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【中世後期】ジル・ド・レとは何者か?ジャンヌ・ダルクの戦友が怪物と呼ばれた理由

フランス史には、まるで光と闇を一人で背負ったような人物がいます。それがジル・ド・レです。

百年戦争ではジャンヌ・ダルクと共に戦い、オルレアン解放にも関わった有力貴族。その功績によってフランス元帥にまで任じられた人物です。しかし晩年の彼は、子供たちを誘拐・虐待・殺害したとして裁かれ、1440年に処刑されました。

英雄なのか。怪物なのか。それとも、その両方だったのか。

今回は、ダグラス・O・リンダーによる「The Trial of Gilles de Rais (1440): An Account」と、そこに引用された裁判記録・自白内容をもとに、ジル・ド・レの生涯と裁判を見ていきます。

なお、この記事ではこの記録で確認できる内容だけを扱います。正確な被害者数やジル・ド・レの内面について断定できない部分は「不明」とします。

目次

ジル・ド・レとは?

ジル・ド・レは1404年、フランス北西部のシャンプトセで生まれました。父方・母方ともに有力な封建貴族の家系で、周囲は城塞と領地を持つ大領主ばかりでした。つまり彼は、最初からかなり恵まれた身分に生まれた人物です。

幼少期には司祭からラテン語や読み書きを教わったとされます。しかし1415年、母と父が相次いで亡くなり、彼の人生は大きく変わります。本来、父の遺言では教育方針を別の親族に任せる意向だったようですが、実際には祖父ジャン・ド・クランのもとで育てられました。

この祖父について、記録では「抜け目ないが、無法で残酷な人物」とされています。ジル自身も晩年、自分の悪行について、幼少期の放任や怠惰な生活に原因があったように語っています。ただし、これは本人の弁明でもあるため、どこまで本心だったかは不明です。

ジャンヌ・ダルクと共に戦った英雄

ジル・ド・レが確実に名を上げたのは、軍事の世界でした。

1427年頃から軍事活動に関わり、イングランド軍との戦いで功績を挙げます。そして1429年、フランスを救う少女として登場したジャンヌ・ダルクと同じ戦場に立つことになります。

記録によれば、ジル・ド・レはジャンヌがオルレアンへ向かう際、護衛部隊の指揮官の一人として登場します。その後、オルレアン包囲戦の解放に関わり、ジャンヌと共にロワール方面の作戦にも参加しました。

この功績によって、ジル・ド・レはフランス元帥の位を与えられます。元帥は非常に高い軍事的名誉です。この時点のジル・ド・レは、間違いなくフランス王国側の英雄の一人でした。

しかし、後の裁判記録を知ったうえでこの時代を見ると、あまりにも落差が大きい。ジャンヌの隣で戦った人物が、なぜこんな結末へ向かってしまったのか。そこがジル・ド・レという人物の恐ろしさであり、気味の悪さでもあります。

↓ジャンヌダルクと仲間たち↓

戦争から離れ、浪費へ沈む

1432年に祖父が亡くなると、ジル・ド・レはさらに莫大な財産を相続します。しかし、その財産は急速に失われていきました。記録では、彼は多くの従者、武装兵、聖職者、歌手、占星術師などを引き連れ、豪華な生活を送っていたとされます。ナントへ出向く際には、200人規模の護衛を連れていたとも書かれています。

さらに宗教行事や演劇にも多額の費用を使いました。オルレアン解放を記念する祝祭では、役者の衣装を毎回新調し、観客には酒や食べ物を振る舞ったとされます。

この浪費ぶりに、家族は危機感を抱きます。1435年には、シャルル7世がジル・ド・レに対し、財産売却などの契約を制限する命令を出しました。

つまり、彼はただの豪華好きではありません。周囲が止めに入るほど、危険な勢いで財産を失っていたのです。

子供たちの失踪

記録によれば、1432年または1433年頃から、子供たちの失踪が始まったとされています。行方不明になった子供の多くは、ジル・ド・レの城や屋敷の近くで最後に目撃されていました。

  • ある子は施しを求めて城門へ向かった。
  • ある子は使いとして城へ行った。
  • ある子は森で遊んでいた。
  • ある子は家畜の世話をしていた。

そして、そのまま帰ってこなかった。親たちはジルの従者たちに尋ねます。しかし「そのうち戻るだろう」と言われるだけだったようです。

ここで重要なのは、被害者の多くが貧しい子供たちだったことです。一方のジル・ド・レは大貴族であり、兵を抱えた権力者でした。この記録から見えるのは、単なる猟奇事件だけではありません。「強い身分の人間に、弱い立場の子供たちが踏みにじられた」という構図です。

これが本当に胸糞悪いところです。中世だから仕方ない、では済まされません。親たちは子供を失い、泣きながら訴えたはずです。でも相手が大貴族である限り、その声は簡単には届かなかったのです。

悪魔召喚と錬金術への傾倒

ジル・ド・レは、財産を失っていく中で悪魔召喚や錬金術にも強く関心を持つようになります。

記録にはフランソワ・プレラーティというイタリア出身の人物が登場します。彼はジルのもとで悪魔召喚を行ったとされる人物です。

ジル・ド・レは、悪魔から知識・力・富を得ようとしていたと供述しています。ただし、本人は「自分は悪魔を見たことも話したこともない」と語っています。

ここは断定できる部分とできない部分を分ける必要があります。

確実なのは、裁判記録上、ジル・ド・レが悪魔召喚を試みたと自白していることです。一方で、本当に悪魔を見たかどうかは当然ながら不明です。むしろ本人は見ていないと述べています。

また、悪魔召喚のために子供の身体の一部を捧げようとした、という非常に重い供述も記録されています。この部分は、裁判記録上の自白として扱うべきでしょう。

逮捕のきっかけは殺人ではなかった

皮肉なことに、ジル・ド・レが破滅へ向かう直接のきっかけは、子供たちの実は失踪事件ではありませんでした。

彼は資金難から、サン=テティエンヌ=ド=メルモルトの城を売却します。しかし後になってその売却を後悔し、力ずくで取り戻そうとしました。

この時、城を管理していたジャン・ル・フェロンという聖職者を教会から連れ出し、監禁したとされています。聖職者への暴力と監禁。これは教会権力に対する重大な侵害でした。

つまり、ジル・ド・レを本格的に追い詰めたのは、子供たちへの犯罪そのものというより、権力者や教会関係者に対する明確な侵害だったのです。ここにまた、当時の身分社会の冷たさを感じます。

多くの子供が消えても動かなかった社会が、聖職者が被害を受けた瞬間に大きく動き出す。この差は、読んでいてかなり苦しいです。

教会裁判と世俗裁判

1440年9月15日、ジル・ド・レは逮捕されます。

彼はナントへ連行され、二つの裁判にかけられました。一つは世俗裁判。こちらでは、子供たちの殺害やジャン・ル・フェロンへの暴行・監禁が扱われました。

もう一つは教会裁判。こちらでは、子供の殺害に加えて、悪魔召喚や異端行為も問題にされました。教会裁判では、49項目からなる告発文が読み上げられます。そこには、多数の子供を殺害したこと、悪魔を呼び出そうとしたこと、聖職者の特権を侵害したことなどが含まれていました。

ジル・ド・レは最初、教会裁判の権威を拒否します。しかし破門を宣告されると態度を変え、謝罪して裁判権を受け入れました。ここから彼の立場は一気に崩れていきます。

証言と自白

裁判では多くの親たちが証言しました。

  • 「子供が城へ行ったまま戻らなかった」
  • 「ジルの従者に連れていかれた」
  • 「行方不明になった子供の親たちは報復を恐れて声を上げられなかった」

こうした証言が次々に出てきます。さらに、ジル・ド・レの従者であるアンリエ、ポワトゥ、そしてフランソワ・プレラーティらも証言しました。彼らの証言は、ジル・ド・レの犯罪を具体的に示すものだったとされています。

10月20日、証言が終わった後、検察側はジルに対して、真実を明らかにするため拷問を用いる権限があると告げます。
その後、ジル・ド・レは全面的な自白に応じました。

ここは非常に重要です。

確実なことは、裁判記録上、ジル・ド・レが自白したことです。ただし、その直前に拷問の可能性が示されていたことも記録されています。したがって、現代的な意味で「完全に自由な自白だった」とまで断定するのは危険です。

一方で、この記録だけを見る限り、親たちの証言、従者たちの証言、本人の自白が揃っており、少なくとも裁判記録上はジル・ド・レの罪を強く示す構成になっています。

被害者数は不明

ジル・ド・レの被害者数については、記録中でも「正確な数は不明」とされています。解説部分では、最大で200人とも言われる一方で、それより大幅に少ない可能性もあるとされています。また、自白の中でもジル自身が「何人殺したか確実には分からない」と述べています。

そのためこの記事では「200人を殺害した」とは断定しません。

断定できるのは、裁判記録上、多数の子供が被害に遭ったとされ、ジル自身も人数を特定できないほど多くの子供を殺害したと認めている、という点までです。

ジル・ド・レの最期

1440年10月、ジル・ド・レは有罪判決を受けます。

刑は絞首刑と火刑でした。10月26日、ジル・ド・レはアンリエ、ポワトゥと共に処刑場へ向かいました。処刑場には多くの群衆が集まり、祈りや聖歌が唱えられていたとされます。

ジルは処刑前に群衆へ許しを乞いました。そして絞首刑に処され、遺体は火にかけられました。ただし、彼の遺体は途中で火から取り出され、棺に納められたと記録されています。その後、ナントの教会に埋葬されました。

アンリエとポワトゥも処刑され、遺体は焼かれました。

本当に有罪だったのか?

この問題については、慎重に分けて考える必要があります。

この記録から断定できることは、ジル・ド・レが多数の子供の殺害、性的暴行、悪魔召喚への関与を裁判で認めたことです。また、親たちや従者たちの証言もあったことが確認できます。

一方で、現代の裁判基準で見た場合に、この裁判がどこまで公平だったのかは不明です。拷問の可能性が示された後に自白している点も、慎重に見る必要があります。

また、政治的思惑や財産問題が裁判に影響したかどうかも、この記録だけでは断定できません。ただし、この記録のみを根拠にする限り、「完全な冤罪だった」と言い切る材料はありません。少なくとも記録上は、多数の証言と本人の自白が重なっています。

整理すると

断定できること。ジル・ド・レは1440年に裁かれ、複数の証言と本人の自白により有罪とされ、処刑された。

推測にとどまること。戦争体験や幼少期の放任が、後の犯罪に影響した可能性。

不明なこと。正確な被害者数、内面の本当の動機、裁判の完全な公平性、政治的思惑の有無。

まとめ:一番苦しいのは、英雄の転落ではなく子供たちの沈黙

ジル・ド・レの人生は、あまりにも極端です。

  • ジャンヌ・ダルクと共に戦った英雄。
  • フランス元帥にまでなった大貴族。
  • 莫大な財産を持ち、城と兵を抱えた特権階級の男。

その一方で、裁判記録に残された彼は、多くの子供たちを犠牲にした人物として描かれています。正直、読んでいて一番きついのは、ジル・ド・レが「英雄から怪物に落ちたこと」ではありません。一番きついのは、消えていった子供たちです。

  • 施しを求めただけの子。
  • 使いに出されただけの子。
  • 遊んでいただけの子。
  • 親のもとへ帰るはずだった子。

そして、帰ってこない子供を探し続けた親たち。

彼らは貴族でも英雄でもありません。歴史の主役として名前が残る人々ではありません。だからこそ、踏みにじられた時に声が届かなかったのだと思うと、本当にやりきれません。

ジル・ド・レを語る時、「ジャンヌの戦友が殺人鬼になった」という落差に注目しがちです。もちろんそれも大きな衝撃です。

でも本当に見るべきなのは、権力を持つ人間が、弱い立場の人々をどれほど簡単に消せてしまったのかという現実です。

この記録がすべて真実なら、ジル・ド・レは英雄などではありません。かつて英雄だったとしても、その後の罪が消えるわけではありません。

そして、たとえ裁判の細部に不明点があるとしても少なくともこの記録には、子供を失った親たちの悲痛な声が残っています。「なぜ、もっと早く止められなかったのか」そう思わずにはいられません。

参考資料・出典

  • ダグラス・O・リンダー「ジル・ド・レ裁判 1440年:解説」原題:Douglas O. Linder, “The Trial of Gilles de Rais (1440): An Account”(2024年)
  • ジョルジュ・バタイユ『ジル・ド・レ裁判』原題:Georges Bataille, The Trial of Gilles de Rais英訳:リチャード・ロビンソン Amok Books, 2004年
  • 「ジル・ド・レの教会裁判における自白」1440年10月22日、ナントでの教会裁判記録
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