【平安】父の顔面を踏むと言った藤原道長

道長とは何をした人なのか

藤原道長は平安時代中期の公卿で藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男として生まれる。五男ではあるが有力な兄たちは早世してしまいます。

その後、道隆の嫡男・伊周との政争に勝って政権を掌握し長徳の変で伊周を失脚させるなど政略に血道をあげたことから(左大臣に)昇進を果たします

一条天皇へ長女を嫁がせ皇后にし、三条天皇には次女を中宮とするがのちに関係が悪化し道長は三条天皇をおいつめて退位に持ち込んでいる

後一条天皇には三女を中宮とするなど娘たちを入内させて天皇三代の外威となって政権の実権を握り、藤原氏摂関政治の最盛期を築きました

最盛期には教科書にも出てくる有名な望月の歌「この世をば 我が世とぞ思ふ望月の かけたることも なしと思へば」(この世は自分のためにあるようなもんだ、満月のようになにも足りないものはない)を読んでいます

京都の上京区に摂関期最大級の寺院である法成寺を建造した人でもあります。この法成寺を建造したことから「御堂関白」と呼ばれるらしいですが、実際に関白になったことはありませんでした。

関白の職権そのものには決裁権がなく、最高決裁者の天皇の後見的存在だったことから、天皇との関係によって権限が左右される上に、最高機関の太政官には関与できない決まりでありました。

そのため道長は関白につくことはせず左大臣と関白に近い権限を持つ内覧を兼任することで最高権力を行使しようとしたと思われます。

文化面では文学を愛し、紫式部・泉式部などの女流文学者を庇護して作文会を行ったりしたそうです。

道長の性格

逸話としてこのような話しがあります。

・若いころ父の兼家が才人である関白頼忠の子の公任を羨み、息子たちに「我が子は遠く及ばない、(公任の)影を踏む事もできない」と嘆くと。道長の兄の道隆と道兼は言葉もなく恥ずかしそうにしていたが、道長のみは「影をば踏まで、面をやは踏まぬ(影など踏まない。貴様のツラを踏んでくれる)」と答えたらしいです。

父親の顔を踏むと反論しているのでかなりの強気な性格だったことが窺えますね。

・花山天皇に深夜の宮殿の肝試しを銘じられた際には、道隆と道兼が逃げ帰ってしまったのに対して、道長一人で大極殿まで行き、証拠として柱を削りとってきたといいます。

これも道長の気の強さを表した話ですね

弓が得意で、兄の道隆の嫡男の伊周と弓比べをし、「道長が家より帝・后立ち給ふべきものまらば、この矢当たれ。」と言って矢を放つと見事に命中し、臆した伊周は外してしまい。続いて道長が「摂政・関白すべきものならば、この矢当たれ」と言って放つとやはり命中したとのことです。

勝負事にも強かった性格のようですね。現代にいたらとても頼りにされそうです。

・左大臣の時に道長は重い腰病を患ったことがあり、一条天皇に再三、辞官を請い、その時に出家の意思も伝えるが許されなかったそうで。健康を取り戻したあともほとんど政治指導にあたらず、辞官のことに関わっては宇治の山荘に遊覧して心の憂さを晴らすという状態であったこともあるらしいです。

色々な政略や気の強さで権力を欲した道長が、官職を捨て出家しようとすることもあったのは何とも意外ですよね。彼の性格の弱さを表した部分と言えるかもしれません。

それが権力を求め、文化を愛した豪胆な平安時代の政治家・道長なのでした。

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