【三国志】簡雍の影が薄すぎる

簡雍とは中国後漢末期の文官で字は憲和。幽州の出身です。彼の知名度は低いと思われますが、桃園の誓いをしたと創作までされた劉備に旗揚げ時代から従軍している最古参のひとりです。

しかし三国志が好きな日本人でも数々の功績を残し82歳まで生きたみんな大好きあの田豫(でんよ)は知っていても簡雍を知っている人は少ないでしょう。そんなかわいそうな彼を少しばかり紹介します。

劉備らと黄巾の乱を駆け抜ける、その後は使者

簡雍は劉備とは旧知の仲で張角による黄巾の乱が始まると劉備、関羽、張飛、田豫たちと義勇軍を結成し、黄巾賊と戦いました。

黄巾の乱が終わってからも劉備に従軍し各地を転々とし、劉備が荊州に入ると従事中郎となり使者を務めたそうです。

劉備が益州に入ると当時の益州刺史であった劉璋に気に入られ劉備が諸葛亮の進言で成都攻略戦を始めると劉璋への降伏勧告の使者となり、劉璋は簡雍の説得に応じ劉備に臣従しました。

益州平定後はその功績が認められ、昭徳将軍に任命されました。しかしこれ以降は簡雍についての記述は無いようで引退か死去したものと思われます。

簡雍はおおらかで落ち着いた性格をしており非常にだらしなかった。劉備や諸葛亮らに対しても全く遠慮せず、自分だけ長椅子の上で寝そべったまま談笑することもあったそうです。

彼には武勇伝が無い

すでにお気づきかと思われますが黄巾賊と戦った割には彼には関羽や張飛のように武勇伝がなく、またあの田豫のような曹影を補佐し知略でもって土地を平定したなどということもありません。

しゃべりがうまくて使者としての伝説はありますので、察するに面白おじさんだったのでしょうね。

このような話もあります↓

ある土地で禁酒令が出ていた際、酒造道具をもっていたというだけで逮捕された者がいました。簡雍が劉備と歩いていたとき、簡雍はある男女をみて「あの二人はこれから淫行の罪を犯そうとしてはりまっせ、なぜ捕えへんのでっか?」と聞くと、劉備が「なんでそれがお前にわかんねん」と尋ねた、簡雍は「あの者たちは淫行の道具を待ってはりまっからや」と答えたという(the・下ネタ☆)。劉備は大爆笑し酒造道具の所有者を許すことにしたとういう。

なぜ無名で終わったのか

益州を平定した成都攻略戦での無血開城も立派な功績なのですがあまりぱっとしません。

劉備に最初期から付き従った人ですからもっと武力や知略が秀でていれば関羽や張飛、田豫らに並んで有名になってもいてもおかしくはなかったかもしれませんね。

それが面白いおじさん簡雍なのでした。

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