古天明平蜘蛛(古典名平蜘蛛)とは
戦国時代、日本では刀や城だけでなく、「茶器(ちゃき)」にもとんでもない価値が付いていました。その中でも特に有名なのが、伝説の茶釜――平蜘蛛(ひらぐも)です。「名前だけ聞くと妖怪っぽいよね」しかしこの平蜘蛛、ただの高級茶道具ではありません。
- 天下人が欲しがる
- 戦国武将が執着する
- 最後は爆発エンド(創作)
という、もはや少年漫画みたいな歴史を持っています。今回はそんな平蜘蛛について、
- 誰が作ったのか
- なぜ高価だったのか
- なぜ有名なのか
をわかりやすく解説していきます。
平蜘蛛とは?
平蜘蛛は、戦国時代に存在したとされる名物茶釜です。茶釜とは、お茶を沸かすための道具。つまり現代で言えば「やかん」に近い存在です。具体的に例にすると急に庶民的にな感じ。しかし当時の茶道は、単なる趣味ではありませんでした。戦国武将にとって茶道具は、
- 権威
- 財産
- ステータス
- 政治アイテム
として機能していたのです。つまり名物茶器を持つことは、「オレは一流の権力者だ」というアピールでもありました。現代で言えば、
- 超高級腕時計
- 美術品
- 限定スポーツカー
を全部足したような感覚に近いでしょう。つまり見栄っす。
平蜘蛛の名前の由来
平蜘蛛という不思議な名前には理由があります。この茶釜は、
- 胴体が平たい
- 足が蜘蛛のように広がっている
という特徴を持っていました。そこから「平蜘蛛」と呼ばれたのです。当時の茶器には独特な名前が付くことが多く、
- 九十九髪茄子
- 初花
- 松島
など、有名茶器にはそれぞれ名前がありました。戦国武将たちは、こうした名物茶器をコレクションしていました。
誰が作ったのか?
実は平蜘蛛の作者については、はっきり断定されていません。ただし、室町時代から戦国時代にかけて活躍した名工集団によって作られた可能性が高いと言われています。当時の日本では、中国から伝わった茶文化が大流行しており、茶器作りの技術も発展していました。特に茶道が武士社会に浸透すると、「どの茶器を持っているか」が非常に重要になります。見栄コンテストがはじまります。つまり平蜘蛛は
- 芸術品
- 工芸品
- ステータスアイテム
として超一級品だったのです。現代のベンツとかみたいなもん
なぜそんなに高価だったのか

平蜘蛛が高価だった理由は、大きく分けて3つあります。
① 希少性
まず、名物茶器は数が少ないです。しかも職人による手作りであり、完全に一点物。現代の量産品とは価値がまったく違いました。さらに、「誰が持っていたか」も重要になります。つまり
- 有名武将所有
- 将軍所有
- 権力者所有
になるほど価値が爆上がりしたのです。戦国版プレミア価格ってやつだね

② 茶道ブーム
戦国時代には茶道が超流行していました。特に有名なのが、茶道を大成した千利休です。千利休以外にも織田信長や豊臣秀吉も茶道を重視しました。信長は「茶会」を政治利用し、秀吉は豪華絢爛な茶会を開催しました。つまり茶道具は、「文化人アピール」にも使われたのです。戦国武将でもオシャレなんです。
③ 権威の象徴だった
名物茶器を持つことは、権力の象徴でした。特に織田信長は、家臣への褒美として茶器を与えることがあります。なぜなら名物茶器は、下手な領地より価値がある場合もあったからです。「もはや土地より釜の時代」武将たちは命がけで茶器を集めました。
松永久秀と平蜘蛛
平蜘蛛といえば必ず名前が出てくる人物が松永久秀です。
久秀は大和国を中心に勢力を持った戦国武将で、織田信長と結びながらも、のちに反旗を翻しました。そして天正5年、信貴山城に籠もった久秀は、織田方の攻撃を受けて滅亡します。
この久秀の最期について、後世では「平蜘蛛とともに爆死した」という非常に派手な話が広まりました。茶釜を抱えて爆死する武将。たしかに物語としては強烈です。しかし、ここで一度、同時代に近い史料を見てみる必要があります。
『信長公記』では、久秀の最期について、信貴山城が夜攻めを受け、松永勢が防戦したものの、弓も矢も尽き、久秀が天守に火を放って焼死した、という趣旨で記されています。
『信長公記』で確認できる久秀の最期は、天守に火をかけて焼死したというものです。ここで重要なのは、『信長公記』のこの箇所には、平蜘蛛の名が出てこないことです。平蜘蛛を抱えて爆死したとも、平蜘蛛を打ち砕いたとも書かれていません。
さらに奈良興福寺の僧・英俊が記した『多聞院日記』にも、久秀の最期に関する記述があります。天正5年10月11日条には
昨夜松永父子腹切自焼了
とあります。現代語にすれば
昨夜、松永父子は腹を切り、自ら焼け死んだ。
という意味です。
こちらも久秀父子が切腹して自焼したという内容であり平蜘蛛には触れていません。
つまり少なくとも今回確認した『信長公記』と『多聞院日記』から言えるのは久秀は信貴山城で自ら火を放ち、焼死したということです。
松永久秀は本当に平蜘蛛と爆死したのか?

結論から言うと『信長公記』と『多聞院日記』だけを根拠にするなら、「久秀が平蜘蛛とともに爆死した」とは思えません。
確認できる内容を整理するとこうなります。
| 史料 | 久秀の最期 | 平蜘蛛の記述 |
|---|---|---|
| 『信長公記』 | 天守に火をかけて焼死 | この箇所には見えない |
| 『多聞院日記』 | 松永父子が腹を切り、自焼 | この箇所には見えない |
『信長公記』では、久秀が天守に火をかけて焼死したとされます。
『多聞院日記』では、久秀父子が切腹して自焼したとされます。
どちらにも共通するのは、火によって死んだという点です。しかし、火薬で爆死したとは書かれていません。また、平蜘蛛と一緒に死んだとも書かれていません。
そのため、「平蜘蛛と爆死した松永久秀」という話は同時代に近い史料そのものから直接確認できる話ではなく、後世に広まった伝説・脚色として分けて扱うべきでしょう。もちろん、久秀と平蜘蛛が結びつけて語られてきたこと自体は事実です。ですが史料に即して書くなら
松永久秀は信貴山城で自焼した。
しかし、『信長公記』と『多聞院日記』には、平蜘蛛とともに爆死したとは書かれていない。
『多聞院日記』が見た久秀の死
『多聞院日記』の記述で興味深いのは久秀の死を単なる戦死としてではなく、因果応報のように見ている点です。
『多聞院日記』では、久秀父子が自焼したことに続けて、前年に大仏殿が焼けた日と重ねるような記述が見えます。つまり記主は、久秀の最期を「仏を焼いた者が、自らも焼けた」という形で受け止めていたように読めます。
ここから分かるのは、当時の奈良側の人々にとって、久秀は単なる敗者ではなかったということです。奈良の大仏殿焼失と結びつけられ、強い宗教的・感情的な意味を持つ人物として見られていた可能性があります。
ただし、ここでも注意が必要です。これは『多聞院日記』の記主の受け止め方であり、久秀本人の意図ではありません。

まとめ

平蜘蛛は、戦国時代を代表する伝説的な名物茶釜です。
平たい形と蜘蛛の脚のような姿から「平蜘蛛」と呼ばれたとされ、松永久秀の所持品として有名になりました。後世には、久秀がこの平蜘蛛とともに爆死したという強烈な伝説も広まっています。しかし、同時代に近い史料を確認すると、話は少し変わります。
『信長公記』では、久秀は信貴山城で天守に火をかけて焼死したと記されます。
『多聞院日記』では、久秀父子が腹を切り、自ら焼け死んだと記されています。
この二つの史料から確認できるのは、久秀が信貴山城で自焼したということです。一方で、少なくとも今回確認した範囲では、平蜘蛛とともに爆死したとは書かれていません。平蜘蛛を抱えて爆死する久秀像は、史料上の事実というより、後世に膨らんだ伝説として見る方がよいでしょう。
久秀が茶器好きということと信貴山城で自焼したという二つがどんどん脚色されてぶんぶく茶釜大爆発に発展したと私は見ています。みなさんはどう思われますか?
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参考文献
- 太田牛一『信長公記』巻十「信貴城被攻落之事」
- 国立国会図書館デジタルコレクション『多聞院日記』天正五年十月十一日条
- 現代語訳『信長公記』
