【三国志】徐晃とは?関羽の包囲を破った五子良将

目次

徐晃の概要

徐晃(じょこう)字は公明。河東郡楊県の出身で後漢末から三国時代初期にかけて曹操・曹丕・曹叡の三代に仕えた武将です。

徐晃はもともと曹操の家臣ではなく白波軍出身の将軍・楊奉に仕えていました。その後、曹操のもとへ移り呂布、袁紹、馬超、劉備、関羽らとの戦いで武功を重ねます。なかでも最大の功績は建安二十四年(219年)の樊城救援です。関羽が築いた幾重もの包囲陣を破り曹仁の危機を救いました。

陳寿は張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃の五人を「当時の良将では、この五人が第一だった」と評価しています。後世にいう「五子良将」です。ただしこれは当時の正式な称号や部隊名ではありません。最終的に徐晃は右将軍・陽平侯となり太和元年(227年)に病没しました。生年は記録されていないため正史における享年は不明です。

正史における徐晃

楊奉に仕え献帝の洛陽帰還を進言する

徐晃は若いころ郡の役人を務め、のちに車騎将軍・楊奉に従いました。賊の討伐で功績を挙げ騎都尉に任じられています。李傕と郭汜の争いによって長安が混乱すると徐晃は楊奉に対し献帝を洛陽へ帰還させるよう進言しました。献帝が黄河を渡って安邑へ到着すると徐晃は都亭侯に封じられます。

しかし洛陽へ戻ったあとも韓暹と董承らの争いは収まりませんでした。そこで徐晃は、今度は楊奉に曹操への帰順を勧めます。楊奉はいったん従おうとしながら翻意し、やがて梁で曹操の攻撃を受けました。その後、徐晃は曹操のもとへ移っています。

ここは徐晃を考えるうえで重要な部分です。正史には「太祖、奉を梁に討ち、晃ついに太祖に帰す」とあり徐晃が捕らえられて降伏したとは書かれていません。しかも徐晃は両軍が戦う前から曹操への帰順を進言していました。

官渡の戦いまでに数々の武功を挙げる

曹操に仕えた徐晃は巻・原武の賊を破って裨将軍となりました。その後は呂布討伐に参加し呂布軍の趙庶・李鄒らを降伏させ史渙とともに河内で眭固を斬っています。

さらに劉備を破る戦いに従軍し白馬・延津では顔良と文醜を破った曹操軍の一員となりました。正史には徐晃と顔良・文醜の一騎打ちは記録されていません。

官渡の戦いでは史渙とともに袁紹軍の輸送部隊を襲撃して食糧車を焼き、その功績は「最も多かった」と記されています。兵站を破壊して袁紹軍を弱らせたこの働きは正面から敵将を斬ることにも劣らない大きな戦功でした。

易陽を滅ぼさず周辺の城を降伏へ導く

曹操が河北平定を進めていたころ、易陽県令の韓範は一度は降伏を申し出ながら再び城に立てこもりました。徐晃は城内へ矢文を射込み抵抗を続けた場合の利害を説明します。韓範が改めて降伏すると徐晃はこれを受け入れました。

徐晃は曹操に対し袁譚と袁尚がまだ滅びていない状況で易陽を皆殺しにすれば、周辺の城も死ぬまで抵抗するだろうと説明しました。反対に易陽の降伏を許せば、ほかの城も曹操になびくと考えたのです。曹操はこの判断を高く評価しました。

戦えば勝てるかどうかだけでなく、その戦いが周辺の都市へどのような影響を与えるかまで考えている。ここには徐晃が単なる猛将ではなかったことがよく表れています。

潼関では馬超軍の背後を取る

馬超・韓遂らが曹操に反旗を翻すと徐晃は敵が蒲阪津に別働隊を置いていないことに注目しました。そして「敵に計略がない証拠です」と判断し精兵を率いて先に黄河を渡り、敵の背後を遮断する策を提案します。

曹操はこの案を採用し、徐晃に歩兵・騎兵四千人を与えました。徐晃が渡河後の陣地を完成させる前に梁興が五千余人を率いて夜襲しましたが徐晃はこれを撃退します。その結果、曹操本隊も無事に黄河を渡ることができました。

なお、この進言の中で徐晃が「臣」と称した形になっている箇所について裴松之は「当時の徐晃が臣と称するはずはなく、伝写の誤りだろう」と注記しています。徐晃伝そのものに付された裴松之の注釈は多くなく、これは数少ない直接的な指摘の一つです。

漢中では劉備軍の作戦を打ち破る

漢中をめぐる戦いでは劉備軍の陳式らが十余りの陣営を築き、馬鳴閣道を遮断しようとしました。徐晃は別働隊として陳式らを破り多くの兵が山谷へ転落して死亡したと記録されています。

曹操は馬鳴閣道を漢中の「険要・咽喉」と呼び、劉備の作戦を一度の戦いで破った徐晃を「善の善なる者」と絶賛しました。のちに『三国志演義』では徐晃が漢中で王平の忠告を無視して敗れる物語が描かれますが正史では反対に、徐晃が劉備軍の交通遮断作戦を打ち破った側です。

最大の功績―樊城で関羽の包囲を破る

建安二十四年(219年)関羽は荊州から北上して樊城の曹仁を包囲しました。折からの大雨で漢水が氾濫し救援に来た于禁の七軍は水没します。于禁は関羽に降伏し龐徳は降伏を拒んで処刑されました。

徐晃は曹仁の救援を命じられましたが率いていた兵の多くは新兵でした。徐晃は関羽軍とすぐに決戦せず陽陵陂まで進んで援軍を待ちます。『三国志』趙儼伝によれば徐晃の兵力だけでは包囲を解くには足りず、趙儼も援軍の到着を待って内外から挟撃するよう主張していました。

兵力が集まると徐晃は慎重さから一転して攻勢に出ます。

まず偃城では関羽軍の背後を断つように見せかけて塹壕を掘りました。関羽軍が陣営を焼いて退くと徐晃は偃城を確保します。さらに「囲頭の陣を攻撃する」と宣伝しながら実際には四冢の陣を密かに攻めました。

関羽は自ら歩兵・騎兵五千人を率いて出撃しますが徐晃はこれを撃破。退く関羽軍を追って包囲陣の内部へ突入し、幾重にも築かれていた塹壕や鹿角を突破しました。

曹操は三十年以上にわたって軍を用いてきた自分でさえ敵の包囲陣へこれほど長駆して突入した例を知らないと称賛しました。さらに樊城と襄陽を救った功績は孫武や司馬穰苴を超えるとまで述べています。徐晃が摩陂へ帰還すると曹操は七里先まで出迎えました。曹操を見るためにほかの軍の兵士が持ち場を離れるなか徐晃軍だけは整然と陣形を保っていたため曹操は「徐将軍には周亜夫の風格がある」と感嘆しています。

ただし関羽の最終的な敗北は徐晃一人によるものではありません。徐晃が正面から包囲陣を破り曹仁と満寵が樊城を守り抜き、その一方で孫権軍が関羽の背後にある江陵・公安を奪いました。魏と呉の挟撃が重なった結果です。それでも正面戦線から関羽の包囲を打ち破った最大の功労者が徐晃だったことは間違いありません。

注釈―徐晃と関羽は親しい仲だったのか

徐晃と関羽の関係については陳寿の正史本文と裴松之注を分けて読む必要があります

陳寿が書いた関羽伝本文には曹操が徐晃を曹仁の救援へ送り関羽が勝利できずに撤退したことは書かれています。しかし徐晃と関羽が以前から親しかったとは記されていません。

二人の私的な関係を伝えるのは裴松之注が引用した『蜀記』です。そこには徐晃と関羽は以前から親愛の間柄であり、戦場でも離れた場所から昔話をして軍事の話には触れなかったとあります。

ところがその直後に徐晃は馬を下り「関雲長の首を得た者には金千斤を与える」と命令しました。驚いた関羽が「大兄、何ということを言うのか」と尋ねると徐晃は「これは国家の事だ」と答えたとされます。したがって「正史本文では二人の仲が悪く、裴松之注では親しかった」と対立しているわけではありません。正確には陳寿本文は二人の私的関係に触れず、裴松之注に引用された『蜀記』だけが旧交を補足しています。

また、この逸話から幼なじみ義兄弟、実の兄弟同然だったとまでは断定できません。二人がいつ、どこで知り合ったのかも不明です。確認できるのは『蜀記』が二人を「以前から親愛の間柄」と伝えていること、そして徐晃が私情より軍務を優先したことまでです。

倹約家で慎重、しかし勝機には激しく追撃した

陳寿は徐晃の性格を倹約で慎重だったと記しています。軍を率いるときは遠くまで斥候を出し、まず敵に負けない態勢を作ってから戦いました。

ただし慎重だから攻めないわけではありません。勝機をつかむと兵士が食事を取る暇もないほど激しく追撃しました。準備の段階では用心深く、勝てると判断した瞬間には徹底的に攻める。それが正史に残る徐晃の用兵です。

徐晃は「幸いにも明君に出会えたのだから、功績によって報いればよい。どうして個人的な名声を必要とするのか」と語り私的な交友関係を広げませんでした。

曹丕の時代には右将軍となり上庸では夏侯尚・孟達らとともに劉封を攻撃しました。曹叡の即位後には襄陽で呉将・諸葛瑾を防いでいます。

太和元年(227年)、徐晃は病が重くなると普段の衣服で遺体を収めるよう遺言し、そのまま病没しました。諡は壮侯です。

陳寿は五人の良将を論じた際、楽進と張郃については世間の評判に比べて残された事績が少ないと述べています。一方、張遼と徐晃については記録が詳しく残っているとしました。徐晃は評価を裏付ける戦歴が正史の中に豊富に残された武将だったのです。

『三国志演義』における徐晃

大斧を持つ豪将として登場する

『三国志演義』の徐晃は正史よりも武勇を視覚的に強調された人物です。

第十三回では楊奉の配下として大斧を持って登場し郭汜軍の崔勇をわずか一合で斬ります。第十四回でも李楽を一合で斬り、献帝を守りました。

やがて楊奉が曹操軍と対立すると徐晃は許褚と五十余合にわたって戦い決着がつきません。徐晃を惜しんだ曹操は旧知の満寵を送り込んで帰順を説得させます。満寵から楊奉と韓暹を殺して手土産にするよう勧められた徐晃は「臣下が主君を殺すのは大義に反する」と拒否しました。そのうえで、わずかな部下を率いて曹操のもとへ向かいます。

満寵の説得、許褚との一騎打ち、旧主を殺すことを拒む場面は正史にはありません。演義は徐晃を、武勇だけでなく義理も重んじる豪傑として登場させたのです。

顔良に敗れ関羽の強さを際立たせる

第25回では徐晃は袁紹軍の顔良と二十合戦った末に敗走します。曹操軍の諸将が恐れるなか、最後に関羽が出陣して顔良を斬りました。正史では徐晃は顔良を破った曹操軍の一員であり顔良との一騎打ちも敗走も記録されていません。演義では徐晃ほどの武将を退けることで顔良を強く見せ、さらに顔良を斬る関羽の武勇を際立たせています。

一方、官渡で史渙とともに袁紹軍の輸送隊を襲って食糧車を焼く働きは正史の記録を比較的忠実に取り入れたものです。

銅雀台では弓術の達人として描かれる

第56回の銅雀台では曹操配下の将軍たちによる弓術大会が開かれます。徐晃は柳の枝を矢で射切り賞品の錦袍を獲得しました。

ところが許褚が錦袍を奪おうとし二人は馬から下りて取っ組み合いになります。弓術大会も錦袍をめぐる争いも正史にはなく徐晃の武芸を派手に見せるための演義独自の場面です。

漢中では王平の忠告を無視して敗れる

第71回から第72回では徐晃は王平を副将として漢水へ進みます。王平が退路を心配して渡河を止めようとしますが徐晃は韓信の背水の陣を引き合いに出して忠告を聞きません。

その結果、黄忠と趙雲の挟撃を受けて大敗します。徐晃は救援しなかった王平を斬ろうとし王平は陣営に火を放って劉備へ降りました。

これは正史とは大きく異なります。正史の王平伝に徐晃との対立はなく、王平が曹操に従って漢中へ行きその地で劉備に降ったことしか記されていません。また正史の徐晃は漢中で陳式らを破り、曹操から絶賛された側でした。

関羽との八十余合の一騎打ち

第76回の樊城救援では徐晃と関羽が昔を懐かしむ会話を交わした直後、徐晃が関羽の首に賞金を懸けます。この会話は裴松之注が引用した『蜀記』の逸話を利用したものです。ただし演義はそこへ八十余合に及ぶ一騎打ちを加えました。関羽は以前に矢傷を負った右腕へ十分に力が入らず関平が危険を感じて退却の合図を出します。

正史には二人の一騎打ちはありません。徐晃は軍勢を指揮し陽動と奇襲によって関羽の包囲陣を破っています。演義は軍団同士の戦いを読者に分かりやすい豪傑同士の対決へ置き換えたのです。

正史では病死、演義では孟達に射殺される

演義第94回では孟達の反乱を討つ司馬懿の軍に徐晃が加わり自ら先鋒を志願します。しかし新城へ近づきすぎ孟達が放った矢を額に受け、その夜に五十九歳で死亡しました。

この最期は演義の創作です。正史の徐晃は太和元年(227年)に病没しており孟達の反乱時に戦死したのではありません。正史には生年がないため、五十九歳という享年も確認できません。

演義の徐晃は正史の慎重な指揮官像を残しながらも場面によっては大斧を振るう豪将、関羽や趙雲を引き立てる敵役、功を焦って失敗する武人として脚色されています。

正史と演義における徐晃の違い

比較項目正史『三国志』『三国志演義』
出身・字河東郡楊県出身、字は公明正史の設定を継承
武器使用武器は不明。斧の記述はない大斧を使用
曹操への帰順徐晃自身が楊奉に曹操への帰順を勧め、楊奉の翻意後、曹操が楊奉を攻めると曹操のもとへ移る許褚と五十余合戦い、満寵に説得される。旧主殺害は不義として拒否
顔良との戦い顔良を破った曹操軍の一員。一騎打ちの記録はない顔良と二十合戦って敗れ、関羽の引き立て役となる
官渡での功績史渙と袁紹軍の輸送隊を破り、食糧車を焼く。「功最も多し」おおむね正史を踏襲
易陽の処理降伏を認め、周辺の城を無益な徹底抗戦へ追い込まないよう判断大きく描かれない
潼関蒲阪津から先に渡河して馬超軍の背後を取る策を提案軍略より武勇を中心に描写
漢中陳式らを破り、劉備軍の交通遮断作戦を失敗させる王平の忠告を無視して背水の陣を敷き、黄忠・趙雲に大敗
関羽との関係陳寿本文は私的関係に触れない。裴松之注所引『蜀記』のみが、以前から親しかったと伝える旧交を強調し、戦場で昔を懐かしむ
樊城救援待機・援軍集結・陽動・奇襲・追撃によって包囲陣を破る正史と裴松之注を土台に、関羽との八十余合の一騎打ちを追加
人物像倹約、慎重、斥候重視。勝機には食事を忘れるほど追撃義理堅い大斧の豪将。漢中では功を焦る一面も描かれる
最期227年に病没。享年不明孟達の矢を額に受けて死亡。享年59

※関羽との旧交について、「陳寿本文と裴松之注で評価が対立している」とするのは正確ではありません。陳寿本文には私的関係の記述がなく、裴松之注が引用する『蜀記』によって初めて補足されます。

派手さよりも「負けない強さ」を貫いた唯一無二の将軍

徐晃は正史だけでも驚くほど多彩な武功を残しています。

袁紹軍の輸送隊を焼き、易陽では一城を滅ぼすより河北全体の降伏を促す道を選び潼関では馬超軍の守備の空白を見抜き、漢中では陳式の交通遮断を破りました。そして樊城では新兵を抱えたまま無謀に突撃せず、援軍を待ち、陽動と奇襲を重ねてついに関羽の包囲陣を打ち破っています。

その経緯は張遼や張郃とは同じではありません。張遼は呂布が下邳で敗れたあとに軍勢を率いて曹操へ降り、張郃は官渡の戦いの最中に袁紹の陣営から曹操へ移りました。これに対して徐晃は曹操と戦う前から楊奉へ帰順を勧めています。正史は徐晃が捕らえられて降伏したとは記していません。

そして曹操の配下となってからの徐晃には離反も、敵への降伏も、失脚も記録されていません。于禁が樊城で関羽に降った一方、徐晃は同じ戦場へ後から到着し関羽の包囲を破りました。この対照はあまりにも鮮烈です。ただし于禁の降伏は洪水によって七軍が水没し退路を失った末の出来事であり、単純に臆病だったと決めつけるべきではないでしょう。

張遼には合肥を揺るがした爆発的な武勇があり張郃には戦況と地形へ巧みに対応する「巧変」がありました。徐晃の強さはそれらとはまた違います。遠くまで斥候を出し、まず負けない態勢を作る。機会が来るまで待ち、勝機をつかんだ瞬間には敵陣の奥まで追い崩す。その冷静さと激しさを同じ一人の将軍が兼ね備えていました。

しかも徐晃は自分の名声を求めず私的な交友関係も広げませんでした。かつて親しかったとされる関羽を前にしても「これは国家の事だ」と私情を切り離した。その姿は冷たく見えるかもしれません。しかし将軍として背負った責任から一歩も逃げなかったとも言えます。

大斧も派手な一騎打ちもなくてよいのです。負けない準備を重ね、必要なときには誰より深く敵陣へ踏み込み、功績を誇らずに去っていく。徐晃は華やかな伝説がなくても正史の戦歴だけで十分に格好いい。魏の名将たちの中でもほかの誰かと簡単には置き換えられない、まさに唯一無二の武将だったと思います。

参考資料・出典

  • ・陳寿撰・裴松之注『三国志』魏書巻十七「張楽于張徐伝」、『三国志』魏書巻二十三「趙儼伝」、『三国志』蜀書巻六「関羽伝」
  • 『三国志演義』第十三回・第十四回・第二十五回・第三十回・第五十六回・第七十一回・第七十二回・第七十六回・第九十四回
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