関羽とは中国後漢末期の武将。劉備が旗揚げした時から死ぬまで張飛とともに仕えた蜀の最古参の武将で身長は9尺の長身であごに立派でフサフサそうな髭を蓄えていたそうです。
曹操と袁紹の戦いである官渡の戦いでは袁紹軍の猛将で二枚看板の顔良(通称イケメン)と文醜(通称ブサイク)を討ち取るほどの人並み外れた武勇を持つ(二枚看板の名前が気になりますが)。
曹操へ客将として捕えられていたいた際には曹操は関羽の武勇を高く評価し厚遇して部下にしたがったが劉備への忠義を貫き曹操への恩返しを果たしたあとは主君である劉備の元に戻るなど、義理を重んじる人格でした。
その存在は死後に神格化され神としてまつられる程に後世の人達にも人気があり中国では1938年から1945年まで紙幣として発行されていたこともります。
劉備が旗揚げした時から死ぬまで張飛とともに仕えた蜀の最古参の武将です。諸葛亮の進言で劉備が蜀に入ると関羽は荊州の守備を任されるようになり、劉備が益州を獲得後は関羽の功績は張飛や諸葛などと並ぶと評され荊州の軍事総督に任命されました。
死因はプライド
そんなパーフェクト超人に見える関羽ですが当然弱点もありました。それはプライドが高かったということです。
劉備が諸葛亮を三顧の礼で迎えて重用するようになると張飛と一緒になって不満をつのらせましたが劉備に説得されるということがあったり。
さらに黄忠が後将軍に任じられた際、「あんなジジイと同格になれるか」と不満を表し前将軍への就任を拒否しようとしとこともあるそうです。部下には優しかった関羽だが同僚とは仲が悪かったようです。
荊州を任されたあとも関羽と同じく荊州を守るビホウ、士仁とも良好な関係であったとは言い難った。
孫権が関羽との仲を深めるため関羽の娘に、孫権の子との婚姻の申し入れがあった時、関羽はこれを「格がちげーw」(演義より「虎の娘を犬の子にやれるか」)と断り孫権を怒らせます。
さらに孫権が関羽に援軍を要請した際に孫権はわざと軍をゆっくり進めたが関羽はこれに対し「狢子」と罵倒したといいます(孫権は陳謝した)。
関羽の最期
孫権が蜀との荊州領有を巡る争いが解決しないことに業を煮やし(多分関羽のこと嫌いだったと思うし)呂蒙、陸遜に命じて荊州に攻め入ります(樊城の戦い)
この時、関羽と仲が悪かったビホウと士仁は速攻で呉に降参し陸遜を舐めてかかってた関羽はすぐには撤退せずに益州への逃げるタイミングを失って潘璋配下の馬忠とかいう無名の武将にあっさり捕縛され呉に連れていかれることになります
関羽の首は孫権の使者から曹操の元へと送られ、曹操は洛陽に彼の首級を葬ったとされます。変わり果てた関羽の姿に曹操は何を思ったのでしょうか。
これが現在神と崇められている蜀の武将。関羽でした
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