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【戦国】を飲み込んだ「茶々」という存在――淀殿は本当に悪女だったのか?

戦国時代の女性で、「名前だけは知ってるけど中身はよく知らない」ランキング上位に入りそうなのが、豊臣秀吉の側室・茶々、後の淀殿です。しかし彼女の人生を追うと、むしろ「こんな環境でまともな精神を保てる方がおかしい」というレベルで波乱万丈で。そりゃ徳川とも戦うわ。

今回は、そんな茶々の人生を、国立国会図書館で確認できる資料を中心に追っていきます。


目次

茶々は“織田信長の姪”

茶々は1569年頃、浅井長政とお市の方の長女として生まれました。つまり母は織田信長の妹です。戦国界でもトップクラスの血筋です。しかしその幼少期はかなり悲惨だった。父・浅井長政は、叔父である信長を裏切り、最終的に小谷城で滅亡します。茶々はまだ幼い少女だった。5歳前後で父親の城が燃えて一族滅亡とは幼心に何を思ったのでしょうか。その後、母・お市は柴田勝家と再婚。しかし賤ヶ岳の戦いで勝家も敗北し、お市は自害。茶々は再び敗者側になった。しかも、その勝者が豊臣秀吉である。


なぜ秀吉は茶々を側室にしたのか?

秀吉は後に茶々を側室として迎えます。年齢差はかなり大きい。戦国時代でもだいぶ年の差である。ただしこれは単純な恋愛だけではなく、政治的意味も大きかった。茶々は浅井・織田の血を引く超名門。秀吉にとって、その血統を取り込む価値は非常に高かった。さらに秀吉には長く男子がいなかった。そして1593年、茶々は秀頼を出産する。これによって状況が激変した。


秀頼誕生で豊臣政権が揺れる

秀吉は秀頼を溺愛しました。『豊太閤真蹟集』には、秀頼誕生を喜ぶ秀吉の手紙が収録されています。 そこでは秀吉が秀頼について「ひろいひろいと可申候」と喜んでいる記録が残る。 テンションが完全に初孫を抱いたおじいちゃんで微笑ましい。しかしこの秀頼誕生が、逆に豊臣政権を不安定にしました。なぜなら、それ以前は甥の豊臣秀次が後継者候補だったからです。。

ところが秀頼誕生後、秀次は粛清されます。秀次の関係者もろとも。この事件はやりすぎな面もあり豊臣政権内部に深い亀裂を生みました。後世では「茶々が秀次を排除した」と語られることも多いですが。近年では、秀吉自身の意思が大きかったとする研究も強いようです。


淀殿は本当に“悪女”だったのか?

江戸時代以降、淀殿はしばしば「豊臣家を滅ぼした悪女」と描かれました。徳川側から見ると、

  • 和睦を拒否した
  • 大坂城に籠城した
  • 秀頼を戦わせた

など、危険人物に映ったからのようです。しかし現代研究では評価が変わっていまして。小和田哲男『北政所と淀殿』では、単純な悪女像では説明できないことが指摘されています。 そもそも茶々は

  • 父を失い
  • 母を失い
  • 一族を何度も滅ぼされ
  • 最後は息子の命まで狙われる

という人生を送っている。むしろ徳川を信用しろという方が無理である。と。


大坂の陣、そして最期

1615年、大坂夏の陣。豊臣家は滅亡します。茶々と秀頼は大坂城で自害したとされます。近世の軍記物では、茶々は執念深い女性として描かれることも多いですが。しかし実際には、豊臣家最後の防波堤として行動していた面も強いと思われます。もし彼女が徹底抗戦を選ばなければ、豊臣家はもっと早く消えていた可能性もあるのです。

戦国最後のラスボスみたいに扱われるけど、実際は追い詰められ続けた不幸続きの人です。やっとできた息子を幸せにしてあげられるなら。おなかを痛めた自分の息子に天下を継がせたいとどんな母親でも思うでしょう。なんかこの人、報われなくて泣けてくる。下のイラストは長政、お市、茶々のイメージ。


書籍・資料

  • 『北政所と淀殿 : 豊臣家を守ろうとした妻たち』
  • 『豊太閤真蹟集』
  • 『淀殿 われ太閤の妻となりて』
  • 国立国会図書館デジタルコレクション
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