三国志正史に刻まれた「知略と忠義の女傑」
三国志には多くの英雄が登場しますが、女性の記録は決して多くありません。その中で、強烈な存在感を残している女性がいます。それが王異です。
ただしまず注意しておきたい点があります。王異の詳しい記録は、陳寿『三国志』の本文に大きく立伝されているわけではありません。確認できる中心資料は、『三国志』魏書二十五・楊阜伝の裴松之注に引かれた、皇甫謐『列女伝』です。
つまり王異は「正史本文で大きく語られた女性」というより、裴松之注が引用した『列女伝』によって、強烈な人物像が伝わった女性です。
王異とは何者か
裴松之注に引かれた皇甫謐『列女伝』によれば、王異は趙昂の妻です。本文では「趙昂妻異者……王氏女也」とされ、王氏の娘であったことが分かります。
夫の趙昂は、のちに馬超と対立する人物です。王異はその妻として、ただ家庭内にいた女性ではなく、乱世の危機において夫の判断や軍事行動に深く関わった人物として描かれています。
この時点でかなり珍しい記録です。三国志の女性というと婚姻関係や血縁関係だけで名前が出ることも多いですが王異の場合は「何を考え、どう行動したか」まで比較的詳しく残っています。

梁双の反乱と王異の絶望
王異の前半生で最も重い出来事が、梁双の反乱です。
趙昂が羌道県令だった時、王異は西方の地に残されていました。そこへ同郡の梁双が反乱を起こし西城を攻め破ります。この時、王異は二人の息子を殺されてしまいました。王異のそばには、六歳の娘・英だけが残されていました。王異は辱めを受けることを恐れ、自害しようとします。しかし、幼い娘を見て思いとどまります。
「私が死ねば、この子は誰を頼ればよいのか」
王異はそう考えました。そして、あえて汚れた麻布を身にまとい、食事を減らして体を痩せ衰えさせ、春から冬まで耐え抜きます。美しさを消し、自分を守るために身を汚す。かなり凄惨な場面です。これは華やかな女傑伝ではありません。王異の強さは、きれいな武勇ではなく、乱世の中で生き残るための切実な判断として描かれています。
一度は死を選ぼうとした王異
やがて梁双は州郡と和睦し王異は危機を免れました。夫の趙昂は役人を遣わして王異を迎えさせます。しかし官舎の近くまで来たところで、王異は娘の英に語ります。自分は乱に遭いながら死ぬことができなかった。これでどうして親族の女性たちに顔向けできようか。そう述べたうえで、毒薬を飲みました。
ただし、その場に解毒に効く薬湯があり、人々が王異の口を開かせて飲ませたため、しばらくして王異は蘇生します。現代の感覚では理解しにくいほど、節義や貞節を重く見る価値観が出ています。ただ、ここで重要なのは、王異がただ死を選んだ人物ではないことです。娘のために一度は生き、危機を脱した後に自らの節義を問題にする。この複雑さが、王異という人物を印象深くしています。
馬超の冀城攻めと王異の行動
建安年間、趙昂は参軍事となり冀城に移りました。そこへ馬超が攻め寄せます。
皇甫謐『列女伝』によれば、王異は自ら布の腕覆いを身につけ、趙昂を助けて守備にあたりました。さらに、自分が身につけていた玉飾りや刺繍のある衣服を外し兵士たちへの褒美としました。
ここは王異の印象が大きく変わる場面です。彼女は単に夫を励ましただけではありません。城を守る現場に関わり、兵士の士気を支えるため自分の財物まで投げ出しています。ただしこの資料だけでは、王異本人が武器を持って前線で戦ったとまでは断定できません。分かるのは、守備に関わり、兵士を支援したということです。
降伏に反対した王異
馬超の攻撃が激しくなると、城内は飢え苦しみました。刺史の韋康は、官吏や民の傷ついた様子を哀れみ、馬超と和睦しようとします。趙昂はそれを止めようとしましたが、聞き入れられません。帰って王異に話すと王異は言います。
援軍が来ないと、どうして分かるのか。今は兵を励まし、節義を全うして死ぬべきであり、馬超との和睦に従ってはならない。
かなり厳しい言葉です。王異は、目の前の苦しさよりも、馬超に屈することの危険を見ていました。結果として、韋康は馬超と和睦します。しかし馬超は約束を破って韋康を殺害しました。この流れを見ると、王異の判断は非常に冷静だったと言えます。

馬超の妻・楊氏との交流
馬超は趙昂を自分の配下として使おうとしますが完全には信用していませんでした。そこで重要になるのが王異の行動です。
馬超の妻・楊氏は、王異の節義ある行いを聞き王異を招いて宴をしました。王異は趙昂を馬超に信用させるため、楊氏に対して、管仲や由余の故事を引きながら、人材を得ることの大切さを語ります。楊氏は深く感心し、王異を信用しました。その結果、趙昂も馬超から信用を得ることになります。
記録では、趙昂が功を成し、禍を免れたのは王異の力であった、とされています。ここはかなり重要です。王異は精神論だけの人物ではありません。相手の妻との関係を利用し、夫の立場を守り、計略を進める知略も持っていたと描かれています。
息子を犠牲にしても忠義を選ぶ
その後、趙昂は楊阜らとともに馬超討伐の計画を立てます。しかし問題がありました。趙昂の嫡子・趙月が馬超側に人質として取られていたのです。趙昂が「月をどうすればよいか」と王異に相談すると、王異は厳しい声で答えます。
忠義こそ身を立てる根本であり、君主と父祖の恥をすすぐためなら、命を失うことすら重く見るに足りない。まして一人の子のことなど、どうして重く見ようか。
現代人として読むとここは非常につらいです。母親として冷たいというより乱世の価値観の中で「家族の命」と「忠義」を天秤にかけ、後者を選んだ場面です。
結果として趙昂たちは城門を閉じ、馬超を追い出します。馬超は漢中へ逃れ張魯から兵を得て戻ります。王異は再び趙昂とともに祁山を守り、三十日後に救援軍が来て包囲は解けました。しかし、馬超はついに趙月を殺しました。
王異のすごさとは
王異のすごさは、単に「強い女性だった」という一言では片づけられません。
梁双の反乱では娘を守るために生き延びました。馬超の冀城攻めでは夫を助けて守備に関わり、自分の財物を兵士に与えました。馬超との和睦には反対し、結果的にその危険性は現実になります。さらに楊氏との関係を利用して、趙昂が馬超に信用されるよう動きました。
そして、息子が人質に取られている状況でも、馬超討伐を止めませんでした。この記録の最後には冀城の難から祁山の戦いに至るまで、趙昂が九つの奇策を出し王異はそのたびに参与した、とあります。つまり王異は夫の背後にいた受け身の妻ではありません。少なくとも皇甫謐『列女伝』では、趙昂の判断と行動を支え、ときに導いた存在として描かれています。
最後に
王異は、趙昂の妻として『三国志』魏書二十五・楊阜伝の裴松之注に引かれた皇甫謐『列女伝』に登場する女性です。
彼女は梁双の反乱で息子を失い、娘を守るために生き延びました。その後、馬超の冀城攻めでは夫を助け、兵士を励まし、降伏に反対し、さらに馬超の妻・楊氏との関係を利用して趙昂の信用を得るよう働きました。最後には、息子・趙月が人質に取られていても、馬超討伐を支持します。
かなり重い人生です。正直、読んでいて胸が苦しくなる部分もあります。王異はゲーム的な「美しい女武将」というより、乱世の現実の中で、家族を失いながらも判断し続けた女性として記録されています。
なお、王異については他の資料も探しましたが、王異本人を詳しく語る確実な資料はほとんど見つかりませんでした。だからこそ、この記事では無理に話を広げず、『三国志』魏書二十五・楊阜伝の裴松之注に引かれた皇甫謐『列女伝』のみを根拠にしました。
王異は、資料の量こそ多くありません。しかし残された記録の濃さは、三国志の女性人物の中でも屈指だと思います。


参考文献
- 『三国志』魏書二十五・楊阜伝
- 裴松之注引 皇甫謐『列女伝』


