MENU

【戦国】作者不明!(古典名)平蜘蛛茶釜とは?松永久秀の最期に焼失した名物釜

平蜘蛛茶釜を松永久秀の最期に焼失した名物釜を史料から考察

平蜘蛛(ひらぐも)といえば、松永久秀が織田信長への引き渡しを拒み、最期に茶釜を叩き割って爆死した――という派手な伝説で知られています。

しかし、本当にそこまで史料に書かれているのでしょうか。

今回確認するのは、『山上宗二記』『信長公記』『多聞院日記』の三つです。先に結論を述べると、『山上宗二記』には、平蜘蛛が松永久秀の最期のときに火中して失われたと記されています。一方、平蜘蛛を叩き割った、火薬を用いて爆死した、信長が引き渡しを迫ったという具体的な場面は、今回確認した三史料の本文からは確認できません。

松永久秀が所有したと伝わる平蜘蛛茶釜のイメージ
目次

平蜘蛛茶釜について史料から分かること

『山上宗二記』の「名物の釜の数」には、平蜘蛛について次のように記されています。

平蜘蛛の釜 松永久秀の最期のとき火中し、滅失して今はない。

この短い記述から確実に言えるのは、次の三点です。

  • 平蜘蛛は「名物の釜」の一つとして扱われている
  • 松永久秀と結びついた茶釜だった
  • 久秀の最期のときに火中し、失われたと伝えられている

平蜘蛛が久秀の死とともに焼失したという話そのものは、単なる現代の創作ではありません。少なくとも『山上宗二記』には、久秀の最期と平蜘蛛の滅失を結びつける記録があります。

ただし、この一文には久秀が平蜘蛛を抱えていたとも自分で壊したとも、火薬で爆破したとも書かれていません。「火中して失われた」というところまでが、この史料から確認できる内容です。

平蜘蛛の名前の由来は分からない

資料の注釈には平蜘蛛は東大寺三蔵院から松永久秀が入手したとあります。また「平蜘蛛釜」は一般名称で、ほかにも同類の釜があったと説明されています。

さらに重要なのが同じ注釈に「呼称の由来は未詳」とあることです。

平蜘蛛については、胴が平たく、脚が蜘蛛のように広がっていたため名付けられた、と説明されることがあります。しかしその由来を確認できません。

『信長公記』が記す松永久秀の最期

天正五年(一五七七)、松永久秀は信貴山城に籠もり、織田方の攻撃を受けました。『信長公記』では、十月十日の夕刻から城への攻撃が始まり、夜攻めになったと記されています。

松永勢は防戦しましたが、やがて弓も折れ、矢も尽きました。そして久秀は天守に火を放ち、一族郎党とともに焼け死んだという趣旨で描かれています。

松永久秀は天守に火を放ち、焼死した。

ここで注意したいのは、『信長公記』のこの場面には平蜘蛛が登場しないことです。平蜘蛛を信長に渡すよう求められた、久秀が拒んだ、釜を叩き割った、火薬を仕込んで爆死した、という記述はありません。

また『信長公記』は、久秀が焼死した日を、奈良の大仏殿が焼けた日と重ねています。そして久秀の死を因果応報のように語っています。ただし、これは同書が久秀の最期に与えた意味であり、平蜘蛛の処分方法を説明する記述ではありません。

『多聞院日記』が記す松永父子の自焼

奈良の興福寺多聞院で記された『多聞院日記』にも、信貴山城の落城と久秀の最期が記録されています。

天正五年十月十日条には、信貴山城が焼けたことが記され、その翌日の十月十一日条には次の一文があります。

昨夜松永父子腹切自焼了

現代語に直せば、「昨夜、松永父子は腹を切り、自焼した」という意味です。

『信長公記』が天守への放火と焼死を中心に描くのに対し、『多聞院日記』は松永父子の切腹と自焼を記しています。細部の書き方は同じではありませんが、久秀が信貴山城の火の中で最期を迎えたという点では一致しています。

『多聞院日記』も、大仏殿が焼けた翌朝と同じように雨が降ったことを「奇異の事」と記しています。当時の奈良側が、久秀の死と大仏殿焼失を強く結びつけて受け止めていたことが伝わる部分です。

一方で、十月十日・十一日の該当記事に平蜘蛛の名は見えません。もちろん、爆発や茶釜を叩き割る場面も記されていません。

松永久秀は平蜘蛛と爆死したのか?

信貴山城で最期を迎える松永久秀のイメージ

三史料の記述を整理すると、次のようになります。

史料平蜘蛛について久秀の最期について
『山上宗二記』久秀の最期のとき火中し、滅失した詳しい死に方は記さない
『信長公記』該当箇所に記述なし天守に火を放ち、焼死した
『多聞院日記』該当箇所に記述なし松永父子が腹を切り、自焼した

この三史料から組み立てられる、最も慎重な結論は次のとおりです。

松永久秀は信貴山城の火の中で最期を迎えた。平蜘蛛も、その最期のときに火中して失われたと『山上宗二記』に記されている。

しかしここから「平蜘蛛を抱えて爆死した」とまでは言えません。史料のどこにも、爆薬、爆発、釜を叩き割る行為は記されていないからです。

資料の注釈には、久秀が平蜘蛛を信長に渡さず自害した逸話が有名だとあります。ただし、これは「有名な逸話」の紹介です。確認した史料の本文には、信長が平蜘蛛を要求し、久秀が拒絶したという交渉の場面はありません。そのため、これも史実として断定せず、伝承として分けて紹介する必要があります。

感想―爆発しなくても十分に劇的だった

平蜘蛛の伝説は火薬で爆死する久秀の姿ばかりが目立ちます。しかし、史料に残る話だけでも十分に印象的です。

城が炎に包まれ、久秀が最期を迎え、そのとき名物とされた茶釜まで失われた。『山上宗二記』は、それを「火中し、滅失して今はない」と短く記すだけです。久秀が平蜘蛛の焼失を知っていたのか、それすら分かりません。

だからこそ、人々は空白を物語で埋めたくなったのかもしれません。自分が久秀の立場だったなら、城だけでなく、長く手元に置いた名物まで失われる瞬間には、敗北とは別の寂しさを覚えると思います。爆発という派手な脚色を加えなくても、ひとりの武将と一つの茶釜が同じ炎の中で歴史から消えたというだけで、十分に忘れがたい最期です。

最後に

炎の中で失われた平蜘蛛茶釜のイメージ

平蜘蛛について今回の三史料から確認できる事実をまとめます。

  • 『山上宗二記』は平蜘蛛を「名物の釜」として挙げている
  • 同書には久秀の最期のときに火中し、滅失したとある
  • 『信長公記』では久秀が天守に火を放って焼死したとされる
  • 『多聞院日記』では松永父子が腹を切り、自焼したとされる
  • 平蜘蛛を叩き割った火薬で爆死したという記述は三史料にない
  • 作者、制作年代、古天明という分類、呼称の由来は今回の資料だけでは確定できない

したがって、「松永久秀は平蜘蛛とともに爆死した」と断定するのは正確ではありません。一方で「平蜘蛛と久秀の最期は無関係だった」とするのも誤りです。平蜘蛛が久秀の最期のときに焼失したことは、『山上宗二記』にはっきり記されています。

史料が伝えるのは、爆発する茶釜ではなく、久秀の最期のときに火中して失われ、二度と残らなかった名物釜でした。私は、その静かな記録の方にこそ、平蜘蛛が長く語り継がれた理由を感じます。

↓ほかの茶器の記事↓

参考文献

  • 山上宗二『山上宗二記』「名物の釜の数」平蜘蛛の項
  • 太田牛一『信長公記』巻十「信貴城被攻落之事」
  • 『多聞院日記』天正五年十月十日・十一日条

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次