平蜘蛛茶釜を松永久秀の最期に焼失した名物釜を史料から考察
平蜘蛛(ひらぐも)といえば松永久秀が織田信長への引き渡しを拒み最期に茶釜を叩き割って爆死した。という派手な伝説で知られています。しかし本当にそこまで史料に書かれているのでしょうか。

平蜘蛛茶釜について史料から分かること
『山上宗二記』の「名物の釜の数」には平蜘蛛について次のように記されています。
平蜘蛛の釜 松永久秀の最期のとき火中し滅失して今はない。
この短い記述から確実に言えるのは次の三点です。
- 平蜘蛛は「名物の釜」の一つとして扱われている
- 松永久秀の持っていた茶釜だった
- 久秀の最期のときに火中し失われたと伝えられている
平蜘蛛が久秀の死とともに焼失したという話そのものは単なる現代の創作ではありません。少なくとも『山上宗二記』には久秀の最期と平蜘蛛の滅失を結びつける記録があります。
平蜘蛛の名前の由来は分からない
資料の注釈には平蜘蛛は東大寺三蔵院から松永久秀が入手したとあります。また「平蜘蛛釜」は一般名称でほかにも同類の釜があったと説明されています。さらに重要なのが同じ注釈に「呼称の由来は未詳」とあることです。
平蜘蛛については胴が平たく脚が蜘蛛のように広がっていたため名付けられた。と説明されることがあります。しかしその由来を確認できません。
『信長公記』が記す松永久秀の最期
天正五年(一五七七)松永久秀は信貴山城に籠もり織田方の攻撃を受けました。『信長公記』では十月十日の夕刻から城への攻撃が始まり夜攻めになったと記されています。
松永勢は防戦しましたがやがて弓も折れ、矢も尽きました。そして久秀は天守に火を放ち一族郎党とともに焼け死んだという趣旨で描かれています。
松永久秀は天守に火を放ち焼死した。
ここで注意したいのは『信長公記』のこの場面には平蜘蛛が登場しないことです。平蜘蛛を信長に渡すよう求められた、久秀が拒んだ、釜を叩き割った、火薬を仕込んで爆死した、という記述はありません。
また『信長公記』は久秀が焼死した日を奈良の大仏殿が焼けた日と重ねています。そして久秀の死を因果応報のように語っています。ただしこれは同書が久秀の最期に与えた意味であり、平蜘蛛の処分方法を説明する記述ではありません。

『多聞院日記』が記す松永父子の自焼
奈良の興福寺多聞院で記された『多聞院日記』にも信貴山城の落城と久秀の最期が記録されています。
天正五年十月十日条には信貴山城が焼けたことが記されその翌日の十月十一日条には次の一文があります。
昨夜松永父子腹切自焼了
現代語に直せば「昨夜、松永父子は腹を切り、自焼した」という意味です。
『信長公記』が天守への放火と焼死を中心に描くのに対し『多聞院日記』は松永父子の切腹と自焼を記しています。細部の書き方は同じではありませんが久秀が信貴山城の火の中で最期を迎えたという点では一致しています。
『多聞院日記』も大仏殿が焼けた翌朝と同じように雨が降ったことを「奇異の事」と記しています。当時の奈良側が、久秀の死と大仏殿焼失を強く結びつけて受け止めていたことが伝わる部分です。
一方で、十月十日・十一日の該当記事に平蜘蛛の名は見えません。もちろん爆発や茶釜を叩き割る場面も記されていません。
松永久秀は平蜘蛛と爆死したのか?

三史料の記述を整理すると次のようになります。
| 史料 | 平蜘蛛について | 久秀の最期について |
|---|---|---|
| 『山上宗二記』 | 久秀の最期のとき火中し滅失した | 詳しい死に方は記さない |
| 『信長公記』 | 該当箇所に記述なし | 天守に火を放ち、焼死した |
| 『多聞院日記』 | 該当箇所に記述なし | 松永父子が腹を切り、自焼した |
これらの史料から組み立てられる最も慎重な結論は次のとおりです。
松永久秀は信貴山城の火の中で最期を迎えた。平蜘蛛もその最期のときに火中して失われたと『山上宗二記』に記されている。
ここから「平蜘蛛を抱えて爆死した」とまでは言えません。
資料の注釈には久秀が平蜘蛛を信長に渡さず自害した逸話が有名だとあります。ただしこれは「有名な逸話」の紹介です。
爆発しなくても十分に劇的
平蜘蛛の伝説は火薬で爆死する久秀の姿ばかりが目立ちます。城が炎に包まれ、久秀が最期を迎え、そのとき名物とされた茶釜まで失われた。『山上宗二記』はそれを「火中し、滅失して今はない」と短く記すだけです。
だからこそ人々は空白を物語で埋めたくなったのかもしれません。爆発という派手な脚色を加えなくてもひとりの武将と一つの茶釜が同じ炎の中で歴史から消えたというだけで十分に忘れがたい最期です。
では爆死伝説はどのように作られたのか?
松永久秀が平蜘蛛に火薬を詰め茶釜とともに爆死したという話は一つの史料に最初から完成した形で書かれていたわけではありません。
江戸初期の軍記的資料『川角太閤記』では久秀が「平蜘蛛の釜と自分の首は信長に見せない」と述べ平蜘蛛を微塵に打ち壊したとされています。さらに久秀の首も鉄砲の火薬で焼き割られ平蜘蛛と同じように粉々になったと記されました。ただしここで火薬によって砕かれたとされるのは久秀の「首」です。平蜘蛛に火薬を詰めたとも久秀が平蜘蛛を抱えて爆死したとも書かれていません。
その後、頼山陽の『日本外史』では久秀が城に火を放ち愛用する茶釜を抱いて自ら焼け死んだという姿が描かれました。さらに明治時代の錦絵などでも、久秀が平蜘蛛を破壊する劇的な場面が広められていきます。こうして
- 平蜘蛛を打ち砕いたという話
- 久秀の首を火薬で粉々にしたという話
- 久秀が愛する茶釜を抱いて焼死したという話
が後世に重なり合いました。
そして昭和以降の小説やテレビ、漫画などの創作で、これらが一つにまとめられ、「平蜘蛛に火薬を詰め、茶釜を抱えて爆死した」という現在よく知られる物語へ発展したと考えられます。
松永久秀の爆死伝説は完全な無から突然作られたというより後世の軍記・歴史読み物・絵画・近現代作品が史料に見える別々の要素をつなぎ合わせて作った物語でした。史料上の久秀は切腹し自ら城を焼いて死んだ人物です。しかし後世の久秀は名物茶釜を信長に渡すくらいなら自分も茶釜も粉々にしてしまう人物へと変化しました。
正直、平蜘蛛とともに大爆発する最期は歴史上の事実よりもはるかに派手です。だからこそ人々の記憶に残り、松永久秀はいつしか「戦国の自爆ボンバーマン」のような人物として語られるようになったのでしょう。
最後に

平蜘蛛について史料から確認できる事実をまとめます。
- 『山上宗二記』は平蜘蛛を「名物の釜」として挙げている
- 同書には久秀の最期のときに火中し滅失したとある
- 『信長公記』では久秀が天守に火を放って焼死したとされる
- 『多聞院日記』では松永父子が腹を切り自焼したとされる
したがって「松永久秀は平蜘蛛とともに爆死した」とするのは正確ではありません。一方で「平蜘蛛と久秀の最期は無関係だった」とするのも誤りです。平蜘蛛が久秀の最期のときに焼失したことは、『山上宗二記』にはっきり記されています。
史料が伝えるのは爆発する茶釜ではなく久秀の最期のときに火中して失われ、二度と残らなかった名物釜でした。私はその静かな記録の方にこそ平蜘蛛が長く語り継がれた理由を感じます。
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参考文献
- 山上宗二『山上宗二記』
- 太田牛一『信長公記』
- 『多聞院日記』天正五年十月十日・十一日条
参考資料
- 『川角太閤記』
