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【鎌倉】北条政子とは?嫉妬も政治も超人レベルの「尼将軍」だった話

鎌倉幕府といえば初代将軍・源頼朝を思い浮かべる人が多いでしょう。

しかし『吾妻鏡』を読んでいると頼朝の妻である北条政子もとんでもない存在感を放っています。夫の浮気を知れば激怒し、関係者の屋敷を破却させる。一方で源義経を慕う静御前には深い理解を示し、頼朝を説得する。

さらに後年には、幼い将軍に代わって所領配分に関与し、父・北条時政の企てから実朝を救い出し、承久の乱では御家人たちに頼朝以来の恩を訴えました。今回は『吾妻鏡』に記された内容をもとに、北条政子という女性を見ていきます。

目次

頼朝の妻としての政子―『吾妻鏡』巻2

『吾妻鏡』ではまだ後年の「尼御台」になる前の政子が「御台所」として登場します。養和2年(1182年)3月9日には、妊娠中の政子が着帯の儀式を行いました。

千葉常胤の妻から帯が贈られなんと頼朝自身がその帯を政子に結んだと記されています。後世の頼朝と政子というと、どうしても「鎌倉幕府を作った将軍と尼将軍」という政治的なイメージが強いですが、この記述からは、出産を控えた妻と夫という姿も見えてきます。

同年8月12日、政子は男子を無事に出産しました。しかしこの出産からわずか数か月後、とんでもない事件が起こります。そう頼朝の浮気が発覚するのです。

頼朝の浮気発覚!政子、亀前に大激怒

頼朝には亀前という寵愛する女性がいました。

寿永元年(1182年)11月10日の『吾妻鏡』には、亀前が伏見広綱の飯島の家に住んでいたこと、そしてその事実が政子の耳に入ったことが記されています。史料には

「御臺所殊令憤給」御台所はことのほか激怒したとあります。

そして政子は牧宗親に命じ、亀前をかくまっていた伏見広綱の屋敷を破却させました。鎌倉時代の修羅場はスケールがデカすぎる。

普通の夫婦喧嘩なら口論で終わりそうなものですがこの夫婦の場合、物理的に家が壊れます。ただしここは正確に書いておきます。

政子自身が屋敷を破壊したのではありません。政子の命令を受けた牧宗親が亀前の住んでいた伏見広綱の屋敷を破却したのです。さらに頼朝はこの事件を起こした牧宗親を呼び出し、自らその髻を切るという処罰を加えました。

しかし興味深いことに頼朝はその際「御台所を重んじたこと自体は立派である」という趣旨の言葉を述べています。問題は政子を大切にしたことではなく、「こんなことをする前に、なぜこっそり俺に知らせなかったんだ」というわけです。

いや、そもそも浮気しなければいいのでは……。

さらに12月10日の記述では、別の屋敷へ移された亀前自身も「御台所の機嫌」を恐れていたとあります。そして12月16日には、伏見広綱が遠江国へ流され、

「是依御臺所御憤也」

つまりこれは御台所の怒りによるものであると明記されました。また同じ巻2には、頼朝から恋文を送られた新田義重の娘について、父の義重が「このことが御台所の耳に入るのを恐れて」、急いで別の男性へ嫁がせたという記事まであります。もはや周囲から完全に警戒されています。

Screenshot

感想―嫉妬深いというより、そりゃ怒るだろ……

正直に言えば屋敷を壊させるのはさすがにやりすぎだと思います。

しかし私はこの事件を単純に「政子は嫉妬深い怖い女だった」で終わらせる気にもなれません。政子が男子を出産したのは8月12日。亀前の存在を知って激怒したのは11月10日です。

まだ出産から約3か月しか経っていません。命がけで子どもを産んだ直後に、夫が別の女性を寵愛し、しかも周囲の人間まで協力してその存在を隠していたと知る。

もし自分が政子の立場だったら、平静でいられる自信はまったくありません。もちろん、だから家を壊していいとは思いません。しかし、「嫉妬深い女」という一言では片付けられないほどの怒りがあったのではないか、と私は感じます。むしろこの事件を読むと、800年以上前に生きた政子が、急に生身の人間として見えてくる気がするのです。

静御前をかばった政子――『吾妻鏡』巻6

激しい嫉妬を見せる一方で政子は別の女性の恋心には驚くほど深い理解を示しています。

文治2年(1186年)4月8日、源義経の愛妾だった静御前が、鶴岡八幡宮で舞を披露しました。静は義経を慕う歌を歌います。当然ながら、頼朝にとって義経は敵対していた弟です。

頼朝は激怒しました。ところがここで政子が頼朝をなだめます。

吾妻鏡』によれば、政子は自らの過去を振り返りました。頼朝が伊豆の流人だった頃、自分も頼朝との仲を反対されながら、暗い夜と激しい雨を越えて彼のもとへ向かった。そして頼朝が石橋山の戦いへ出た時には、その生死も分からず、日夜心を痛めた。

だからこそ

今の静の心も同じようなものだ。長年愛した義経を恋い慕わないのであれば、それこそ貞女の姿ではない。

という趣旨で頼朝を説得したのです。そして頼朝は怒りを収めました。ここは本当に面白い。

亀前事件では嫉妬を爆発させた政子が、静御前に対しては「愛する男性を想う女性の気持ちは私にも分かる」と理解を示しているのです。さらに同年閏7月、静が義経の男子を出産するとその子を処分する命令が下されました。『吾妻鏡』には、政子がこれを悲しみ助命を願ったものの叶わなかったことも記されています。

そして9月静と母が京都へ帰る際には政子と姫君が二人を憐れみ、多くの宝物を与えました。

亀前には激怒する。しかし静には共感しその子を助けようとさえする。一見すると矛盾しているようですが私はむしろそこに政子の非常に人間らしい感情を感じます。

幼い将軍に代わって政務を動かす――『吾妻鏡』巻18

時代が進むと政子は頼朝の妻というだけではなく幕府政治の中で明確な権力を持つようになります。

元久2年(1205年)7月8日畠山重忠の一族から没収された所領が戦功を挙げた者たちへ与えられました。

『吾妻鏡』はこれを

「尼御臺所御計也。將軍家、御幼稚之間、如此」

と記しています。つまりこれは尼御台所・政子の計らいであり将軍がまだ幼いためこのようにしたというのです。ここまで来るともはや単なる「将軍の母」ではありません。所領という御家人たちにとって極めて重要な問題に政子が直接関与していたことが『吾妻鏡』にはっきり記録されています。

父・北条時政の企てから実朝を救い出す

そして同年閏7月19日政子はさらに大きな事件の中心に立ちます。『吾妻鏡』によれば牧の方が平賀朝雅を新たな関東の将軍にし、当時の将軍を「謀る」計画があるとの情報が流れました。この時、将軍は北条時政の邸宅にいました。

政子はすぐに長沼宗政、結城朝光、三浦義村らを派遣し将軍を迎え出させます。そして将軍は北条義時の邸宅へ入りました。すると時政が集めていた武士たちまで義時の邸宅へ移り将軍を守護します。

その日のうちに時政は出家。翌日には伊豆へ下りました。ここは「政子が父・時政を直接追放した」とまで断定するのは避けるべきでしょう。しかし少なくとも『吾妻鏡』では、政子が将軍救出のために御家人を動かしその直後に時政方の計画が崩壊したことは明確です。

相手は自分の父親です。それでも政子は将軍を守る側に立った。

情だけで政治を動かしたのではなく時には実の父と対立してでも行動する。このあたりから後世に「尼将軍」と呼ばれる政子の恐ろしいほどの強さが見えてきます。

承久の乱――政子が御家人たちへ伝えた「最後の言葉」

承久3年(1221年)。

『吾妻鏡』巻25には、北条政子を代表する有名な場面があります。政子は家人たちを簾の下へ集め、安達景盛を通じて言葉を伝えました。

ここは重要です。『吾妻鏡』では政子が大勢の御家人の前に直接立って演説したとは書かれていません。安達景盛を通じて言葉を伝えた形です。

その内容はおおよそ次のようなものでした。

「皆、心を一つにしなさい。これが私の最後の言葉です。亡き頼朝公が朝敵を討ち、関東を築いて以来、官位といい俸禄といい、その恩は山より高く、海より深い。今こそ、その恩に報いる時ではないでしょうか」

さらに政子は、敵方につく者がいるなら今すぐ名乗り出るよう求めました。『吾妻鏡』によれば集まった武士たちは皆その言葉に応じ涙を流し命を軽んじて恩に報いようと思ったとされています。

「演説がサムライすぎてかっこいい。」

ただ私はこの場面を単純に「政子の話術だけで武士たちが動いた」とは思いません。頼朝以来、何十年も幕府の中心近くにいた政子だからこそ、この言葉には重みがあったのではないでしょうか。

亀前事件で感情を爆発させた若き日の女性が長い年月を経て今度は鎌倉武士たちをまとめる存在になっている。巻2から巻25までを続けて読むとその変化に驚かされます。

まとめ――嫉妬も優しさも政治力も、全部が北条政子だった

今回『吾妻鏡』を読んでみても北条政子は一言では表せない人物です。頼朝の浮気を知れば激怒し亀前をかくまった屋敷を破却させる。一方で義経を慕って歌った静御前には自分自身の恋愛を重ね頼朝を説得する。静の男子が処分されようとした時には、助命まで願っています。

そして時代が進むと幼い将軍に代わって所領配分に関与し父・時政側の企てを知ればすぐに御家人を動かして将軍を救い出す。最後には承久の乱という幕府最大級の危機に際して頼朝以来の恩を訴え御家人たちの心を一つにしました。

私は政子が完璧な聖人だったとは思いません。亀前事件の屋敷破却は今の感覚から見れば明らかにやりすぎでしょう。

でもだからこそ私は政子という人物に惹かれます。嫉妬する。怒る。愛する。悲しむ。そして守るべきものが危機に陥れば実の父を相手にしてでも行動する。

感情を失った冷たい政治家ではなくむしろ誰よりも感情が激しいのにその感情ごと抱えながら鎌倉幕府の中心に立ち続けた。それが『吾妻鏡』の記述から私が感じた北条政子です。

若い頃には夫の浮気に激怒して家を壊させた女性が数十年後には「頼朝公の恩は山より高く、海より深い」と武士たちへ訴えている。そう考えるとなんだか不思議な気持ちになります。

頼朝を愛し頼朝に怒りそして頼朝亡き後もその人が作ったものを最後まで守ろうとした。北条政子は「尼将軍」という強い言葉だけでは語りきれない、とても激しく、とても人間くさい女性だったのではないでしょうか。

参考文献

  • 『吾妻鏡』巻二、巻六、巻十八、巻二十五

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