徐庶(じょしょ)と聞くと劉備のもとで曹仁の大軍を破り、母親を人質に取られて曹操のもとへ去った天才軍師を思い浮かべる人が多いでしょう。「徐庶、曹営に入って一言も発せず」という言葉もあります。
ところが陳寿の正史『三国志』と裴松之注を読むと徐庶が劉備の軍師だったとは書かれていません。それどころか具体的な戦功や献策もほとんど残されていないのです。
それにもかかわらず、『三国志演義』では八門金鎖陣を破るほどの天才軍師へと変貌しています。なぜ徐庶はここまで大きく脚色されたのでしょうか。
正史『三国志』と裴松之注に記された徐庶
徐庶には独立した列伝がない
徐庶には独立した列伝がありません。陳寿の正史『三国志』では、主に蜀書巻三十五「諸葛亮伝」と巻三十九「董和伝」の中に名前が登場します。
裴松之注では『魏略』『襄陽記』などが引用され徐庶の若いころや魏での官歴が補われています。陳寿本文によれば徐庶は潁川の人で、字を元直といいました。ただし潁川郡内の具体的な出身県までは書かれていません。
諸葛亮の才能を信じた数少ない友人
若いころの諸葛亮は自分を春秋戦国時代の管仲や楽毅になぞらえていました。
しかし当時の人々は諸葛亮の自己評価を認めませんでした。その中で博陵の崔州平と潁川の徐庶だけは諸葛亮と親しく、その才能を本物だと信じていました。つまり徐庶は諸葛亮がまだ何の実績も残していない時代から、その才能を認めていた人物です。
裴松之注引『魏略』によると徐庶は石韜や孟建とともに諸葛亮と学問をしていました。徐庶たち三人が細部まで学問を究めようとしたのに対し諸葛亮は全体の大略をつかむことを重視していたといいます。諸葛亮は徐庶たちに「君たちは仕官すれば刺史や郡守にまでなれるだろう」と語りました。
徐庶は軍略だけを学んでいた人物ではなく経書やその理論に精通した知識人だったのです。
若いころは仇討ちをする任侠の人物だった
裴松之注引『魏略』には徐庶の意外な過去が記されています。徐庶は以前は「福」という名で有力な豪族ではない一般の家に生まれました。若いころは任侠的な行動や剣術を好み、中平年間の末には他人のために仇討ちを行っています。
徐福は顔に白い土を塗り髪を振り乱して逃げましたが、役人に捕らえられました。役人が姓名を尋ねても、徐福は口を閉ざして何も答えません。役人は徐福を柱に縛り市場で身元を知る者を探しましたが誰も知人だと名乗り出ませんでした。
やがて仲間たちが徐福を救出します。この出来事をきっかけに徐福は刀や戟を捨て、学問の道へ進みました。
ところが学校の学生たちは徐福が以前に犯罪へ関わったと知り一緒に過ごそうとしませんでした。それでも徐福は朝早く起きて一人で掃除をし謙虚な態度で学び続けます。やがて経書とその理論に精通し、同郷の石韜とも親しくなりました。
荒々しい任侠の若者が武器を捨て努力によって知識人へ生まれ変わったのです。なお『魏略』の原文は「庶先名福、本単家子」となっています。
これは「徐庶は以前は福という名でもとは一般の家の子だった」という意味です。正史・裴松之注には、『三国志演義』で使われる「単福」という名前は登場しません。

劉備に諸葛亮を推薦する
劉備が新野に駐屯していたころ徐庶は劉備に会いました。劉備は徐庶を有能な人物として高く評価します。
すると徐庶は、劉備にこう語りました。「諸葛孔明という人物は臥龍です。将軍はお会いになりたいと思いませんか」劉備は徐庶に諸葛亮を連れてくるよう求めました。
しかし徐庶は「あの人は、こちらから訪ねれば会うことができます。しかし無理に呼びつけられる人物ではありません。将軍ご自身が訪ねるべきです」と答えます。
そこで劉備は諸葛亮を訪ね三度目にようやく会うことができました。正史における徐庶最大の功績は劉備と諸葛亮を結びつけたことだといえるでしょう。
母を捕らえられ、劉備と別れる
劉表の死後、劉琮は曹操に降伏します。劉備は人々を率いて南へ向かい諸葛亮と徐庶も同行していました。ところが劉備軍は曹操軍に追撃されて敗れその混乱の中で徐庶の母が捕らえられてしまいます。
徐庶は自分の胸を指し劉備に別れを告げました。「私はこの心によって、将軍とともに王者・覇者の事業を成し遂げようと思っていました。しかし今、老母を失い、心が乱れてしまいました。これではお役に立てません。ここでお別れさせてください」こうして徐庶は劉備のもとを離れ、曹操のもとへ行きました。
正史が記しているのは徐庶の母が曹操軍に捕らえられたことだけです。曹操が徐庶を引き抜く目的で母を狙ったとも、偽手紙を使ったとも、母が自害したとも書かれていません。
魏で官職に就き、病死する
裴松之注引『魏略』によると徐庶は魏で右中郎将・御史中丞にまで昇進しました。
したがって「曹操のもとへ行ってから何の官職にも就かなかった」というわけではありません。ただしどのような仕事をしたのか、曹操や魏にどのような献策を行ったのかは記録されていません。
諸葛亮は後に徐庶と石韜の官歴を聞き「魏には、それほど多くの人材がいるのか。なぜあの二人が十分に用いられていないのだろう」と嘆きました。
さらに諸葛亮は部下たちに率直な意見を求める際、徐庶の名を挙げています。徐庶は諸葛亮に遠慮せず、何度も意見や忠告を伝えていたようです。諸葛亮は「徐庶の十分の一でも見習ってほしい」と部下たちに語りました。徐庶は太和年間より数年後、病気で亡くなりました。『魏略』の執筆時点では、彭城に徐庶の碑が残っていたといいます。
正史では「軍師」とは書かれていない
正史の徐庶について特に注意したいのは劉備から「軍師」に任命されたとは書かれていないことです。劉備が徐庶を高く評価したこと、諸葛亮を推薦したこと、劉備の南下に同行したことは確認できます。しかし徐庶が劉備軍の作戦を指揮した、敵の陣形を破った、城を攻略したといった記録はありません。正史の徐庶は天才軍師というより諸葛亮の才能を早くから理解していた友人・知識人として描かれているのです。
『三国志演義』に描かれた徐庶
「単福」を名乗り、劉備の前に現れる
『三国志演義』の徐庶は最初に「単福」という偽名を使います。
徐庶は劉表に会ったものの「善人を好みながら登用できず、悪人を憎みながら退けることもできない人物だ」と見切り司馬徽のもとを訪れます。
その後、新野の市場で歌いながら劉備の前に姿を現しました。徐庶は劉備の乗る的盧(馬)が主人に災いをもたらす馬だとして「嫌いな相手にこの馬を与え、その者に災いが起きてから取り戻せばよい」と提案します。
劉備は「自分を利するために他人へ災いを与えることはできない」と拒否しました。すると徐庶はそれが劉備の仁徳を確かめるための試験だったと明かします。徐庶は劉備を真の主君と認め、劉備も徐庶を軍師に任命しました。
八門金鎖陣を破る天才軍師
劉備の軍師となった徐庶は登場直後から華々しい活躍を見せます。
まず関羽・張飛・趙雲を配置して、曹操軍の呂曠・呂翔を撃破しました。続いて曹仁が大軍を率いて現れるとその陣形を一目見ただけで「八門金鎖陣」だと見抜きます。徐庶は趙雲に
「東南の生門から入り、西の景門へ抜ければ陣は崩れる」
と指示。趙雲がそのとおりに突入すると曹仁軍は大混乱に陥りました。さらに徐庶は曹仁の夜襲まで予測し伏兵を配置します。敗走した曹仁が樊城へ戻るとすでに徐庶の策によって関羽が城を占領していました。
正史では軍師だったかどうかも分からない徐庶が演義では曹仁を完全に翻弄する天才軍師になっているのです。

程昱から「自分の十倍」と評価される
曹仁から敗戦の報告を受けた曹操は「単福とは何者なのか」と尋ねます。程昱はその正体が潁川の徐庶であると見抜きました。曹操が徐庶の才能を程昱と比較すると程昱は「徐庶の才能は私の十倍です」と答えます。
演義は徐庶の能力を曹操軍を代表する知恵者・程昱よりもはるかに上として描いているのです。曹操は徐庶を手に入れるため、程昱の提案に従って徐庶の母を許昌へ連れてこさせます。
偽手紙によって曹操のもとへ向かう
曹操は徐庶の母に息子を呼び戻す手紙を書くよう命じます。
しかし徐母は劉備を仁徳ある英雄とたたえ曹操を「漢の丞相を名乗っているが、実際には漢の賊である」と激しく罵りました。さらに硯を投げつけ曹操を打とうとします。
そこで程昱は徐母を世話するふりをして手紙を交換しその筆跡を入手します。そして徐母の筆跡をまねた偽手紙を作り徐庶のもとへ送りました。偽手紙を信じた徐庶は劉備に本名を明かして別れを申し出ます。劉備の家臣・孫乾は徐庶を引き留めれば曹操が母を殺し、徐庶は復讐のため曹操と戦うようになると進言しました。
しかし劉備は「徐庶の母を殺させて、その子を利用するのは不仁である。母子を引き離すのは不義である」として拒否します。
徐庶は劉備の仁義に感動し「たとえ曹操に迫られても、生涯一つの策も立てない」と誓いました。
走馬、諸葛を薦む
劉備と徐庶は夜明けまで向かい合って泣き長亭で別れます。劉備は何度も徐庶を見送り木立によって徐庶の姿が見えなくなると、
「徐元直を見る邪魔になるから、この木々をすべて切り倒したい」とまで言いました。
ところが徐庶は突然、馬を返して戻ってきます。そして劉備に諸葛亮を推薦しました。徐庶は自分と諸葛亮を比較して「私を諸葛亮と比べるのは、駄馬を麒麟に、寒鴉を鳳凰に並べるようなものです」と語ります。
さらに「諸葛亮を得ることは、周が呂尚を得、漢が張良を得ることに等しい」と絶賛しました。これが「元直、走馬して諸葛を薦む」です。
徐母の自害
許昌に到着した徐庶は偽手紙を信じて来たことを母に説明します。徐母は激怒しました。「お前は書を読んでいながら、忠と孝を両立できない場合があることも知らないのか。曹操が君主を欺く賊であることも分からないのか」徐母は、劉備という正しい主君を捨てた徐庶を「祖先を辱めた愚か者」と罵ります。
その後徐母は梁に縄をかけて自害しました。徐庶は泣いて気絶し、曹操から与えられた贈り物をすべて拒否。母を葬った後、墓を守りながら喪に服しました。この徐母の自害は演義を代表する悲劇ですが、正史・裴松之注にはありません。
曹操の配下になっても劉備を助ける
母を失った後も徐庶は物語から完全に姿を消したわけではありません。
夏侯惇が劉備を軽視すると、徐庶は「劉玄徳は諸葛亮を得て、虎が翼を生やしたようなものだ」と警告します。
曹操から諸葛亮と自分の才能を比較されると「私は蛍の光にすぎず、諸葛亮は輝く月です」と答えました。
また曹操から劉備への降伏勧告を命じられると徐庶は樊城へ向かいます。徐庶は劉備に降伏を勧めるどころか、曹操軍が八路に分かれて進撃していることを教え、急いで避難するよう警告しました。劉備は徐庶を引き留めようとしますが、徐庶は拒否します。「身体は曹操のもとにあっても、曹操のためには一つの策も立てない」そう語り、曹操のもとへ戻りました。
赤壁で龐統の連環の計を見破る
赤壁の戦い直前、徐庶は龐統が曹操に献じた連環の計を見破ります。それだけではありません。
黄蓋の苦肉の計、闞沢の偽降伏書、龐統の連環の計まで、すべて理解していました。しかし徐庶は劉備への恩を忘れておらず、曹操に龐統の計略を知らせるつもりはありませんでした。ただし自分まで赤壁の火攻めに巻き込まれることを恐れ、龐統に脱出方法を尋ねます。
龐統は「西涼の馬騰・韓遂が反乱した」という噂を流し、西方の守備を申し出るよう助言しました。徐庶は曹操軍内に偽情報を流し、自ら散関の守備を願い出ます。曹操は徐庶に三千の兵を与え臧覇とともに散関へ向かわせました。こうして徐庶は赤壁の火攻めを逃れます。これが演義における徐庶最後の実質的な登場です。
第三章 正史と『三国志演義』の徐庶は何が違う?
| 比較項目 | 正史『三国志』・裴松之注 | 『三国志演義』 |
|---|---|---|
| 名前 | 名は徐庶、字は元直。以前の名は福 | 「単福」という偽名を使用 |
| 出自 | 潁川の人。一般の家の出身 | 潁上の単福を名乗って登場 |
| 若いころ | 仇討ちをして逮捕され、救出後に学問へ転じる | 程昱が過去を説明し、正体を見破る |
| 劉表との関係 | 記録なし | 劉表を主君の器ではないと見切る |
| 的盧の逸話 | 記録なし | 的盧を利用して劉備の仁徳を試す |
| 劉備からの待遇 | 劉備が徐庶を有能な人物として評価 | 劉備が正式に軍師へ任命 |
| 軍事的活躍 | 具体的な戦功・献策は記録なし | 呂曠・呂翔を破り、八門金鎖陣を攻略 |
| 樊城攻略 | 記録なし | 曹仁を破り、関羽に樊城を占領させる |
| 程昱の評価 | 記録なし | 「自分の十倍の才能」と評価 |
| 諸葛亮の推薦 | 劉備に直接推薦し、自ら訪ねるよう進言 | 馬を返して推薦する劇的な場面に脚色 |
| 母の捕縛 | 曹操軍の追撃時に捕らえられる | 曹操が徐庶を得るため計画的に連れ去る |
| 偽手紙 | 記録なし | 程昱が徐母の筆跡をまねて作成 |
| 徐母の自害 | 記録なし | 徐庶を罵った後、首を吊って自害 |
| 曹操への献策拒否 | 記録なし | 生涯一つの策も立てないと誓う |
| 曹操配下での行動 | 右中郎将・御史中丞に就任 | 劉備に曹操軍の情報を伝える |
| 赤壁の戦い | 徐庶の記録なし | 連環の計を見破り、散関へ脱出 |
| 最期 | 数年後に病死。彭城に碑が存在 | 最期は描かれない |
正史と演義を比べると史実として確認できる骨格はそれほど多くありません。
- 徐庶は諸葛亮の友人だった
- 諸葛亮の才能を認めていた
- 劉備に諸葛亮を推薦した
- 母を捕らえられて劉備と別れた
- その後、魏に仕えた
演義はこのわずかな骨格を利用して巨大な物語を作りました。特に重要なのが徐庶を諸葛亮登場前の天才軍師にしたことです。徐庶が平凡な人物のまま諸葛亮を推薦しても読者に諸葛亮のすごさは十分伝わりません。
そこで演義は徐庶に曹仁を連破させ八門金鎖陣まで破らせました。その徐庶が「私は蛍、諸葛亮は月」とまで語ることでこれから登場する諸葛亮の格を一気に引き上げたのです。
また徐庶の物語は劉備と曹操の違いを強調する役割も担っています。劉備は徐庶を無理に引き留めず、母のもとへ送り出しました。一方の曹操は母を利用し、偽手紙まで作って徐庶を奪います。徐庶をめぐる物語によって、「仁義の劉備」と「策略の曹操」という演義の構図が分かりやすく描かれているのです。
なお「徐庶、曹営に入って一言も発せず」は演義本文を文字どおり表した言葉ではありません。徐庶は曹操の前で諸葛亮を評価し、劉備への使者となり、赤壁では偽情報も流しています。徐庶が誓ったのは「何も話さない」ことではなく、「曹操のために一つの計略も立てない」ことでした。

諸葛亮を認めた男が天才軍師になった
正史の徐庶は劉備の軍師だったとは書かれていません。具体的な戦功も残っておらず、実像は諸葛亮の才能を早くから認めていた友人・知識人です。
それが演義では八門金鎖陣を破り、曹仁を連敗させ、程昱の十倍と評価される天才軍師になりました。正史では軍師とすら確認できない男が、諸葛亮を認め、劉備に推薦したという事実を核に、ここまで大きな人物へ脚色されたことには本当に驚かされます。
しかし考えてみればまだ何者でもなかった諸葛亮の才能を信じることも一つの偉大な能力だったのかもしれません。自分が天下を動かすのではなく、天下を動かす人物を見つけ出した徐庶。そのわずかな光を『三国志演義』が拾い上げ、忘れられない天才軍師へと育てたのだと思うと、歴史と物語の間に生まれた徐庶という人物が、少し愛おしく感じられます。

参考資料
- 陳寿『三国志』蜀書巻三十五「諸葛亮伝」
- 陳寿『三国志』蜀書巻三十九「董和伝」
- 裴松之注引『魏略』
- 裴松之注引『襄陽記』
- 『三国志演義』第三十五回~第三十九回、第四十一回、第四十七回、第四十八回

コメント