戦国時代には多くの女性が歴史の表舞台に立ったが、その中でも特に評価が分かれる人物の一人が築山殿です。江戸時代以降、築山殿は
- 武田家への内通
- 徳川家中の混乱
- 嫉妬深い悪女
- 毒婦
などとして描かれることが多かった。しかし近年では、「本当に築山殿は裏切り者だったのか?」という再検討も進んでいます。
築山殿とはどんな人物?
築山殿は、戦国大名徳川家康の正室として知られる女性です。一般には「築山御前」とも呼ばれています。父は今川氏家臣の関口親永、母は瀬名姫とされることが多く。今川氏と松平氏は当時同盟関係にあり、その関係強化のために家康と結婚しました。
家康は若い頃、駿府で今川家の人質として生活していました。その時期に築山殿と婚姻関係を結んだと考えられています。二人の間には、
- 松平信康
- 亀姫
が生まれました。特に信康は徳川家の嫡男として将来を期待されていたようです。
「築山殿」という名前の由来
実は「築山殿」は本名ではありません。静岡県浜松市付近に存在した「築山」という地名に由来するとされていますが。戦国時代の女性は実名が不明な場合も多く、「○○殿」「○○御前」と呼ばれるケースが珍しくありません。コトバンクでも、築山殿は徳川家康の正室として紹介されており、後年に起きた「信康事件」と深く関わる人物として説明されています。
築山殿と徳川家康の関係
築山殿と家康の夫婦仲については、古くからさまざまな説が語られてきました。江戸時代の軍記物などでは、
- 家康は側室を寵愛した
- 築山殿は嫉妬深かった
- 夫婦関係は悪化していた
と描かれることが多いようです。しかし、これらの多くは後世の創作や脚色を含む可能性が指摘されています。
『史疑 徳川家康事蹟』では、築山殿を単純な「悪女」とみなす見方に疑問を呈しており。また、築山殿の実家である関口家や今川家との縁は、当時の徳川家にとって政治的にも重要でした。そのため築山殿は、単なる「奥方」ではなく、一定の政治的影響力を持っていた可能性があるのです。

松平信康事件とは?
築山殿を語る上で避けられないのが、1579年に起きた「信康事件」です。この事件では、
- 築山殿が処刑
- 松平信康が切腹
という悲劇的な結末を迎えました。原因とされたのは、「築山殿と信康が武田家と内通していた」という疑惑だったそうです。当時、徳川家は織田信長と同盟関係にあり、敵対していたのが武田勝頼でした。信康の正室は信長の娘・徳姫であり、徳姫が父・信長へ送った訴状が事件の発端になったとされます。その内容は、
- 築山殿が武田家と通じている
- 信康にも問題がある
というもの。これを受け、家康は最終的に築山殿を処刑し、信康に切腹を命じました。
本当に内通していたのか?
しかし現在では、「築山殿の内通を裏付ける決定的証拠は少ない」と考える研究者も多いようです。『史疑 徳川家康事蹟』でも、
- 後世の悪女像には脚色が多い
- 「毒婦」扱いは疑問
- 内通の証拠は弱い
という方向性で論じられています。戦国時代、大名家同士で親族関係を持つことは珍しくなく、築山殿にも武田方と縁戚関係が存在しました。そのため、
「親族間で手紙や贈答品のやり取りがあった」
としても、それだけで内通と断定できるわけではないのです。また、築山殿が本当に武田家へ協力していた場合、息子である信康自身の立場も危険になります。この点からも、
「本当に母親が息子を破滅させるような行動を取るのか」
という疑問が出ているようです。
信長の圧力説
信康事件については、「織田信長の圧力」が原因だったという説も有力です。当時の信長は急速に勢力を拡大しており、家康は重要な同盟相手だした。その一方で、信長は敵対者に非常に厳しい人物としても知られています。『史疑 徳川家康事蹟』では、
- 家康が信長を強く警戒していた
- 信長へ逆らいにくい状況だった
ことが描かれている。つまり、「本当に罪が確定したから処刑した」というより、「同盟維持のために処分せざるを得なかった」可能性があるという見方であります。
徳川家中の政治対立説
さらに、徳川家内部の派閥争いを重視する説も存在します。築山殿と信康は岡崎城を拠点としていたが、岡崎には古参の三河武士が多かったのです。一方、家康は織田家との連携を強めながら勢力を拡大していました。このため、
- 岡崎派
- 家康本隊派
の間に温度差があったとも考えられています。『史疑 徳川家康事蹟』では、「誰かの讒言によって築山殿と信康が追い詰められた可能性」も示唆されています。つまり信康事件は、
- 単純な裏切り事件
ではなく、 - 家中政治
- 織田との外交
- 派閥争い
などが複雑に絡んだ事件だった可能性があるのです。
築山殿の最期
築山殿は1579年、遠江国佐鳴湖付近で処刑されたと伝わります。その後、信康も切腹しました。徳川家康は後に江戸幕府を開き天下人となるが、その過程で妻と嫡男を同時に失ったことになります。築山殿は長い間、
- 悪女
- 毒婦
- 裏切り者
として語られることが多かったのですが。しかし近年では、「勝者である徳川政権によって悪役化された可能性」も含めて再評価が進んでいるようです。

三河物語
ちなみに江戸時代に書かれた三河物語では家康に都合が悪かったのか信康事件についてほとんど触れられていませんでした。内容はほぼ
- 家康称賛
- 家臣団称賛
- 戦記・統治論中心
- 徳川家の正統性強調
です。だから徳川側軍記物である『三河物語』では、築山殿事件への詳細な記述は多くないですね。てか見当たらん。見つけられなかっただけかもですが。
まとめ
築山殿は、徳川家康の正室として戦国史に大きな足跡を残した女性です。従来は「悪女」として語られることが多かったが、近年では、
- 内通の証拠不足
- 後世の脚色
- 信長の圧力
- 徳川家内部の政治対立
などから、単純な悪人とは言い切れないという見方も強まっています。もしも濡れ衣で処刑されたのだとしたら。とんでもない悲劇です。本当なら天下人の奥さんなのに旦那に殺されるとは、、、しかも後世に残る汚名まで着せられて私なら耐えられないよ。築山殿もまた、時代や政治に翻弄された悲劇の女性だったのかもしれないです。あと関ケ原もそうだけど家康の謀略好きっぷりには感心するよほんとに。
ただ本当に内通していた可能性もありますのであしからず。
参考文献・参考資料
- 『三河物語』
- Wikipedia「築山殿」
- コトバンク「築山殿」
- 国立国会図書『史疑 徳川家康事蹟』

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