松永久秀あるいは松永弾正(68歳)は戦国・安土桃山時代の武将、戦国大名です。三好家の重臣で三好長慶の書記(秘書のような職務)からはじまり、将軍足利義輝との交渉などを任されるに至り、三好家内で徐々に実力をつけていきました。しかも主君と同じ官位をもらうなど、かなり出世しています。秘書からここまで成り上がる人は現代でもなかなか見ませんね。長慶の死後は大名として独立。低い身分からの出世といえば明智光秀や羽柴秀吉などが有名ですが、久秀もまたその一人でした。
主な活躍

永禄2年、1日で筒井順慶の本拠・筒井城を陥落させ、さらに平郡谷を焼き討ち。筒井方の十市氏も破ります。1日で城落とすのは普通に戦上手です。永禄3年には興福寺を破り、大和一国を統一。永禄4年には六角義賢と戦い、永禄5年には河内国の畠山高政を破るなど、かなり武功を挙げています。悪役イメージが強い?ですが、普通に有能武将です。
松永久秀の家紋と信貴山城
松永久秀の本拠地として有名なのが、奈良県に存在した 信貴山城(しぎさんじょう) です。山城として非常に堅固であり、久秀はここを拠点に勢力を拡大しました。信貴山は古くから信仰の山としても知られており、現在でも朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)が有名です。つまり久秀は、
- 軍事的に強い山
- 宗教的影響力のある土地
を押さえていたことになります。戦国武将なので立地にもちゃんと本気です
主君の死
しかし主君・三好長慶が死去すると、三好三人衆と対立。織田信長が上洛するまでは劣勢となり、一時は行方をくらますこともありました。戦国時代の“消息不明になる武将”はだいたいヤバい説を提唱したい、しかし信長の援軍を得たことで勢力を回復。筒井順慶や三好三人衆を押し返し、大和を平定していきます。以後は朝倉義景討伐で信長の窮地を救ったり、石山本願寺攻めにも参加するなど、織田家の重臣として活動しました。
松永久秀と将軍暗殺説
久秀には、「13代将軍・足利義輝暗殺に関わった」という面白い説もあります。1565年に起きた永禄の変では、室町幕府13代将軍・足利義輝が討たれました。この事件には三好三人衆や松永久通らが関与したとされ、久秀も関係を疑われています。ただし、
- どこまで主導したのか
- 本当に中心人物だったのか
については現在も議論があります。
茶人として

久秀は茶人としても有名でした。三好家家臣時代から莫大な富を築いていたとされ、その財力で名器と呼ばれる茶器を大量にコレクションしていました。戦国武将というより、もはや高級骨董マニアです。特に有名なのがあのつややかなやかんのような茶器でみんなもご存知の「平蜘蛛釜」です。当時の価値観では、下手な城より価値があったとも言われています。
全自動裏切り武将と化す

信長のおかげで大和での勢力を取り戻した久秀ですが、ここでなぜかトチ狂います。「ここまでは名将だったのに急にどうしたのか」長慶配下時代はかなり忠実だったにもかかわらず、信長に対しては謀反を繰り返すようになるのです。しかも3回。1回でもアウトなのに3回はさすがに多いと思うが、しかし信長は異様に甘く、武田信玄の西上作戦で謀反した際も所領没収程度で済ませています。さらには3度目の謀反の時でさえ、平蜘蛛釜を差し出せば許すつもりだったとも言われています。
信長そんなに平蜘蛛ほしかったんだね
なぜ松永久秀は信長に許され続けたのか
久秀が極めて有能だったためと考えられています。特に当時の畿内では、
- 政治
- 経済
- 寺社勢力
- 将軍家との関係
など複雑な問題が絡み合っていました。その中で久秀は、「扱いづらいけど超有能」という存在だったのです。松永久秀と筒井順慶の争いは、単なる「ライバル戦」じゃなく、戦国大和(奈良)の覇権争いそのものです。ざっくり言うと、
- 筒井氏=もともとの大和国人勢力の盟主
- 松永久秀=外部(三好政権)から来た新興勢力
という構図でした。
最後の裏切りの背景【筒井家との闘い】
戦国時代の大和国は、興福寺の影響が強く、国人(地元武士)たちが複雑に割拠していました。その中で筒井氏は、
- 興福寺と結びつき
- 奈良盆地に勢力を持ち
- 「大和武士の棟梁」的立場
を築いていました。そこへ1559年ごろ、三好長慶が重臣の松永久秀を大和へ送り込みます。 久秀は、
- 多聞山城を築き
- 奈良を軍事支配
- 寺社や交通路を押さえ
- 地元勢力を従わせる
ことで急速に勢力拡大しました。つまり「元からの地元ボス」筒井氏vs「中央政権バックの実力者」久秀の衝突だったわけです。
2. 多聞山城と奈良支配
久秀は奈良北方に多聞山城を築きます。先ほど書きましたが立地にこだわった久秀らしい、かなり革新的な城で、城下町支配、軍事拠点、奈良監視、東大寺・興福寺への圧力を兼ねていました。『多聞院日記』には、久秀軍や三好軍が奈良周辺で放火・布陣する様子が頻繁に出ます。永禄10年(1567)には、三好三人衆との戦いで奈良一帯が戦場化しました。 当時の奈良の寺院側から見ると、「また戦かよ…」というかなり迷惑な状況です。
3. 筒井順慶、追い詰められる
1568年、織田信長が上洛すると情勢が変わります。最初、久秀は信長に降伏し、
- 名物茶器「九十九髪茄子」を献上
- 大和支配を認められる
など優遇されました。『多聞院日記』にも「大和一国は久秀進退のまま」とあるほどです。 この時、松永久通(久秀の子)は筒井城を攻撃し、順慶は一時撤退に追い込まれます。 つまりこの頃は久秀優勢で筒井氏がかなりやばかったのです。
4. 逆転の転機「辰市城の戦い」
しかし1571年の辰市城の戦いが超重要。久秀は順慶を潰そうとしますが、筒井側が勝利。これで流れが変わります。 この頃になると信長は
- 「裏切りを繰り返す久秀」
- 「地元支配力のある順慶」
を比較して、次第に順慶を重視するようになります。せっかく信長を味方につけたのになにしてんだ久秀さん、、、
5. 『多聞院日記』に見える決定打
1576年、『多聞院日記』には超重要記事があります。「和州一国一円筒井順慶可有存知」つまり、「大和一国は筒井順慶に任せる」と信長が正式決定した。 これが実質
- 久秀失脚
- 順慶勝利
の決定打でした。さらに久秀の象徴だった多聞山城まで破却されます。 久秀からすると、苦労して築いた大和支配を奪われ、城も壊され、地元勢力に主導権を戻される。という屈辱でした。
6. 最後は信貴山で滅亡
ということで。翌1577年、久秀は再び反乱。筒井家との争いに圧された形ですがこの最後の裏切り以前から反乱はしているようでしたので、起爆剤的な意味合いに近いでしょう。
梟雄(きょうゆう)
久秀はしばしば、梟雄と呼ばれます。これは、「知略に優れた危険人物」のような意味です。単純な悪人というより頭が切れる、野心が強い、何をするか分からない人物に使われます。戦国時代では、
- 斎藤道三
- 宇喜多直家
なども梟雄と呼ばれることがあります。つまり久秀は、「戦国時代の自爆系ダークヒーロー」反乱して自爆、茶器と自爆。として人気があるわけです。
名器平蜘蛛と心中

天正5年、久秀は反信長勢力と呼応し、石山本願寺攻めから離脱。信貴山城に立てこもり、信長に反旗を翻しました。信長は使者を送り理由を聞こうとしましたが、久秀は会おうともしません。「もう完全に久秀が信長を振った形」信長軍に包囲される中、佐久間重盛は名器「平蜘蛛」を差し出すよう要求。でた平雲。しかし久秀は、「平蜘蛛の釜と我らの首、この二つは信長公に見せぬ」と拒否。そして平蜘蛛を叩き割り、城に火を放って自害しました。戦国時代の無理心中は茶器とともに。そこまでして渡したくなかったのか。
なお、創作では「爆死した」とされることが多いですが、実際には爆薬で派手に吹き飛んだという確実な史料はありません。ただインパクトが強すぎたため、「後世の創作で盛られた」という説もあります。

松永久秀はなぜ今も人気なのか
現代でも久秀の人気が高く(特に私からの人気が高い)戦国ゲーム大河ドラマ漫画小説などで頻繁に登場します。理由はやはり、キャラクター性の強さでしょう。
- 裏切る
- 茶器に執着
- 信長と戦う
- 爆死伝説
- なんか悪役感
- でも文化人
と、エピソードが非常に濃いです。特に茶器と爆死は創作とはいえどんだけ茶器好きだたんだよってなるますよね
まとめ

それが、茶器を愛し、茶器と共に伝説になった男・松永久秀でした。彼はゲームではなく漫画【へうげもの】で知ったんですが調べてみたら「戦国武将なのに最終的な知名度が“茶器を壊した人”でかなり面白いなって思いました(笑)」
参考資料・出典
- Wikipedia「松永久秀」「平蜘蛛」
- コトバンク「松永久秀」
- 国立国会図書館
- 多聞院日記

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