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【三国志】簡雍とは?劉備を笑わせた“ゆるい古参外交官”

三国志には関羽・張飛・諸葛亮のように誰でも名前を知っている有名人物がいます。その一方で、正史にはちゃんと記録されているのに、どうにも影が薄い人物もいます。

その代表格が簡雍(かんよう)字を憲和です。

簡雍は、派手に戦場で暴れた武将ではありません。天才軍師として大計略を決めた人物でもありません。
しかし、陳寿『三国志』蜀書八を見ると、劉備と若いころから付き合いがあり、使者・談客として活動し、最後には劉璋の降伏にも関わった重要人物として記録されています。しかもこの人、ただの真面目な文官ではありません。

劉備の前でも足を投げ出し、諸葛亮以下の前では寝台を独占して寝ながら話す。さらに、酒造禁止令をめぐって、かなり鋭い冗談で劉備を笑わせ、人を救った逸話まであります。今回は、正史『三国志』本文と、裴松之注釈を分けながら、簡雍という人物を見ていきます。


目次

まずは正史『三国志』本文から見る簡雍

ここからは陳寿『三国志』蜀書八の簡雍伝に基づく内容です。

正史によれば、簡雍は字を憲和といい、涿郡の人でした。涿郡といえば、劉備の出身地とも関わる地域です。簡雍について正史は、若いころから劉備と旧交があったと記しています。

つまり簡雍は劉備が皇帝になるずっと前からの知り合いでした。「あとから出世した劉備に乗っかった人」というよりかなり古い時期から付き従っていた人物と見てよいでしょう。ただしここで注意したいのは正史本文に「義兄弟」や「親友」という表現があるわけではないことです。断定できるのは、あくまで若いころから劉備と旧交があり、劉備に従って各地をめぐったという点です。


荊州時代の簡雍|麋竺・孫乾と並ぶ従事中郎

劉備が荊州に至ると簡雍は麋竺・孫乾とともに従事中郎となりました。麋竺と孫乾は、劉備陣営の中でも古くから活動していた人物です。その二人と同じ官職に置かれていることからも簡雍が劉備陣営の中で一定の位置を占めていたことが分かります。

正史本文では簡雍について、常に談客となり往来して使命を果たしたとあります。ここでいう「談客」とは、単なる雑談相手というより会談・交渉・使者としての役割を担う人物と考えられます。つまり簡雍は戦場で槍を振り回すタイプではなく、話すこと、交渉すること、人と人の間をつなぐことで劉備を支えた人物だったのでしょう。

しかし個人的に最初(旗揚げ時)はただの兵士だったでしょうから益州攻略で生き残っているあたりは腕っぷしも強ったと思うのが普通だとは思いますが、、、。


劉璋を降伏させた簡雍

簡雍の最大の見せ場は益州攻略の場面です。劉備が益州に入ると劉璋は簡雍を見て大いに気に入りました。その後劉備が成都を包囲したとき、劉備は簡雍を劉璋のもとへ遣わし、降伏を説かせます。すると劉璋は、簡雍と同じ車に乗り、城を出て降伏しました。

これはかなり重要です。

成都攻略は、劉備にとって蜀漢政権の基盤を作る重大局面でした。もし劉璋が最後まで抵抗していれば戦は長引き、兵も民もさらに疲弊した可能性があります。その局面で簡雍は劉璋を説得し降伏へ導いたのです。

派手な一騎討ちではありません。敵将の首を取ったわけでもありません。

しかし、言葉で戦を終わらせたという意味では簡雍の働きは非常に大きかったと言えます。劉備はその後、簡雍を昭徳将軍に任じました。

簡雍の性格|ゆるすぎる重臣

正史本文の面白いところは簡雍の性格描写です。簡雍は、優游風議、つまりゆったりと議論する人物でした。また、性格は簡傲跌宕とされています。これは、ざっくり言えば、大まかで、少し傲然としていて、型にはまらない人物という感じです。

正史には、さらに具体的な描写があります。簡雍は劉備の座席にいるときでさえ、足を投げ出して寄りかかり、礼儀作法が厳粛ではありませんでした。また、諸葛亮以下の者たちの前では、一人で寝台を占領し、首を枕にして寝ながら話し、へりくだることがありませんでした。

普通に考えるとかなり失礼です。相手は劉備です。さらに諸葛亮です。なのに簡雍は、ガチガチに礼儀正しくするどころか、かなり自由に振る舞っていたようです。ただこれを単なる無礼者と見るだけでは少しもったいないです。劉備の前でそこまで振る舞えるということは、簡雍が劉備と非常に古い関係にあり、一定の信頼を得ていた可能性があります。

もちろんこれは推測です。正史から言えるのは、簡雍が礼儀に厳格な人物ではなく、かなり自由な振る舞いをしていたという点までです。


酒造禁止令へのツッコミがすごい

簡雍で一番有名なのが酒造禁止令をめぐる逸話です。

あるとき、旱魃が起きたため、酒造が禁じられました。
酒を造った者には刑罰が科されることになります。

すると、役人がある家から酒造道具を見つけました。
これに対し、議論する者たちは「酒を造った者と同じように罰するべきだ」と主張します。

つまり、実際に酒を造ったかどうかではなく、道具を持っていたなら酒を造るつもりだったはずだという理屈です。

ここで簡雍が動きます。

簡雍は劉備とともに外を見ていたとき、道を歩く男女を見て、こう言いました。

「彼らは淫らなことをしようとしています。どうして縛らないのですか」

劉備が「どうして分かるのか」と尋ねると、簡雍は答えました。

「彼らはその道具を持っています。酒を造ろうとした者と同じです」

これを聞いた劉備は大笑いし、酒を造ろうとしたとして罰されかけていた者を許しました。

これは、ただの下ネタではありません。

簡雍は「道具を持っているだけで罪にするなら、男女が歩いているだけでも罪にできてしまう」という形で、法の運用のおかしさを笑いに変えて指摘したのです。現代風に言えばかなり高度なツッコミです。

正面から「その判断は間違っています」と言えば、場が重くなる。相手が君主なら、下手をすると角が立つ。でも簡雍は、笑わせながら本質を突きました。そして実際に、人を救っています。


簡雍から学べる「ギャグセンス」の大事さ

ここからは正史の内容を踏まえた感想・学びです。簡雍から学べることは、ギャグセンスは人間関係を柔らかくし、ときに人を救う力があるということです。もちろん、ふざければいいという話ではありません。簡雍の冗談がすごいのは、ただ笑わせるだけではなく、ちゃんと問題の核心を突いているところです。

酒造道具を持っているだけで罰するのはおかしい。でも、それを真正面から言うと議論がこじれるかもしれない。
そこで簡雍は男女のたとえを使って理屈の危うさを一発で分からせました。これはかなり頭がいいです。ギャグというのは、軽いようでいて、実は知性が必要です。

  • 相手の気分を読む。
  • 場の空気を読む。
  • 言っていいラインを見極める。
  • そして、笑いにしながら伝える。

簡雍はまさにそれができる人物だったのでしょう。職場でも、人間関係でも、正論だけでは相手に届かないことがあります。そんなとき、空気を壊さずに本音を伝えられる人は強いです。簡雍のような人物は組織の中では目立たないかもしれません。でも、重苦しい空気をふっと軽くし、言いにくいことを言える存在は、かなり貴重です。

裴松之注釈の簡雍

ここからは裴松之注釈の内容です。簡雍伝につく裴松之注には、簡雍の姓についての異説が載っています。それによると、ある説では、簡雍はもともと姓をといい、幽州の人々の言葉では「耿」を「簡」と言ったため、音が変化して「簡」になったとされます。

つまり簡雍の本姓は耿だった可能性があるという異説です。ただしこれは裴松之注に「或曰」として載る話です。「ある人はこう言う」という形なので、正史本文の確定情報と同じ強さでは扱わない方が良いでしょう。

まとめ|簡雍は「笑わせて救う」タイプの古参だった

簡雍は三国志の中では決して派手な人物ではありません。

  • 関羽のように敵将を斬ったわけではない。
  • 張飛のように豪勇で知られたわけでもない。
  • 諸葛亮のように国家戦略を背負ったわけでもない。

しかし、正史を読むと簡雍は劉備の若いころからの旧交であり荊州では談客・使者として仕え、益州では劉璋の降伏に関わった重要人物でした。しかも彼の魅力はそこだけではありません。

劉備の前でさえ型にはまらず諸葛亮以下の前では寝ながら話す。普通なら「なんだこの人」と思われそうな態度です。でも、酒造禁止令の逸話を見ると、簡雍の自由さはただのだらしなさではなく、場を柔らかくしながら本質を突く力でもあったように見えます。

重い空気の中で、正論をそのままぶつけるのは難しい。でも、笑いに変えれば、相手の心に届くことがある。簡雍は、それを正史の中で見せてくれた人物です。

個人的にはこういう人が劉備のそばにいたことが少し嬉しくなります。乱世というと、裏切り、戦争、処刑、敗北ばかりが目立ちます。そんな世界で冗談を言って君主を笑わせ、罰されそうな人を救った男がいた。派手ではないけれど人間味がある。簡雍の魅力はまさにそこにあると思います。


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参考文献

  • 陳寿『三国志』蜀書八「許麋孫簡伊秦伝」簡雍伝
  • 裴松之注『三国志』蜀書八「簡雍伝」注釈
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