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【戦国】茶々(淀殿)はなぜ悪女と呼ばれた?一次史料で実像と最期を解説

豊臣家を滅ぼした悪女」「徳川家康に逆らい大坂城を炎上させた女」。茶々。のちの淀殿にはずいぶん派手な評判がつきまといます。

しかし同時代の記録を読むとそこに現れるのは最初から戦国最後のラスボスだった女性ではありません。秀吉の手紙に「おちゃちゃ」と呼ばれわが子の乳や食事を心配される母親。豊臣秀頼の成長を見守り豊臣家の存亡が懸かった場面では使者を送り交渉に関わった政治的な母親です。

今回は『信長公記』『多聞院日記』、秀吉の自筆書状『時慶卿記』、関ヶ原直前の「内府ちかひの条々」『舜旧記』『当代記』『駿府記』など確認できる一次史料を軸に茶々の生涯を追います。後世の軍記やドラマはいったん脇へ置きましょう。一次史料も万能ではありませんが少なくとも「誰が、いつ、何を書いたか」は確かめられます。


目次

茶々の生年はじつは確定できない

茶々は浅井長政の娘で、母を織田信長の妹・市とする女性です。ただし、今回確認した同時代史料から正確な生年を決めることはできません。「永禄十二年(一五六九)生まれ」「小谷城落城時は五歳」と断定する書き方は、史料に対して少し勇み足です。

呼び名にも注意が必要です。秀吉の手紙では「おちゃちゃ」。文禄二年(一五九三)に男子を産んだ女性を『時慶卿記』は「浅井氏女」と記し、大坂落城を記す『駿府記』は「御母儀、淀殿と号す」と書きます。茶々、浅井氏の娘、秀頼の母、淀殿。同じ女性でも、史料の書き手と場面によって呼び方が変わるのです。

『信長公記』が記す浅井家の滅亡

天正元年(一五七三)、織田信長は小谷城を攻めました。『信長公記』は羽柴秀吉が京極丸へ攻め込み浅井久政と長政の間を遮断したこと久政が切腹し翌日には長政も追い詰められたことを記しています。さらに長政の嫡男は捜し出され、関ヶ原で磔にされたとあります。

ただしこの条に幼い茶々の姿は出てきません。燃える城を見て何を思ったか誰に抱えられて脱出したか―そこまで書けば物語としては劇的ですが史料が沈黙している以上、事実としては語れません。確実なのは父と浅井家の男子が滅ぼされた一方、茶々が生き延び、のちに秀吉の書状に現れることです。


「淀」の御内に生まれた最初の男子

茶々が秀吉の子を産んだころの様子は『多聞院日記』に見えます。天正十七年(一五八九)二月、日記は大和大納言・豊臣秀長が淀で普請を進めていることを記し同年五月末には「関白殿ノ淀ノ御内」に男子が誕生したと伝えています。この男子がのちに鶴松と呼ばれる秀吉の子です。

淀の屋敷と男子誕生が同時代の日記に並ぶため茶々と「淀」の結びつきは確かです。ただし日記そのものが「この日から淀殿と呼ばれた」と説明しているわけではありません。ここも史料に書かれた範囲と後世の説明を分けたいところです。

鶴松は天正十九年(一五九一)八月に幼くして亡くなります。秀吉と茶々が手にした最初の男子は後継者として育つ前に失われました。

秀吉の手紙に残る「おちゃちゃ」と子育て

文禄二年(一五九三)八月、『時慶卿記』は「浅井氏女」が男子を産んだと記します。欄外にはこの男子がのちの秀頼であることが注記されています。

秀吉が「おちゃちゃ」へ送った手紙には天下人の公文書からはこぼれ落ちる家庭の空気が残っています。ある手紙では幼い「おひろい」に乳をよく飲ませるよう念を押し、茶々にも飯を食べ、物事を気に病まないよう伝えています。別の手紙では、乳が足りなければ乳母の乳で補ってもよい、と書きました。鷹の鳥や蜜柑を贈ったこと、灸をすえないよう注意したことも記されています。

秀頼は、最初から歴史教科書の「豊臣家の後継者」だったわけではありません。よく遊んでいるか、乳は足りているか、風邪をひかせていないかと案じられる小さな「おひろい」でした。そして茶々もまた遠くから政権を操る謎の悪女ではなく、その子のそばにいる母として手紙を受け取っています。


『多聞院日記』の風聞は事実ではなく「噂の記録」

秀吉の死後、茶々をめぐる奇妙な風聞も現れます。慶長四年(一五九九)九月十七日、『多聞院日記』は秀吉の書き置きによって秀頼の母と家康が祝言を挙げた、大野治長が秀頼の母を連れて高野山へ行った、という話を記しました。

衝撃的ではありますが日記は「由候」「云々」という伝聞の形で書いています。他の確認できる一次史料による裏づけもありません。この条から分かるのはそうした噂が奈良まで流れていたことだけです。家康との結婚や大野治長との特別な関係が事実だった証拠にはできません。

一次史料だから全部が真実、というわけではない。ここは歴史を読むうえでかなり大切なポイントです。同時代の日記は事実だけでなく当時の人が信じた噂まで保存してしまうタイムカプセルなのです。


関ヶ原―茶々は「西軍の首謀者」だったのか

慶長五年(一六〇〇)七月、長束正家・増田長盛・前田玄以らが連署した「内府ちかひの条々」は、徳川家康の行為を秀吉の遺命に背くものとして列挙し、秀頼への忠節を掲げました。少なくとも西軍側は、この戦いを「徳川対豊臣」という単純な構図ではなく幼い秀頼と豊臣政権を家康の違反から守る戦いとして正当化していたことが分かります。

ここで重要なのはこの文書に茶々の署名がなく茶々の命令とも書かれていないことです。だからといって、彼女に何の影響力もなかったとまでは断定できません。しかし少なくとも、茶々を西軍の首謀者とする説明を、この一次史料で裏づけることはできません。

関ヶ原後も秀頼は大坂城にいました。慶長八年(一六〇三)七月二十八日、『舜旧記』は「今日、大坂秀頼御祝言、江戸大納言御娘也」と記します。家康の孫・千姫との婚礼です。慶長十六年(一六一一)三月には、秀頼が二条城で家康と会見したことを『当代記』が伝えています。豊臣と徳川の関係は、関ヶ原の翌日にただちに断絶したわけではありません。


方広寺鐘銘事件と政治の表に出る秀頼の母

慶長十九年(一六一四)、方広寺大仏殿の鐘銘が問題になりました。『駿府記』に収められた銘文には、たしかに「国家安康」「君臣豊楽」の文字があります。同じ『駿府記』はこれを「関東不吉之語」として問題視します。

ただし『駿府記』は家康のいる駿府側の記録です。文字が刻まれていたことと豊臣方に家康を呪う意図があったことは別問題でしょう。この史料が確実に示すのは徳川側が鐘銘を不吉な文言として受け取り、交渉材料にしたことです。

大坂冬の陣が始まると茶々の政治的な存在感ははっきりします。『駿府記』慶長十九年十二月十五日条には、大坂から戻った使者の報告として「城中悉く秀頼御母儀の命を受く」とあります。これは徳川側が記録した報告なので割り引いて読む必要はありますが、少なくとも徳川方が秀頼の母を大坂方の重要な意思決定者と見ていたことは確かです。

同月、茶々の妹・常高院と家康の側近・阿茶局が和議を進めました。和睦後、『駿府記』は大坂城の堀・櫓・門が次々に壊され、本丸だけが残る状態になったと記します。翌慶長二十年三月には、茶々が二位局・大蔵卿局らを使者として駿府へ送り、秀頼の書状や贈り物を届けています。

つまり茶々は、ただ「和睦を拒否した人」ではありません。使者を立て、妹を交渉役にし秀頼とともに徳川方へ訴えを続けた当事者でした。交渉が決裂して夏の陣へ至った原因を茶々一人の頑固さで説明するのは無理があります。


大坂落城―「自害を選んだ」だけでは語れない最期

慶長二十年(一六一五)五月七日、大坂城は炎上しました。『駿府記』によれば、大野治長は使者を送り秀頼と母の命が助けられるなら、自分たちは切腹すると申し出ています。最初の返答には助命の余地も残されていました。

しかし翌八日、徳川秀忠は秀頼らに切腹させるよう命じました。同書はその後、「従一位右大臣秀頼公」「御母儀、淀殿と号す」らが自害したと記します。茶々と秀頼の死を追い詰められた母子が自分から望んだ結末のように語ることはできません。助命の申し出が退けられ切腹命令が出された末の死でした。

淀殿は本当に悪女だったのか?

今回確認した史料から茶々が秀次を陥れたことも関ヶ原の西軍を動かしたことも意地だけで和睦を拒んで豊臣家を滅ぼしたことも証明できません。

その一方で茶々が政治に無関心な母親だったとも言えません。大坂の陣のころには城中の意思決定に関わり、使者を送り、秀頼の地位と大坂城を守ろうとしていました。彼女を無力な被害者だけにしてしまうのも、史料が示す姿とは違います。

秀吉の手紙にいる「おちゃちゃ」は、わが子の乳や食事を気遣われる母でした。『駿府記』の「淀殿」は、徳川方が無視できない交渉相手であり、最後には秀頼とともに切腹を命じられた女性です。その間に何を思い、なぜ一つ一つの判断をしたのか。本人の日記が残らない以上、心の内まで断定することはできません。

それでも後世の「悪女」という二文字より、同時代史料に残る彼女の方がずっと人間らしい。父の家が滅び、最初の子を失い、秀吉の死後は幼い秀頼を中心に動く政局へ放り込まれ、最後までその子と同じ城にいた人です。豊臣家を滅ぼした女というより、滅びゆく豊臣家で秀頼の母であり続けた人。史料から見える茶々はそんな女性ではないでしょうか。

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参考文献

  • 太田牛一『信長公記』小谷城攻めの条
  • 桑田忠親『太閤の手紙』(秀吉「おちゃちゃ」宛書状)
  • 『多聞院日記』天正十七年・天正十九年条
  • 西洞院時慶『時慶卿記』文禄二年秋
  • 「内府ちかひの条々」慶長五年七月十七日
  • 梵舜『舜旧記』
  • 『当代記』
  • 『駿府記』
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