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【三国志】張郃とは?街亭で馬謖を破った名将

目次

張郃の概要

張郃(ちょうこう)、字は儁乂(しゅんがい)。河間郡鄚県の出身で後漢末から魏の明帝・曹叡の時代まで戦い続けた武将です。

張郃は当初、韓馥、次いで袁紹に仕えました。官渡の戦いを機に曹操へ帰順すると河北、北方、関中、漢中、荊州、隴右と各地を転戦します。夏侯淵が定軍山で戦死した際には動揺する軍を立て直し街亭の戦いでは馬謖の水源を断って諸葛亮の第一次北伐を挫折させました。最後は231年、撤退する諸葛亮軍を木門まで追撃し矢を受けて戦死しています。

生年は不明です。正史には「漢末に募兵へ応じて黄巾を討った」とあるだけで184年の黄巾の乱に参加したとは明記されていません。仮に184年から従軍していたなら、231年の戦死まで47年が経過しているため、最期は60代後半から70代だった可能性もあります。張郃は勝利だけを重ねた無敗の将ではありません。張飛に大敗してわずかな部下と逃れたこともあります。それでも敗北から立ち直り、曹操、曹丕、曹叡の三代にわたって重用されました。

正史における張郃

黄巾討伐から袁紹軍の名将へ

陳寿『三国志』巻17・張郃伝によれば、張郃は後漢末に募兵へ応じて黄巾を討ち軍司馬となって冀州牧の韓馥に属しました。韓馥が敗れると自らの兵を率いて袁紹のもとへ移ります。

袁紹は張郃を校尉に任じ公孫瓚との戦いに参加させました。公孫瓚が敗れるまでに張郃は多くの功績を挙げ寧国中郎将へ昇進しています。曹操へ降る以前から、すでに独立して兵を任せられる指揮官だったことが分かります。

官渡の戦い―正しい進言と謎の残る降伏

200年、曹操と袁紹が官渡で対峙しました。曹操が袁紹軍の兵糧拠点・烏巣を急襲すると張郃は「曹操軍は精鋭であり淳于瓊らは必ず破られる。烏巣が失われれば袁紹軍の大勢も決する」と考え直ちに救援するよう進言します

ところが郭図は曹操の本営を攻めれば曹操は烏巣から戻ると主張しました。張郃は曹操の本営は堅固で攻め落とせず、烏巣まで失えば全員が捕虜になると反対します。しかし袁紹は十分な救援兵を送らず主力には曹操の本営を攻めさせました。結果は張郃の予測どおりとなり烏巣は陥落します。

張郃伝では作戦失敗を恥じた郭図が「張郃は敗北を喜んでいる」と讒言したため張郃が危険を感じて曹操へ降ったと記されています。曹操はその帰順を喜び殷を離れた微子や漢へ帰した韓信になぞらえ、偏将軍・都亭侯に任じました。

ただしここからは裴松之注による重要な指摘です。『三国志』の武帝紀と袁紹伝では、張郃と高覧が降伏したため袁紹軍が大崩壊したとされます。一方、張郃伝では袁紹軍が崩壊した後、郭図の讒言を恐れて降ったことになっています。裴松之は両者の矛盾を示しましたがどちらが正しいかまでは決めていません。したがって張郃の降伏と袁紹軍崩壊の正確な順序は不明です。

しかし個人的にですが崩壊の順序は両方あったとしても矛盾しないと考えています。戦場が右翼、中央、左翼など複数に分かれていてまず右翼のみが崩壊したとします。それをみた郭図が讒言→張郃と高覧が降伏→残った中央と左翼含めた戦場全体が崩壊、という事もあり得るからです。

曹操のもとで各地を転戦

曹操軍に加わった張郃は鄴攻略、袁譚討伐、雍奴攻略など河北平定戦に参加しました。柳城遠征では張遼とともに先鋒を務め功績によって平狄将軍へ昇進します。その後も東萊の管承、陳蘭・梅成、馬超・韓遂、楊秋、梁興、宋建らとの戦いに投入されました。

曹操が漢中の張魯を討つときには張郃が歩兵五千を率いて先行し軍の進路を切り開いています。ここに見えるのは単に強敵へ突撃する猛将ではありません。山地の多い漢中方面で軍全体が進む道を確保する先遣部隊の指揮官でした。

張飛に大敗―正史にも残る瓦口の敗戦

漢中平定後、曹操は張郃と夏侯淵らを残して劉備軍に備えさせました。張郃は巴東・巴西方面へ進み、住民を漢中へ移そうとします。しかし宕渠、蒙頭、蕩石で張飛と五十日余り対峙した末に敗れました。

張飛は一万余りの精兵を率いて別の道から張郃軍を攻撃します。山道が狭く、張郃軍の前後の部隊が互いに救援できなくなったため張郃軍は崩れました。張郃は馬を捨てわずか十余人の部下と山を越えて南鄭へ逃れています。

これは演義だけの敗北ではなく張飛伝にも明記された正史上の大敗です。しかし張郃はこの失敗だけで歴史の表舞台から消えませんでした。広石では劉備が一万余りの精鋭を十隊に分けて夜襲を仕掛けたのに対し、張郃は親兵を率いて戦い陣地を守り切っています。惨敗の後にも再び重要な戦線を任されたこと自体、魏軍内での信頼の強さを示しています。

夏侯淵の死後、動揺する軍を立て直す

219年、定軍山で夏侯淵が戦死すると漢中方面の魏軍は総大将を失って動揺しました。このとき夏侯淵の司馬だった郭淮は張郃を「国家の名将であり、劉備も警戒する人物」として臨時の軍主に推します。

張郃が軍を整えて陣を布くと諸将はその指揮に従い、軍心はようやく安定しました。曹操も使者を送り張郃に節を仮しています。戦場で敵を破るだけでなく敗戦直後の軍をまとめ直せることも張郃の大きな能力でした。

ここからは裴松之注に引かれた『魏略』の逸話です。同書は劉備が夏侯淵より張郃を恐れており夏侯淵を討ったときに「本当はその大将を得るべきだった。これを得て何になるのか」と語ったと伝えます。張郃の重要性を示す逸話ですが陳寿本文ではなく『魏略』所載の発言であるため、劉備がこの言葉を一字一句そのまま口にしたとまでは断定できません。

街亭で馬謖を破り、第一次北伐を挫折させる

228年、諸葛亮が第一次北伐を開始すると魏の朝廷は張郃に諸軍を指揮させ蜀の先鋒・馬謖を迎え撃たせました。

馬謖は街亭の城や街道を押さえず南山を頼って高所に布陣しました。張郃はその弱点を見抜き水を汲む道を断って攻撃します。馬謖軍は大敗し諸葛亮に呼応していた南安・天水・安定の三郡も張郃によって平定されました。正史では街亭の勝利は明確に張郃の功績として記されています。後世の印象では司馬懿と諸葛亮の知略戦として語られがちですが陳寿本文で馬謖の布陣を破り第一次北伐を崩壊へ導いた魏軍の中心人物は張郃です。

諸葛亮の兵糧不足まで読み切った陳倉救援

諸葛亮が陳倉を急襲すると曹叡は張郃を都へ呼び戻し救援を命じました。皇帝は張郃の到着まで陳倉が持ちこたえられるか心配します。

これに対して張郃は諸葛亮軍が遠征軍であり十分な兵糧を持たないことを見抜いていました。そして自分が到着する前に諸葛亮は撤退しており兵糧は十日も持たないだろうと答えます。実際、張郃が南鄭へ進む間に諸葛亮は撤退しました。この功績によって張郃は征西車騎将軍となります。街亭では水、陳倉では兵糧。張郃は敵兵を正面から打ち倒すだけでなく軍が戦い続けるために不可欠な補給を見抜く将でした。

「諸葛亮さえ憚った」地形と戦勢を読む能力

張郃伝はその能力を変化の筋道を理解し陣営の配置に優れ戦いの形勢と地形を予測すれば計算どおりにならないことがなく諸葛亮さえ警戒したと高く評価しています。

さらに張郃は武将でありながら儒学者を好、同郷の卑湛を学問と行いに優れた人物として推薦しました。曹叡はその姿勢を喜び卑湛を博士に抜擢しています。正史の張郃は武勇一辺倒の人物ではありません。戦場の経験と知性を備え学問を尊重した将軍として記録されています。

木門で戦死―裴松之注では追撃に反対

231年、諸葛亮が再び祁山へ出ると張郃は諸将を率いて西へ向かいました。諸葛亮軍が撤退したため木門まで追撃し交戦中に流れ矢を右膝に受けて戦死します。死後、壮侯と諡されました。

ここからは裴松之注に引かれた『魏略』の異説です。『魏略』によれば司馬懿が追撃を命じた際、張郃は「退却する軍を追ってはならない」と反対しました。しかし司馬懿が聞き入れず張郃はやむを得ず進撃し蜀軍が高所に置いた伏兵から弩を浴びて腿を射られたとされます。

陳寿本文では矢を受けた場所が「右膝」、『魏略』では「腿」と異なります。また、追撃に反対したという話も『魏略』にのみ見えるため確定した事実とはいえません。

『三国志演義』における張郃

張遼と互角に戦う袁紹軍の名将

『三国志演義』の張郃は正史の用兵家としての一面を残しながら一騎討ちを得意とする豪勇の将へと脚色されています。

官渡の戦いでは張遼と四、五十合を戦って決着がつかず曹操を驚かせました。もちろんこの一騎討ちは正史にはありません。一方、烏巣を救援すべきだと袁紹に進言したこと、郭図の策によって曹操の本営を攻めて失敗したこと、郭図の讒言を恐れて高覧とともに曹操へ降ったことは張郃伝の筋書きをもとに物語化されています。

曹操軍へ加わった後は長坂で趙雲、潼関で馬超らと刃を交えます。正史には存在しない戦いですが演義はこうした場面を重ねることで張郃を名だたる豪傑と渡り合える魏の代表的武将として読者に印象づけました。

張飛や黄忠ら蜀将の強さを示す相手

巴西をめぐる張飛との戦いは正史にも張郃の敗北として残っています。しかし演義では三つの陣地、張飛の飲酒を利用した誘い出し雷銅をめぐる駆け引きなどが加えられ大幅に物語化されました。

張郃は張飛と三十余合、さらに火の中で三、五十合にわたって戦います。最後は三つの陣地を失って瓦口関へ逃れ張飛の知略と武勇を際立たせる役割を担いました。その後も黄忠や趙雲らと対峙ししばしば蜀将の見せ場を作る相手になります。

ただし演義の張郃は単純なかませ役ではありません。夏侯淵に黄忠と法正を警戒するよう進言するなど慎重で戦況を読む人物としても描かれます。敗れる場面が多い一方、蜀の英雄たちが総力を挙げなければ倒せない危険な名将でもあるのです。

街亭―功績の中心が司馬懿へ移される

演義でも張郃は街亭攻略に参加し王平と数十合を戦い、馬謖軍の退路を追います。しかし正史との大きな違いは作戦の中心人物が司馬懿に変更されていることです。

演義では司馬懿が街亭の重要性を見抜き馬謖軍を包囲して水路を断つよう命じます。張郃は王平の救援路を遮断する実戦担当として働きました。正史で「張郃が水を汲む道を断って大破した」と簡潔に記された功績が演義では司馬懿の神算を示す物語へ組み替えられています。

木門道の最期―追撃に反対した将から追撃に固執した将へ

演義の最期は裴松之注に引かれた『魏略』と正反対です。

蜀軍が撤退すると張郃は自ら追撃を志願します。司馬懿は「諸葛亮は伏兵を置いているはずだ」と止めますが張郃は功を立てる機会だとして譲りません。魏延と関興の偽装退却を追って木門道へ入り岩や木で退路を断たれ、両側から放たれた無数の弩によって部将百余人とともに戦死します。

正史本文は追撃中の戦死を簡潔に記し、『魏略』は張郃が追撃に反対したとします。これに対して演義は張郃自身の勇猛さと功名心が災いして諸葛亮の罠へ落ちた物語へ変えました。演義における張郃の死は、魏の名将を倒した諸葛亮の知略を強調する劇的な結末になっています。

正史と演義における張郃の違い

比較項目正史『三国志』『三国志演義』
人物の中心像地形、陣形、兵站、戦況の変化を読む指揮官知略も備え、多くの一騎討ちを行う豪勇の名将
官渡での戦闘烏巣救援を進言。曹操本営への攻撃は失敗。一騎討ちの記録はない張遼と四、五十合戦って互角。高覧とともに曹操へ降る
降伏の順序張郃伝と武帝紀・袁紹伝が矛盾しており不明郭図の讒言を受け、袁紹軍の最終的崩壊前に高覧と降伏
張飛との戦い狭い山道で前後を分断され大敗。馬を捨て十余人と逃れる一騎討ち、飲酒の計、三つの陣地などを追加し、張飛の知勇を強調
夏侯淵戦死後混乱する魏軍をまとめ、臨時の軍主として軍心を安定させるこの統率上の功績は正史ほど強く描かれない
街亭の戦い張郃が馬謖の水源を断って大破。張郃自身の代表的功績作戦の中心は司馬懿。張郃は王平を遮断する実戦担当
陳倉救援諸葛亮軍の兵糧が十日も持たないと正確に予測張郃の兵站判断を示す同じ規模の見せ場は乏しい
一騎討ち張遼、趙雲、馬超、張飛らとの一騎討ちは記されない名将たちと繰り返し一騎討ちを行う
木門での死追撃中、右膝に流れ矢を受けて死亡。『魏略』では追撃に反対した異説自ら追撃を強く望み、諸葛亮の伏兵と万弩によって戦死
人柄儒者を好み、同郷の学者を朝廷へ推薦勇猛、慎重、時に自信過剰な武人として描写

陳寿の評価は張郃を「五子良将」と呼ぶのに十分なのか

張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃の五人は、今日では一般に「五子良将」と呼ばれています。ただし陳寿が『五子良将』という固有の集団名を使ったわけではありません。陳寿は五人を巻17にまとめ、「曹操が武功を築いたとき、当時の良将ではこの五人が第一であった」と評しました。この文章が、後世の呼称のもとになっています。

ところが陳寿はここで五人を一様に称賛して終わりません

陳寿は張郃は臨機応変な「巧変」によって称えられ楽進は勇猛果敢さによって名を知られたと述べたうえで、二人の事績を調べても耳にしていた評判には十分に見合わないと記しています。そしてあるいは記録に漏れがあり張遼や徐晃ほど詳しく残らなかったのかもしれないと推測しました。

つまり陳寿が『三国志』を編纂した三世紀末には、張郃を「巧変の名将」とする強い評判が伝わっていたのでしょう。しかし陳寿自身が確認できた資料だけではその評判を張遼の合肥戦や徐晃の樊城救援のような具体的で詳細な戦闘記録によって十分に裏づけられなかったのです。

ここは誤解してはいけません。陳寿は「張郃は過大評価だ」としていません。反対に「本当は張遼や徐晃とまったく同じだけの功績があった」としたわけでもありません。評判が実績以上に高かった可能性と優れた事績を伝える記録が失われた可能性の両方を残しています。またこの疑問は張郃だけでなく楽進にも向けられたものです。

それでも私は張郃の記録を読むほど少しもどかしい気持ちになります。街亭で馬謖の水源を断ち諸葛亮の第一次北伐(子の時、正史では司馬懿もいない)を挫折させた。陳倉では敵の兵糧が尽きる時期を読み切った。夏侯淵の戦死後には崩れかけた軍をまとめ直した。これだけでも張郃が並の武将でなかったことは疑いありません

しかし張遼には合肥、徐晃には樊城という本人の判断と戦い方が細部まで見える代表戦があります。張郃にもそれに並ぶ「巧変」の戦いが本当はあったのでしょうか。それとも後世に伝わった名声が実像を少し大きくしていたのでしょうか。今残る史料だけでは答えは不明です

だからこそ陳寿が「資料では評判を十分に確かめられない」と正直に記したことに私は史家としての誠実さを感じます。同時にもし失われた記録が残っていたなら私たちは張遼の合肥、徐晃の樊城と並ぶ、張郃自身の代表戦を知ることができたのではないかと思わずにはいられません。

張郃は無敗の英雄ではありません。大敗し、逃げ延び、それでも再び軍を任され最後まで諸葛亮と戦い続けました。華々しい逸話が完全には残っていないからこ、敗北から立ち上がり、長い経験によって敵の一手先を読むようになった実戦の将としてその姿がかえって胸に残るのです。

参考資料

  • 陳寿『三国志』魏書巻17「張楽于張徐伝」張郃伝、蜀書巻6「関張馬黄趙伝」張飛伝、裴松之注所引『漢晋春秋』『魏略』
  • 『三国志演義』毛宗崗本・第30回、第70回、第95回、第101回ほか
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