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【日本史×三国志】川中島の戦いと諸葛亮の北伐はなぜ決着しなかった?比較「しつこすぎる戦争」

日本史の武田信玄と上杉謙信。中国史の諸葛亮と司馬懿。

時代も国も異なりますがどちらも「何度戦っても決着しなかった宿命のライバル」として語られてきました。しかし一次史料を確認するとこの比較には二つの大きな注意点があります。

一つ目は川中島の戦いが本当に「五回」だったのかは確定していないこと。二つ目は諸葛亮の五回の北伐を司馬懿がすべて防いだわけではないことです。

北伐前半で諸葛亮と戦った中心人物は、曹真・張郃・郝昭・郭淮らでした。司馬懿が本格的に登場するのは主に第四次・第五次北伐です。

実際の歴史は

信玄謙信

諸葛亮司馬懿

という一対一の決闘ではありません。多数の武将、兵士、城郭、補給担当者、そして現地住民を巻き込んだ長期的な国境戦争だったのです。

目次

川中島の戦いと諸葛亮の北伐・比較表

比較項目川中島の戦い諸葛亮の北伐
時代日本の戦国時代中国の三国時代
期間通説では1553~1564年。関連する衝突は1567~1568年にも確認される228~234年
主な場所信濃国北部・善光寺平周辺漢中・祁山・隴右・陳倉・五丈原
政治勢力甲斐武田氏と越後長尾・上杉氏、北信濃国衆蜀漢と曹魏という国家同士
通説上の回数五回。ただし史料上はそれ以上の衝突があった五回の主要遠征として整理される
主な侵攻側発端は武田氏の信濃侵攻。ただし個々の戦役では上杉軍も信濃へ進攻した一貫して蜀漢軍
主な防衛側固定できない。戦役ごとに立場が入れ替わる曹魏軍
主な指揮官武田信玄、上杉謙信。当時の名は長尾景虎・上杉政虎など諸葛亮、曹真、張郃、郝昭、郭淮、司馬懿
目的北信濃の支配、信濃国衆の帰属、勢力圏の維持「北定中原」「興復漢室」、すなわち魏打倒と漢王朝復興
戦争の規模地域大名と国衆を中心とする広域的な国境紛争複数州・郡を巻き込む国家間遠征
兵力同時代史料から総兵力を確定できない各遠征の蜀軍総数は陳寿本文では不明。裴注には個別の数字があるが全軍総数とは限らない
補給軍勢動員の困難は文書からうかがえるが、「兵糧切れで撤退」と直接記す同時代史料は乏しい第二・第四次で「糧尽」と明記。第五次では屯田を実施
主な結果武田氏の北信濃進出は覆らなかったが、上杉氏も滅ぼされなかった武都・陰平を獲得したが、魏打倒には失敗
終わり方戦略上の重点が移り、対立が次第に収束五丈原で諸葛亮が病没し第五次遠征が終了。ただし姜維が北伐を継続

川中島の一万三千対二万、五丈原の十万対数十万といった数字は同時代史料だけでは確定できませんでした(泣)。

川中島の戦いとは?

川中島の戦いは武田信玄の信濃侵攻によって圧迫された村上義清ら信濃国衆が越後の長尾景虎、後の上杉謙信に援助を求めたことから始まりました。従来は

  • 1553年
  • 1555年
  • 1557年
  • 1561年
  • 1564年

の五回とされてきました。

しかし近年の史料研究では1558年、1567年、1568年などにも関連する軍事行動が確認され「五回」という枠組みだけでは全体像を説明できないとされています。

特に激しかったのが1561年いわゆる第四次川中島合戦です。戦後に上杉政虎が家臣へ与えた感状には

「この忠功、政虎一世中忘失すべからず」

という異例の言葉が記されています。これは上杉軍が激しく戦ったことを示す一方、それほど大きな犠牲を出したことも意味します。武田側でも信玄の弟・武田信繁らが戦死しました。

つまり1561年の戦いが大激戦だったことは確かです。しかし同時代史料には、啄木鳥戦法・車懸の陣・信玄と謙信の一騎打ちといった詳しい戦闘場面は記されていません。

諸葛亮の五回の北伐とは?

諸葛亮は『出師表』でその目的を「北定中原、攘除姦凶、興復漢室、還于旧都」と述べました。単なる国境の領土争いではありません。魏を倒し漢王朝を復興して旧都へ戻るという極めて大きな政治目標だったのです。

陳寿『三国志』諸葛亮伝が記す五回の遠征を整理すると次のようになります。

第一次北伐・228年

諸葛亮は趙雲・鄧芝を囮として箕谷に置き自らは祁山へ進みました。魏の南安・天水・安定の三郡が蜀に呼応し魏国内を震撼させます。ところが馬謖が諸葛亮の命令に背いて街亭で敗北。補給路を維持できなくなった蜀軍は撤退しました。

第一次北伐を失敗させた最大の原因は司馬懿ではなく張郃と馬謖でした。

第二次北伐・228年冬

諸葛亮は陳倉を包囲しました。

陳寿本文では曹真が防いだと記され裴松之注が引く『魏略』では守将・郝昭が千人余りで防衛したとされています。郝昭は火矢で雲梯を焼き石臼を落として衝車を破壊。諸葛亮が地下道を掘ると城内から横穴を掘って迎撃しました。

二十日余りの攻防の後、諸葛亮は兵糧が尽きて撤退。ただし追撃してきた王双を撃破して斬っています。

第三次北伐・229年

陳式が武都・陰平を攻撃。魏の郭淮が迎撃しようとしましたが諸葛亮自身が建威まで進出すると郭淮は撤退しました。

蜀は武都・陰平の二郡を獲得しています。したがって「諸葛亮の北伐は五回とも完全な失敗だった」という説明は正しくありません。第三次北伐は明確な領土獲得に成功しています。

第四次北伐・231年

諸葛亮は木牛を用いて軍需物資を輸送し再び祁山へ進出しました。

ここで司馬懿が西方の魏軍を指揮します。局地戦では蜀軍が魏軍を破ったとする記録もありますが最終的には再び兵糧が尽きて撤退しました。追撃した魏の名将・張郃は蜀軍の矢を受けて戦死しています。

蜀は戦場では魏軍に損害を与えながら、兵糧の問題で作戦を完遂できなかったのです。

第五次北伐・234年

諸葛亮は流馬を使用して斜谷を通り、五丈原へ進出しました。

今回は補給難を克服するため兵士の一部に渭水周辺で屯田を行わせます。住民と混在して耕作しましたが蜀軍による略奪はなかったと陳寿は記しています。

魏の明帝・曹叡は司馬懿に対し、城壁を固め、蜀軍の鋭気をくじき、兵糧が尽きるまで待つよう命令しました。両軍は百日余り対峙しましたが諸葛亮が陣中で病没。蜀軍は撤退します。司馬懿は蜀軍の陣地を調べて、

天下の奇才なり

と評価しました。

共通点

共通点① 一度の決戦では終わらなかった

川中島も北伐も一回の戦いで相手を滅ぼす戦争ではありませんでした。川中島では十年以上にわたり、出陣・対峙・講和・再出陣が繰り返されました。諸葛亮も228年の街亭敗北後に北伐を断念せずその年の冬には早くも陳倉へ出ています。

ただし「五回対五回」という美しい対称性には注意が必要です。諸葛亮の五回は陳寿の記述から主要遠征を整理したものですが川中島の「五回」は後世の分類であり、実際にはそれ以上の軍事的衝突がありました。

共通点② 局地的に勝っても戦争には勝てなかった

1561年の川中島では上杉軍が武田本陣を激しく攻撃し武田信繁らを討ち取りました。しかし上杉軍も大きな損害を受け北信濃を恒久的に占領することはできませんでした。

諸葛亮も

  • 三郡を一時動揺させる
  • 王双を討つ
  • 武都・陰平を獲得する
  • 張郃を戦死させる

といった戦果を挙げています。それでも魏を倒すという最終目標には届きませんでした。両者とも「戦闘で成果を挙げること」と「戦争目的を達成すること」が別だったのです。

共通点③ 防衛側は大勝しなくてもよかった

侵攻側は敵地へ入り限られた期間内に城や土地を奪わなければなりません。一方、防衛側は決戦を避け、相手を疲れさせて撤退させるだけでも目的を達成できます。これは北伐で特に顕著でした。魏の明帝は司馬懿に堅く守って蜀軍の兵糧が尽きるのを待つよう命令しています。これは司馬懿個人の「臆病」ではなく魏朝廷が採用した合理的な国家戦略でした。

川中島では侵攻側と防衛側が戦役ごとに入れ替わりますが武田・上杉のどちらにも強固な本国がありました。一度野戦で打撃を受けても、甲斐や越後へ戻って軍勢を再編できます。だから一度の戦闘で敵政権を倒せなかったのです。

共通点④ 後世に「天才二人の対決」へ作り替えられた

実際の川中島では村上義清をはじめとする北信濃国衆や武田・上杉双方の家臣団が重要な役割を果たしました。北伐でも曹真・張郃・郝昭・郭淮・辛毗らが蜀軍を防いでいます。ところが後世の物語では登場人物が整理され

信玄謙信

諸葛亮司馬懿

という分かりやすい宿敵関係へ変化しました。英雄二人に物語を集中させる方が圧倒的に面白いからです。しかし史料が描く本当の強さは一人の天才ではなく、敗れても別の将軍が防衛を引き継げる組織の厚さでした。

なぜ侵攻側は勝てなかったのか?考察する

川中島の場合

川中島では「どちらが侵攻側か」を固定できません。

戦争の発端は武田信玄の信濃侵攻です。しかし1561年など個別の戦役では上杉軍が越後から信濃へ進出しています。武田側が上杉氏を倒せなかった理由は北信濃を押さえてもそのまま越後政権を崩壊させられなかったからです。上杉側が武田氏を追い出せなかった理由は野戦で損害を与えても北信濃を継続的に占領・統治する体制を作れなかったからです。

1561年の激戦では双方が大きな損害を受けました。それでも武田氏は北信濃の拠点を維持し上杉氏は越後へ帰還して勢力を保っています。つまり両者は相手を殴ることには成功しても、相手の政治基盤までは破壊できなかったのです。

北伐の場合

諸葛亮が勝ち切れなかった理由は史料から比較的明確に説明できます。

  • 第一次は馬謖の命令違反で街亭を失った
  • 第二次は陳倉城を短期間で攻略できなかった
  • 第二次と第四次は兵糧が尽きた
  • 魏には曹真・張郃・郭淮・司馬懿ら複数の指揮官がいた
  • 魏を倒して漢を復興するという目標が、局地的勝利では達成できなかった

蜀軍は決して弱くありませんでした。魏の武将を討ち二郡を獲得し、五丈原では百日以上も魏軍と対峙しています。しかし魏には城郭と複数の防衛軍そして時間がありました。

蜀軍は勝たなければならない。魏軍は負けなければよい。この条件の違いが両国の命運を分けました。

防衛側はなぜ持ちこたえられたのか?

川中島では武田・上杉の双方が本国を失わなかったことが大きな理由です。野戦で敗れても帰る場所があり家臣団を再編し次の年にもう一度出陣できました。戦場での勝敗がそのまま大名家の滅亡にはつながりませんでした。

魏の場合はさらに明確です。魏は要所に守将を配置し蜀軍を城や陣地へ引きつけました。陳倉の郝昭は正面攻撃・攻城櫓・地下道のすべてに対応しています。五丈原では明帝が司馬懿に持久戦を命じ、辛毗を派遣して不用意な出撃を抑えました。

司馬懿一人が諸葛亮の心理を読み切ったというより魏という国家が「戦わずに勝つ」方針を徹底したのです。ただし魏の防衛が完璧だったわけではありません。武都・陰平を失い、王双・張郃を失っています。魏は無傷で勝ったのではなく、損害を受けながらも国家の中枢を守ったのです。

小話考察。有名な戦法と逸話は史実なのか?

啄木鳥戦法

啄木鳥戦法とは山本勘助が武田軍を二つに分け、一隊が妻女山の上杉軍を攻撃し、山を下りたところを本隊が待ち伏せするという作戦です。

江戸時代に刊行・流布した『甲陽軍鑑』にはこの挟撃作戦に相当する記述があります。ただし川中島の該当箇所では「啄木鳥戦法」という名称は使用されていません。同時代文書には山本勘助がこの作戦を立案したという記録がありません。

市河家文書によって山本菅助という人物の実在は確認されていますがそれは『甲陽軍鑑』に描かれた天才軍師像まで証明するものではありません。

結論は「後世の軍記に記された作戦であり史実としては確認不能」です。

車懸の陣と鶴翼の陣

上杉軍が部隊を次々に交代させて攻撃する車懸の陣と武田軍が鶴翼の陣で迎撃したという話も有名です。しかし同時代の感状や書状には、この陣形名は出てきません。

さらに江戸時代の上杉系軍記『北越太平記』は上杉家には車懸の伝承がなく川中島で謙信が車懸を使用したことはないと記しています。

もちろん『北越太平記』も後世の軍記なのでその否定だけで結論は出せません。ただし「車懸が上杉家に一貫して伝わった確実な戦法だった」とは言えないことが分かります。

謙信の斬り込みと信玄の軍配

『甲陽軍鑑』には白い頭巾をかぶった騎馬武者が信玄へ三度斬りかかり信玄が軍配で防いだという話があります。後からその武者が上杉謙信だったと分かった、という構成です。

一方、1561年直後の上杉政虎感状や武田側に近い『妙法寺記』は激戦を記録していますがこの一騎打ちには触れていません。したがって

  • 1561年に激戦があったことは確実
  • 上杉軍が武田本陣付近まで攻め込んだ可能性はある
  • 謙信本人が信玄へ斬りかかったことは確認できない
  • 軍配で刀を受けた場面も後世の軍記上の描写

と分ける必要があります。

空城の計

空城の計は兵の少ない諸葛亮が城門を開き平然と振る舞うことで司馬懿に伏兵を疑わせ撤退させたという話です。この話は『三国志演義』だけの完全な創作ではありません。ここすごい。裴松之注が『蜀記』に収められた郭沖の説として引用しています。ところがどっこい裴松之自身が

  • その時期の司馬懿は荊州の宛城にいた
  • 諸葛亮と陽平で戦える位置にはいなかった
  • 兵の少なさを知りながら、確認もせず大軍が逃げるのは不自然

などの理由を挙げこの話を明確に退けています。『三国志演義』第95回は舞台を西城に移し諸葛亮が城楼で琴を弾く名場面へ発展させました。したがって空城の計は「早い時期から存在した伝説だが裴松之によって史実性を否定され、『演義』で完成した物語」とするのが適切でしょう。

女性用の衣服を司馬懿へ送った話

これは「女物の着物を送った」と説明されがちですが原文の「巾幗婦人之飾」は女性用の頭巾や装飾・婦人の装いを意味します。

陳寿『三国志』本文にはこの贈り物は記されていません。裴松之注が引く四世紀の『魏氏春秋』に諸葛亮が女性用の装飾品を贈って司馬懿を怒らせようとした話が出てきます。一方、明帝が司馬懿の出撃を許さず、辛毗を派遣したことは陳寿本文でも確認できます。つまり

  • 魏が持久戦を選んだことは基幹史料で確認できる
  • 挑発の贈り物は後出の『魏氏春秋』に見える
  • 『演義』以前から存在した伝承である
  • 箱、白い婦人服、挑発状の詳しい文面は『演義』による劇的な演出

という関係です。『三国志演義』第103回ではこの場面が長い挑発状とともに描かれています。完全な『演義』創作とは言えませんが陳寿本文だけで事実と断言もできません。

一次史料で確認できる本当の戦法

派手な伝説ばかりが注目されますが陳寿本文には実際の作戦も記録されています。

趙雲・鄧芝を使った疑兵(趙疑戦法※1)

第一次北伐で諸葛亮は斜谷から郿を狙うように見せ趙雲・鄧芝を「疑軍」として箕谷へ配置しました。魏の曹真を引きつける一方、諸葛亮の主力は祁山へ向かっています。これは一次史料で確認できる諸葛亮の本物の陽動作戦です。

陳倉の攻城戦と郝昭の防御(地下道戦法※2)

裴注引『魏略』によれば諸葛亮は雲梯・衝車・井闌・地下道など、複数の攻城手段を投入しました。対する郝昭は

  • 火矢で雲梯を焼く
  • 石臼で衝車を破壊する
  • 城内に第二の壁を築く
  • 地下道に対して横穴を掘る

という方法で対抗しました。空城の計よりもはるかに具体的で、現実的な知恵比べです。

木牛・流馬と屯田(なんで牛?)

木牛は第四次、流馬は第五次北伐の輸送に使用されたと陳寿本文にあります。ただし自動で歩く機械やロボットだったとは記されていません。人力輸送を効率化する運搬具と考えるのが自然です。

第五次北伐の屯田も史料上確実です。諸葛亮は派手な奇策だけの軍師ではありません。輸送器具を改良し現地で食料を生産し略奪を禁止することで長期駐屯を可能にしようとしました。北伐における諸葛亮最大の「戦法」は魔法のような計略ではなく兵站改革だったのかもしれません。

(※1,※2。私が適当に命名しました)

とにかくしつこい

川中島の戦いと諸葛亮の北伐には確かに共通点があります。

  • 長期間にわたり出陣が繰り返された
  • 局地戦で勝っても最終決着にはならなかった
  • 防衛側が時間を味方につけた
  • 動員と補給が作戦を制約した
  • 後世に二人の英雄の一騎打ちとして再構成された

一方で大きな違いもあります。

川中島は北信濃をめぐる大名・国衆間の争いであり侵攻側と防衛側が入れ替わりました。北伐は蜀漢が魏へ仕掛けた国家間遠征であり、魏を倒して漢を復興するという巨大な政治目標を掲げていました。

史料を読み終えて最後に残る感想は一つです。しつこい((笑))。本当に驚くほどしつこい。

一度負けて終わりではありません。街亭で大敗してもその年の冬には再び陳倉へ向かう。兵糧が尽きても木牛を作り、流馬を作り、最後には敵地で畑まで耕す。

信玄と謙信も講和しては再び兵を集め十年以上も北信濃の国境へ戻ってきます。もちろんその執念の陰では兵士と領民が大きな負担を背負いました。単純に美談として片付けることはできません。それでも失敗しても再び準備し方法を変え、もう一度同じ相手へ挑む姿には、理屈だけでは説明できない凄みがあります。

彼らが歴史に残ったのは無敗だったからではありません。何度押し返されても目的を捨てなかったからです。その途方もないしつこさこそ川中島と北伐を今も忘れられない戦いにしているのでしょう。

参考文献

  • 上杉政虎感状・現存原本
  • 『妙法寺記』川中島合戦記事
  • 陳寿『三国志』巻3・明帝紀
  • 陳寿『三国志』巻25・辛毗伝
  • 陳寿『三国志』巻35・諸葛亮伝
  • 陳寿『三国志』巻44・姜維伝
  • 裴松之注引『魏書』『魏略』など(引用元を明記した部分のみ)

参考資料

  • 『甲陽軍鑑』
  • 『北越太平記』
  • 裴松之注引『蜀記』郭沖説
  • 裴松之注引『魏氏春秋』
  • 『三国志演義』第95回・第103回
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