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【戦国】武田勝頼とは?長篠で終わらなかった武田家最後の戦い

はじめに

武田勝頼といえば、多くの人がまず思い浮かべるのは「長篠の戦いで大敗した武将」というイメージではないでしょうか。

ただし、ここで注意したいのは今回参考にする『甲陽軍鑑』は江戸初期に成立した武田家関係の軍学書・軍記的性格の強い資料だという点です。そのため、今回は『甲陽軍鑑』の記述をそのまま絶対的事実とはせず『信長公記』の記述と読み合わせながら武田勝頼の姿を見ていきまーす。

そしてもう一つ大事なのが「長篠で負けた=すぐ武田家滅亡」ではないということです。

長篠の戦いは天正3年、1575年。
武田勝頼が滅亡するのは天正10年、1582年。

長篠の敗北から武田家滅亡までは約7年あります。勝頼は長篠で即終了した武将ではなく、敗北後も高天神・東美濃・信濃・甲斐をめぐってかなり長く戦い続けた人物でした。

目次

信玄の死後、勝頼が武田家を継ぐ

『甲陽軍鑑』によれば、武田信玄は天正元年4月12日に死去し、その死はしばらく隠されたとされます。そして同年5月から勝頼の「御仕置」。つまり政務が始まったと記されています。

信玄の死は武田家にとってあまりにも大きな出来事でした。武田信玄は徳川家康を三方ヶ原で破り、織田信長にとっても大きな脅威だった存在です。その人物が亡くなった後、勝頼は巨大な武田家を背負うことになります。

『甲陽軍鑑』では信玄死後に北条氏政や上杉謙信、徳川家康らが武田家の動きを探ったこと、さらに奥平氏の離反など武田家の内部・外部に不穏な動きが出ていたことが語られます。勝頼は最初から楽な後継者ではありませんでした。むしろ、信玄という偉大すぎる父の後を継いだことで常に比較され、常に疑われ、常に敵に狙われる立場だったのです。

勝頼は攻める武将だった

勝頼は「滅びた武将」という印象が強いですが少なくとも『信長公記』や『甲陽軍鑑』を見る限り、かなり積極的に攻める武将として描かれています。

『信長公記』では天正3年3月下旬、勝頼が三河の足助方面へ攻め寄せたことが記されています。さらに同年4月には信長が出陣し、新堀城を攻略する流れが描かれています。

『甲陽軍鑑』でも、勝頼は遠州方面へ出陣し、高天神城をめぐって家康と対立していたことが見えます。特に長篠以前の勝頼について、『甲陽軍鑑』は、信玄死後も長篠で敗れるまでは諸方が「武田四郎殿」を後ろ盾にしていた、という趣旨の記述をしています。

つまり長篠以前の勝頼は単なる二代目の失敗者ではありません。むしろ周囲から「まだ武田は強い」と見られていた時期があったのです。

長篠の敗北

天正3年、勝頼は長篠城を攻めます。

『甲陽軍鑑』では長篠をめぐって徳川家康が織田信長に後詰を求め、信長が出陣する流れが語られます。さらに武田家の重臣である馬場美濃守、内藤修理、山県三郎兵衛らが一戦を避けるよう意見したものの勝頼と長坂長閑斎・跡部大炊助らは決戦を選んだ、という筋で描かれています。

一方、『信長公記』では信長・信忠・家康が長篠方面へ進み、武田軍と対陣したことが記されています。信長方は鉄砲を用い、武田方の攻撃部隊を撃退していきます。

『甲陽軍鑑』側では、武田軍はただ無様に負けたわけではなく、馬場・山県・内藤・真田・土屋らが激しく戦ったことが細かく語られています。しかし最終的には、馬場美濃守、内藤修理、山県三郎兵衛、真田兄弟、土屋右衛門尉ら、多くの有力武将が討死したとされます。

ここは本当に重いです。

勝頼本人だけが悪かった、というより、武田家を支えてきたベテラン武将たちが一気に失われたことが致命的でした。現代でたとえるなら会社の創業期から支えてきた幹部がある日まとめて消えてしまうようなものです。しかも、その後も敵は待ってくれません。

「判断ミス」と一言で片付けるのは簡単ですが、長篠の敗北は勝頼本人にとっても武田家にとっても取り返しのつかない傷だったのだと思います。

長篠で武田家はすぐ滅びたわけではない

しかしここで誤解してはいけないのは長篠の敗北後も武田家はすぐには滅んでいないという点です。

『甲陽軍鑑』では長篠の敗北後、東美濃の岩村城が追い詰められ勝頼が後詰に向かいにくくなったことが記されています。つまり長篠以後は武田家の影響力が弱まり各地の拠点を守る力が落ちていった、という流れです。

『信長公記』でも、長篠のあとに岩村城をめぐる戦いが描かれています。織田信忠が岩村城を攻略し、武田方の勢力を削っていく様子が見えます。ここで重要なのは、長篠は「武田家滅亡の日」ではなく、「武田家が後戻りできない弱体化へ進み始めた大きな分岐点」だったということです。

勝頼はその後も戦い続けます。ただ、武田家の周囲では、織田・徳川・北条という強敵が次第に圧力を強めていきました。

新府城の築城と、追い詰められる武田家

『甲陽軍鑑』では穴山氏の意見として、信長・家康・北条氏政が敵となれば諸方の敵が蜂起して対応できなくなるため勝頼はよい城を構えるべきだ、という趣旨の話が出てきます。その後、勝頼は甲州韮崎に新府を築いたとされます。一見すると新府城の築城は合理的な防衛策に見えます。

しかし『甲陽軍鑑』は、この新府築城を「武田の家滅却のもと」とかなり厳しく評価しています。ただし、これは結果を知った後の評価でもあります。勝頼からすれば、織田・徳川・北条に囲まれる中で、新しい防衛拠点を作る必要があると考えたとしても不思議ではありません。

問題は城を作るには人・金・労役が必要だったことです。この負担が、後の武田家崩壊と深く関わっていきます。

領民から嫌われていた?『信長公記』の厳しい描写

『信長公記』の天正10年の記事では、勝頼の領国支配についてかなり厳しい書き方がされています。

そこでは近年の勝頼が新しい税や労役を課し、新たに関所を設けたこと、重罪人であっても賄賂を出せば許されることがあったため、人々が嘆き悲しみ、内心では信長の領国になればよいと願っていた、という趣旨で描かれています。もちろん、これは織田方の記録です。そのため、「領民全員が勝頼を嫌っていた」と決めるには考察の余地があります。

ただ、『信長公記』がこう書いていること自体は重要です。少なくとも織田方からは、勝頼の支配は「民に負担をかけ、人心を失った政権」と見られていた可能性があります。ここは読んでいてかなりつらい部分です。

戦国大名は戦うために兵を集め、城を築き、物資を集めなければなりません。でも、その負担を受けるのは名もない領民たちです。勝頼も生き残るために必死だったのでしょう。しかし、その必死さが領民の生活を圧迫し、人々の心が離れていったのだとしたら、これは本当に悲しい悪循環です。

  • 勝つために重税をかける。
  • 重税をかけるから人が離れる。
  • 人が離れるからさらに勝てなくなる。

武田家の末期には、そういう苦しさがあったように見えます。

木曾・伊那方面から崩れていく

天正10年、織田信長は武田攻めを本格化させます。

『信長公記』では、木曾・伊那方面への出陣、織田信忠の岩村着陣、飯田城・高遠城方面への進撃が描かれています。

信忠軍が進むと、飯田城や大島城など、武田方の拠点は持ちこたえることが難しくなっていきます。『信長公記』では、城主や守備兵が退却し、織田方が城を押さえていく様子がかなり淡々と書かれています。ここで目立つのは、武田方の崩れ方の速さです。

長篠で主力武将を失ったとはいえ、武田家はまだ大国でした。しかし天正10年になると、前線の城が次々と崩れていきます。これは単に軍事力だけの問題ではなく、人心、補給、同盟関係、家臣団の信頼が複合的に崩れていたと考えるのが自然です。

高遠城の戦い

『信長公記』では、仁科盛信が守る高遠城の戦いも詳しく描かれています。

織田信忠は高遠城へ攻め寄せます。高遠城は険しい地形にあり、守りに適した城でした。しかし信忠軍は攻撃を開始し、ついに城内へ突入します。

城内では激しい戦いとなり、仁科盛信をはじめ、多くの将兵が討死しました。『信長公記』では、仁科盛信の首は信長のもとへ送られたと記されています。

この高遠城の落城は、勝頼にとって極めて大きな衝撃だったはずです。高遠が持ちこたえられなければ、武田家の防衛線は一気に崩れます。実際、『信長公記』では、高遠落城後、勝頼が新府城から撤退する流れへ進んでいきます。

新府城からの撤退

『信長公記』によれば、勝頼は新府城で支えることができると思っていたものの、高遠城が早く落ちたことで状況が一変します。新府城には一門や家老たちもいましたが、戦への対策はまとまらず、それぞれ妻たちを退去させるような大騒ぎの状態になったと描かれています。

そして天正10年3月3日、勝頼は新府城に火をかけて退去しました。

このとき、『信長公記』はかなり悲惨な描写をしています。城には各地から出させていた人質が多数残っており、それらを閉じ込めたまま焼き殺す形になった、という趣旨の記述です。

この記述についても、織田方の視点であることは注意が必要です。しかし、もしこの通りであれば、武田家末期の混乱は想像以上に凄まじかったことになります。

小山田信茂に拒まれる勝頼

新府城を出た勝頼は、小山田信茂を頼ります。

しかし『信長公記』では、小山田信茂が勝頼一行を受け入れず、勝頼は行き場を失ったと描かれています。勝頼一行は逃亡の途中で人数を減らし、最終的にはわずかな人数になっていきました。

ここは、勝頼の人生でも最も痛ましい場面です。

戦国大名として多くの国を動かしていた人物が、最後には味方の城にも入れず、山中をさまよう。しかも、そばには妻や子どもたちもいる。

「負けた大名」と言えばそれまでですが、この場面は単なる敗北ではありません。人に見放され、居場所を失い、最後の最後まで追い詰められていく人間の悲劇です。

武田勝頼の最期

『信長公記』では、滝川一益らが勝頼父子・夫人たちを探索し、ついに包囲したことが記されています。

勝頼の周囲には、最後まで付き従った者たちがいました。土屋昌恒をはじめ、武田家に殉じた者たちの名も記されています。

勝頼の子・信勝は16歳とされ、若いながらも容姿や人柄を称える記述があります。勝頼の妻もまた、最後まで付き従った人物として描かれています。最終的に、勝頼父子や夫人たちは命を落とし、武田家は滅亡しました。

『信長公記』は、勝頼父子の首が織田信忠の実検に供されたことも記しています。戦国時代とはいえ、あまりにも無残な結末です。

勝頼は本当に無能だったのか

ここまで見ると、勝頼はたしかに滅亡した大名です。長篠では大敗し、家臣団を失い、最後は新府城を捨て、小山田信茂にも拒まれて滅びました。

ただし、それだけで「勝頼は無能」と断定するのは乱暴です。

『甲陽軍鑑』でも、長篠以前は勝頼を後ろ盾にする勢力があったことが語られています。また、勝頼自身も天正8年の段階で「滅亡しても信長の旗下にはならない」という趣旨の強い言葉を語ったとされています。

勝頼は、弱いだけの人物ではありませんでした。むしろ、信玄の後継者として、強大な敵に囲まれながら、最後まで武田家の独立を守ろうとした人物だったように見えます。

ただ、その強さが柔軟さを失わせた可能性もあります。また、新府築城や重い負担が、家臣や領民の心を離れさせた可能性もあります。

勝頼は「無能な二代目」ではなく、「強すぎる父の後を継ぎ、強敵に囲まれ、戦い続けた末に崩れた大名」として見る方が、資料に近いと思います。敗北ばかりが強調されてしまいましたが長篠までは負け知らずですし。

まとめ

武田勝頼は長篠で終わった武将ではありません。信玄の死後、武田家を継ぎ、遠州・三河・東美濃方面で積極的に戦いました。長篠の戦いでは大敗し、多くの重臣を失いましたがその後も武田家はすぐには滅びず、約7年にわたって存続しました。

しかし、長篠後の武田家は確実に弱っていきます。岩村城、高天神、新府城、高遠城。拠点は次々と危機に陥り、天正10年には織田信忠の進撃によって一気に崩壊していきました。

『信長公記』は、勝頼の支配を重税・労役・関所・賄賂などと結びつけ領民の心が離れていたように描いています。これは織田方の見方でありそのまま全てを断定することはできません。しかし武田家末期に人心が揺らいでいた可能性は十分に感じられます。

勝頼の最期は、本当に痛ましいものです。

大名として生まれ、信玄の後継者として期待され、武田家を守るために戦い続けた。けれど最後は、味方にも見放され、妻子とともに山中へ追い詰められた。

正直、読んでいて「勝頼が全部悪い」と簡単には言えません。もちろん判断ミスはあったでしょう。長篠の決戦、新府城築城、領民への負担。結果だけ見れば、失敗は多いです。

でも、勝頼の人生には「偉大すぎる父の後を継ぐ苦しさ」と、「強敵に囲まれても降らなかった意地」があります。武田勝頼は、ただの敗者ではありません。武田家という巨大な看板を背負い、最後まで折れずに戦った、悲劇の当主だったのではないでしょうか。

参考資料・出典

  • 太田牛一『信長公記』巻8・天正3年「武田勝頼、足助に進攻」「新堀城を攻略」「長篠の合戦」ほか
  • 太田牛一『信長公記』巻15・天正10年「木曾・伊那の陣」「織田信忠、高遠城を攻略」「武田勝頼、新府から撤退」「武田勝頼、切腹」ほか
  • 『甲陽軍鑑』品第五十〜品第五十九
  • 「甲陽軍鑑/品第五十」
  • 「甲陽軍鑑/品第五十一」
  • 「甲陽軍鑑/品第五十二」
  • 「甲陽軍鑑/品第五十三」
  • 「甲陽軍鑑/品第五十五」
  • 「甲陽軍鑑/品第五十七」
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