 |
| 珠光茶碗 | 別の珠光茶碗が千貫で譲渡 | 約二千万円 |
松本茶碗と引拙茶碗だけでも現代換算で合計約八千万円になります。ただし現代換算額は米価や賃金など何を基準にするかによって大きく変わります。ここでは添付された『山上宗二記』の換算値をそのまま使用しています。現在の美術市場における鑑定価格ではありません。
珠光茶碗についても注意が必要です。千貫、現代換算で約二千万円とされているのは宗易、すなわち後の千利休から三好実休へ譲られた珠光茶碗です。本能寺で失われた珠光茶碗そのものの価格ではありません。珠光茶碗は一碗だけに付けられた固有名ではなく同類の茶碗を含む一般名称でした。そのため別の珠光茶碗の取引額を本能寺で失われた碗の価格として断定することはできません。
それでも同類の茶碗が約二千万円相当で取引されたと考えれば、珠光茶碗もまた非常に高価な名物だったことが分かります。しかもこれ当時の値段なので現存していたら値段をつけられないでしょうね。

信長はどれほど名物茶碗を好んでいたのか
添付された『山上宗二記』の注釈によると松本茶碗は次のように所有者を替えたとされています。
松本珠報
↓
安宅摂津守冬康
↓
住吉屋宗無
↓
織田信長
これは注釈が『清玩名物記』『唐物凡数』『天王寺屋会記』の記述を総合して示した所有歴です。
天正2年(1574年)12月20日、住吉屋宗無が所持していた松本茶碗について信長から譲渡の命令が下ったとされています。仲介した天王寺屋宗及らは翌年5月まで堺の商人に茶道具を質入れして宗無への代金を立て替えました。
この経緯を見る限り松本茶碗は信長が偶然手に入れたものではありません。信長は所有者から譲渡させるために命令を出し仲介者まで動かして入手していました。信長が価値ある茶道具の収集に強い関心を持っていたことがうかがえます。
五千貫、現代換算で約五千万円と評価された茶碗です。信長にとっても単なる食器ではなかったはずです。
なぜ本能寺に名物茶碗があったのか
ここは事実と考察を分ける必要があります。
『信長公記』は本能寺を信長の「宿所」としています。しかし本能寺に茶道具を運び込んだ理由や茶会を予定していたかどうかは記していません。
『山上宗二記』も三碗が信長の最期に火中したと伝えるだけでいつ、誰が、何の目的で本能寺へ運んだのかまでは説明していません。
したがって「本能寺で茶会を開くために持ち込んだ」とはできません。
考えられるのは信長が京都滞在中にも大切な名物を身近に置いていた可能性です。自ら鑑賞するためだったのか。茶を飲むためだったのか。誰かに披露したり贈ったりする予定があったのか。それとも本能寺に以前から保管されていたのか。

1.松本茶碗|現代換算で約五千万円
三碗の中で最も高い評価を受けていたのが松本茶碗です。『山上宗二記』では評価額五千貫、現代換算で約五千万円とされています。
松本茶碗は青磁の平茶碗でした。口縁部には五か所の小さな刻みがあり内面には「吹き墨」があったと記されています。大きさは次の通りです。
- 口径 五寸二分 約15.8センチ
- 高さ 二寸八分 約5.5センチ
- 底径 一寸七分 約5.2センチ
直径に対して高さが低い横に広がった平茶碗だったことが分かります。『山上宗二記』はこの付近の茶碗の見方や価値観について「別途口伝にてお教えしましょう」としています。誰でも文章を読めば分かるものではなく名物の鑑定には口頭で伝えられる特別な知識が必要だったようです。
注釈では松本茶碗の所有者が松本珠報から安宅冬康、住吉屋宗無を経て信長へ移ったとされています。ところが信長が入手してから八年ほど後、松本茶碗は本能寺の変で火中しました。現代換算で約五千万円という価格も衝撃的ですがそれ以上に惜しいのは具体的な姿を確認できる現物が失われたことです。
2.引拙茶碗|現代換算で約三千万円
引拙茶碗も信長の最期に本能寺で火中して失われたと記されています。
評価額は三千貫。添付本による現代換算では約三千万円です。
引拙茶碗も松本茶碗と同じく青磁の平茶碗でした。口縁部に切り込みがあり内面に吹き墨がある点も松本茶碗と共通しています。
ただし細部には違いがあり口縁部の刻み方や内面の吹き墨などによって松本茶碗とは区別されていました。同書の注釈によると引拙茶碗には「宗柏茶碗」という別名もありました。
さらに『宗達他会記』天文23年(1554年)2月4日条にある、住吉屋宗端の茶会に登場した青磁の刻み茶碗と結び付けて紹介されています。「刻みが五つある」など引拙茶碗に似た特徴が記されているためです。
3.珠光茶碗|同名の別碗が約二千万円で譲渡
珠光茶碗もまた『山上宗二記』では信長の最期に火中して失われたとされています。この種類の茶碗は「唐茶碗」と総称されていました。醬色すなわち茶褐色系の色をしており外側には箆目があったと説明されています。
注釈ではさらに次のような特徴が挙げられています。
- 厚手の茶碗
- 茶褐色系の色
- 高台は平底
- 底に糸切りの痕がある
- 内側に「福」の字が書かれている
- 外側に細い櫛目が縦方向に二十七本ある
珠光茶碗という名前は茶人の村田珠光が好んだ青磁系茶碗と同類のものを指す一般名称でした。
『山上宗二記』の時代には九碗ほどあったとされ、同書の本文にも複数の珠光茶碗が登場します。その一つが宗易、後の千利休から三好実休へ譲られた珠光茶碗です。価格は千貫、添付本の換算では約二千万円でした。
ほかにも堺の薩摩屋宗忻から九州・筑紫の人物へ渡ったものやさらに二つの珠光茶碗が記されています。したがって宗易から三好実休へ渡った珠光茶碗と本能寺で失われた珠光茶碗を同一のものとして扱うことはできません。
また注釈によれば珠光茶碗は、上質な砧青磁のような器ではなくもともとは青磁に似せた雑器に近いものだったといいます。それでも村田珠光が好んだことによって特別な価値を持ち、千貫もの価格で譲渡される名物になりました。器の価値が材質や製造技術だけではなく、誰が認め誰が所有したのかによって大きく変化したことが分かります。
同類は「珠光青磁」と呼ばれいくつか現存するとされています。しかし信長の最期に失われた一碗は現在まで残っていません。
『信長公記』は茶碗の焼失を記していない
『信長公記』と『山上宗二記』はそれぞれ異なる内容を伝えています。
『信長公記』が詳しく描くのは、本能寺を包囲された信長の戦いと最期です。一方『山上宗二記』が記しているのは茶人の立場から見た名物茶碗の特徴、価値、所有者、そして最終的な運命です。
『信長公記』には「松本茶碗」「引拙茶碗」「珠光茶碗」という名前は登場しません。そのため「『信長公記』にも三碗が焼けたと書かれている」と説明するのは誤りです。二冊を合わせて読むことで、本能寺の変という同じ火災を信長の最期と茶道具の喪失という二つの側面から見ることができます。

写真だけでも見てみたかった三つの名物茶碗
『山上宗二記』が信長の最期に火中したと伝える名物茶碗は、松本茶碗、引拙茶碗、珠光茶碗の三つです。
松本茶碗は五千貫、現代換算で約五千万円。引拙茶碗は三千貫、約三千万円と評価されていました。珠光茶碗については本能寺で失われた碗そのものの価格は分かりません。しかし同名の別碗が千貫、現代換算で約二千万円で譲渡されています。
当時の茶人や武将にとってこれらは単に茶を飲むための器ではありませんでした。細かな刻みや吹き墨、色合い、底に残る糸切りの痕まで鑑賞されときには現代の数千万円に相当する価値が付けられていました。それほど大切にされた茶碗が信長の命とともに一夜の炎の中へ消えてしまったと考えると何とも惜しい気持ちになります。
もし三碗が現代まで残っていたならどのような色をしていたのでしょうか。口縁部の刻みや吹き墨は、実際にはどのように見えたのでしょうか。実物を見ることができなくてもせめて写真だけでも見てみたかった。文章の中にしか残っていないからこそ、その姿を想像せずにはいられない三つの名物茶碗です。
↓焼失茶器仲間の平蜘蛛茶釜↓

参考資料
- 『山上宗二記(現代語でさらりと読む 茶の古典)』
- 『現代語訳 信長公記(新人物文庫)』

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