【三国志】周瑜とは?正史と演義で異なる「弱点は寿命だけ」の完璧な名将

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周瑜の概要

周瑜(しゅうゆ)字は公瑾(こうきん)

『三国志演義』では諸葛亮の才能に嫉妬し何度も知略で敗れた末に「既に瑜を生じ、何ぞ亮を生ぜしや」――天はこの周瑜を生んだのに、なぜ諸葛亮まで生んだのか。

そう叫んで憤死する人物として知られています。そのため周瑜には、「美男子だが嫉妬深い」「優秀ではあるものの諸葛亮には及ばない」という印象が定着しました。

しかし陳寿が編纂した正史『三国志』と裴松之の注釈を読むとまったく異なる周瑜の姿が見えてきます。正史の周瑜は名門の出身でありながら若くして戦場に立ち、赤壁の戦いで曹操軍を撃退した一流の司令官でした。それだけでなく天下の情勢を見通す知略、前線で兵を率いる勇気、人材を見抜く眼力、他人を受け入れる度量まで備えています。さらに正史は周瑜について「長壮にして姿貌あり」と記しています。つまり背が高く、体格が立派で、容姿も優れていたのです。

出自、知略、武勇、人格、そして見た目。これほど多くの才能を兼ね備えながら、周瑜はわずか36歳で病死しました。もしかすると正史の周瑜に足りなかったものは才能ではなく「時間」だけだったのかもしれません。


第一章 正史の周瑜

1.漢王朝の名門に生まれる

周瑜は廬江郡舒県の出身です。

周氏は漢王朝の高官を輩出した名門で周瑜の一族である周景と周忠はいずれも三公の一つである太尉を務めました。父の周異も後漢の都を治める洛陽令を務めています。この出自だけを見ても周瑜が地方の一武将ではなく、中央政界ともつながりを持つ名家の生まれだったことが分かります。しかし周瑜の魅力は家柄だけではありません。

孫策が父・孫堅の軍を引き継ぐため舒県を訪れた際、周瑜は孫策と親交を結びました。二人は同い年で周瑜は孫策の一家に大きな屋敷を提供し互いの家族が財産を共有するほど深い関係を築いたといいます。『三国志演義』では義兄弟のように描かれますが、正史に正式な義兄弟の契りは記されていません。それでも両家の結びつきが極めて強かったことは間違いないでしょう。

2.孫策とともに江東を平定する

孫策が江東へ進出すると周瑜も兵を率いて合流しました。周瑜は横江、当利、秣陵、湖孰、江乗、曲阿などの攻略に参加し孫策による江東平定を軍事面から支えています。

その後、一時的に袁術のもとへ身を寄せますが、周瑜は袁術について「最終的に何事も成し遂げられない人物」と見抜きました。そこで居巣県長への就任を願い出て袁術のもとを離れ、再び孫策の勢力へ戻ります。建安3年、孫策は自ら周瑜を出迎え建威中郎将に任命しました。兵士二千人と騎兵五十騎を与えるという厚遇でした。

このとき周瑜はまだ24歳でした。若く、美しく、戦いにも優れ、人々から信頼されていた周瑜は「周郎」と呼ばれるようになります。「郎」には若者や立派な青年という意味があり「周郎」は後世の創作ではなく正史にも登場する呼び名です。皖城を攻略した際には孫策が大橋、周瑜が小橋を迎えました。後世にいう大喬と小喬です。ただし正史には小橋の詳しい人物像や、周瑜との夫婦生活までは記されていません。

3.孫策亡き後の孫権を支える

建安5年、孫策が若くして亡くなると弟の孫権が後を継ぎました。周瑜は軍を率いて葬儀へ駆けつけそのまま呉にとどまり張昭とともに孫権政権を支えます。孫権は周瑜を兄に対するような礼で遇しましたが周瑜はあくまで臣下としての礼を崩しませんでした。

主君から厚遇されても立場をわきまえ若い孫権の政権を軍事面から支える。この姿からは周瑜の忠誠心だけでなく政治的な判断力も伝わってきます。周瑜は各地の反乱を鎮圧し黄祖討伐では前部大督として軍の先頭に立ちました。単なる参謀ではなく実際に兵を率いて戦果を挙げる現場型の将軍だったのです。

4.赤壁の戦いで示した知略

建安13年、荊州を制圧した曹操が大軍を率いて江南へ迫りました。孫権の家臣たちの多くは降伏を主張しましたが周瑜はこれに反対します。周瑜は曹操軍の弱点を冷静に分析しました。

  • 北方には馬超や韓遂という不安要素が残っている
  • 北方の兵士は水上戦に慣れていない
  • 冬であり、軍馬の飼料を確保しにくい
  • 中原の兵士は江南の気候や風土に慣れず、病気が発生する

曹操軍の数だけを恐れるのではなく兵士の質、戦場の環境、補給、疫病、背後の情勢まで見通した判断でした。周瑜は三万人の精鋭があれば曹操を破れると断言し、孫権に開戦を決意させます。ただし、裴松之は曹操への抵抗と周瑜の召還を最初に主張した魯粛の功績が周瑜伝では十分に記されていないと指摘しています。

赤壁抗戦は周瑜一人の功績ではなく魯粛の外交と決断、劉備軍との同盟、黄蓋の火攻めなど、複数の人物の力によって実現しました。そのうえで実戦における呉軍の中心人物が周瑜だったことも確かです。正史では周瑜と程普が左右の督となり、それぞれ一万人を率いて劉備軍と共同で曹操軍を迎え撃ちました。曹操軍ではすでに疫病が発生しており最初の戦闘でも敗北します。さらに黄蓋が曹操軍の船が互いにつながれていることを見抜き、偽りの降伏と火船による攻撃を提案しました。

折からの強風によって炎は曹操軍の船団から陸上の陣営へ広がり曹操軍は大混乱に陥ります。『三国志演義』のように諸葛亮が祭壇で風を呼んだわけではありません。赤壁の勝利は疫病、北方兵の水戦への不慣れ、劉備・孫権連合軍の抵抗、そして黄蓋の火攻めを周瑜たちが的確に用いた結果だったのです。

(赤壁の大戦についてアルマダと比較↓)

5.矢傷を負っても退かなかった勇気

赤壁の戦いの後、周瑜は曹仁が守る南郡を攻めました。

戦いは一年ほど続く激戦となり、周瑜自身も馬に乗って前線へ出ています。その際、周瑜は流れ矢を右脇に受け、重傷を負いました。曹仁は周瑜が負傷したと知ると呉軍を攻撃します。すると周瑜は傷を押して軍営を巡視し兵士たちを励ましました。その姿を見た曹仁は、ついに南郡から撤退します。

ここで注意したいのは正史に一騎討ちの記録や周瑜個人の超人的な武芸が記されているわけではないことです。それでも、総大将でありながら自ら前線へ出て重傷を負っても兵士の前に立った行動は周瑜の勇気と将軍としての強さを十分に示しています。周瑜の「武力」とは一人で何十人もの敵を倒すような物語的な強さではありません。戦場から逃げず兵士と危険を共有し軍全体を動かす本物の強さだったのです。

6.劉備を見抜き、天下統一への道を描く

周瑜は劉備を単なる客将とは考えていませんでした。

劉備を呉へ移住させ立派な邸宅や美女を与えて歓楽に浸らせ関羽・張飛と引き離すべきだと孫権に提案しています。劉備、関羽、張飛という英雄たちを一か所に集めたままではいずれ呉にとって大きな脅威になると見抜いていたのです。孫権はこの提案を採用しませんでしたが後に劉備が荊州と益州を手に入れて勢力を拡大したことを考えると、周瑜の警戒は極めて鋭いものでした。さらに周瑜は益州を攻略して劉璋を倒し張魯の勢力を併合し馬超と同盟を結んだ後、孫権とともに襄陽から曹操を圧迫するという壮大な戦略を提案します。

これは『三国志演義』のような荊州奪還のための偽装作戦ではありません。正史の周瑜は、本気で益州を攻略し、曹操と天下を争おうとしていたのです。孫権もこの作戦を認めました。ところが周瑜は遠征の準備を進める途中、巴丘で病に倒れます。

建安15年、周瑜は36歳で亡くなりました。病名は記録されておらず、南郡で受けた矢傷との関係も分かっていません。

7.裴松之注が伝える周瑜の人間性

陳寿は周瑜について「性度恢廓、大率為得人」――性格と度量が広く、おおむね人々の心を得ていた。そのように評価しています。

周瑜と折り合いが悪かった人物として程普がいます。年長の程普は若い周瑜を軽く見て何度も侮辱しました。しかし裴松之が引用する『江表伝』によれば、周瑜は常に自分を低くして程普に接し決して仕返しをしなかったといいます。やがて程普は周瑜の人柄を認め「周公瑾と交わるのは美酒を飲むようなもので、知らないうちに酔わされてしまう」と語るようになりました。

演義の嫉妬深い周瑜とは正反対の人物像です。また『江表伝』には曹操が蔣幹を送り周瑜を説得しようとした逸話もあります。周瑜は蔣幹の目的をすぐに見抜き自軍の充実ぶりを見せたうえで孫氏への忠誠は揺るがないと示しました。蔣幹は曹操のもとへ帰ると周瑜について「言葉では動かせない人物」と報告します。演義に登場する偽の手紙も蔡瑁と張允を処刑させる策略も正史にはありません。

周瑜は音楽にも精通していました。酒を飲んだ後でさえ演奏の間違いに気づき必ず演奏者の方を振り返ったため「曲に誤りあれば、周郎顧みる」という歌が生まれたといいます。軍事だけでなく、音楽にも優れた文化人でした。


第二章 『三国志演義』の周瑜

1.美しく華やかな若き名将

『三国志演義』の周瑜も最初から悪く描かれているわけではありません。演義は周瑜について「姿質風流、儀容秀麗」と表現しています。風流で美しく立ち居振る舞いも整った人物です。孫策とは義兄弟同然の親友として描かれ、江東平定で活躍します。孫策が亡くなる際には、「内政は張昭に、軍事や外交は周瑜に相談せよ」と孫権へ遺言します。この遺言は正史にはありませんが、孫策死後の呉で周瑜が軍事面の中心となったことを、物語的に分かりやすく表現した場面だといえるでしょう。

また周瑜が魯粛を孫権に推薦する点は、正史にも根拠があります。

2.諸葛亮への嫉妬が強調される

演義の周瑜を特徴づけているのが諸葛亮との知恵比べです。周瑜は赤壁で曹操と戦うことを決意しますが、その裏には諸葛亮の挑発がありました。

諸葛亮は曹操が二喬を欲していると語り、周瑜の妻である小喬まで奪われるかのように思わせます。激怒した周瑜は、曹操との決戦を決意しました。しかし曹操が二喬を欲したという話は正史にありません。さらに諸葛亮が引用した「銅雀台賦」の解釈も、周瑜を怒らせるための物語上の仕掛けです。そもそも銅雀台の完成は赤壁の戦いより後であり年代的にも矛盾しています。

周瑜は諸葛亮の才能を恐れ、さまざまな方法で殺そうとします。十日で十万本の矢を用意するよう命じると、諸葛亮は自ら期限を三日に縮め、霧の中で曹操軍から矢を奪う「草船借箭」を成功させます。

この有名な場面も演義の創作です。演義では周瑜が策を考えるたび諸葛亮がその一歩先を読みます。これによって諸葛亮の超人的な知略が強調される一方、周瑜は「優秀だが諸葛亮には勝てない人物」として描かれていきました。

3.赤壁を勝利へ導いた総司令官

それでも演義の周瑜が無能なわけではありません。周瑜は呉軍の大都督として兵を統率し曹操軍の弱点を次々と突いていきます。蔣幹を利用して偽の手紙を曹操に持ち帰らせ曹操軍の水軍指揮官だった蔡瑁と張允を処刑させます。さらに黄蓋を公の場で打ち据える「苦肉の計」を行い、闞沢に偽の降伏書を届けさせました。龐統の連環の計によって曹操軍の船を鎖でつなぎ、火攻めの準備を整えます。最後に不足していたのが、火を曹操軍へ運ぶ東南の風でした。演義では諸葛亮が七星壇で祈祷を行い、東南の風を呼びます。

こうして周瑜の軍略、黄蓋の覚悟、龐統の連環の計、諸葛亮の東南の風が一つになり、曹操軍は炎に包まれました。演義の赤壁は、周瑜一人の勝利ではありません。しかし大軍を指揮し火攻めを実行に移した中心人物が周瑜である点は正史と共通しています。

4.「三気周瑜」と作られた最期

赤壁の後、演義の周瑜は諸葛亮によって三度にわたり激怒させられます。最初は周瑜が曹仁と戦っている間に諸葛亮が南郡、荊州、襄陽を奪ったことでした。演義の周瑜は南郡で毒矢を左脇に受けており、怒りによって傷口が開いてしまいます。正史では右脇に矢を受けていますが、毒矢とは記されていません。二度目は、孫権の妹との結婚を利用して劉備を捕らえようとした「美人計」です。ところが計略は失敗し、劉備は孫夫人を連れて荊州へ逃げ帰ります。

(美人と言えばマーメイド↓)

周瑜は追撃しますが、劉備軍から、「周郎妙計安天下、賠了夫人又折兵」―周瑜の妙計は天下を安んじるどころか、夫人を失い、さらに兵まで損なった。そう嘲笑され、再び傷を悪化させます。

三度目は、益州を攻めるふりをして荊州を奪おうとした作戦です。諸葛亮はこの計略も見抜き周瑜軍を包囲しました。周瑜は諸葛亮からの手紙を読み「既に瑜を生じ、何ぞ亮を生ぜしや」と叫びついに亡くなります。

これが有名な「三気周瑜」です。しかし正史では周瑜が諸葛亮に三度怒らされた事実も嫉妬によって死んだ事実もありません。正史の益州攻略は荊州を奪うための偽計ではなく曹操に対抗するための本格的な西方戦略でした。周瑜が亡くなる際に魯粛を後任として推薦したことには正史の根拠がありますが諸葛亮への嫉妬と「既生瑜、何生亮」という言葉は物語上の創作です。


第三章 正史と演義の比較表

比較項目正史『三国志』・裴松之注『三国志演義』
出自廬江郡舒県の名門。太尉を出した一族で、父は洛陽令名門出身という基本設定を踏襲
孫策との関係同い年の親友。家族同士で財産を共有するほど親密義兄弟同然の関係として強調
孫権との関係若い孫権を軍事面から支え、臣下の礼を守る孫策の遺言によって孫権を補佐
見た目「長壮有姿貌」。背が高く、体格と容姿に優れる「姿質風流、儀容秀麗」。華やかな美男子
知略曹操軍の補給、水戦能力、疫病、北方情勢を分析。益州攻略まで構想多くの策略を用いるが、諸葛亮に先を読まれる
武力・勇気自ら前線に立ち、右脇に矢を受けても軍営を巡視南郡で左脇に毒矢を受け、怒るたびに傷が開く
性格度量が広く、人望が厚い。侮辱した程普にも仕返しをしない誇りが高く、諸葛亮への嫉妬心が強い
音楽演奏の間違いを聞き分けるほど音楽に精通美しく風流な人物像の一部として描写
赤壁の指揮程普と左右の督を務め、劉備軍と共同で戦う呉軍の大都督として全軍を指揮
火攻め黄蓋が提案。偽りの降伏と火船を利用苦肉の計、偽降伏、連環の計を組み合わせる
東南の風自然に吹いた風を利用諸葛亮が七星壇で呼び寄せる
蔣幹との関係説得の目的を見抜き、忠誠心を示す偽書を盗ませ、蔡瑁と張允を処刑させる
諸葛亮との関係嫉妬や知恵比べの記録はない最大のライバル。何度も殺害を企てる
劉備への対応呉に留めて関羽・張飛と引き離す案を提言孫権の妹との結婚を利用して捕らえようとする
益州攻略曹操に対抗するための本気の西方戦略荊州を奪うための偽装作戦
死因遠征準備中に病死。病名は不明。36歳諸葛亮に三度怒らされ、矢傷を悪化させて死亡
最期の言葉「既生瑜、何生亮」は記録されていない「既生瑜、何生亮」と叫んで絶命
総合的な人物像度量と人望を備えた軍事・政治の天才天才的な美将だが、諸葛亮への嫉妬に敗れる悲劇の人物

第四章 周瑜の弱点は寿命だけだった

正史の周瑜を知れば知るほどこの人物の欠点を見つけることが難しくなります。

まず出自が違います。

漢王朝の最高官職である太尉を輩出した名門に生まれ父も洛陽令を務めていました。

次に知略があります。

曹操の大軍を前にしても兵力差だけに惑わされず補給、疫病、水上戦への適性、北方情勢まで冷静に分析しました。

赤壁の勝利で満足することなく益州を攻略し、張魯を併合し、馬超と連携して曹操を挟撃するところまで見据えています。

さらに武将としての勇気もありました。

後方で命令するだけではなく自ら馬に乗って前線へ進み、矢傷を負っても兵士を励ますため軍営を巡視しています。

そして見た目まで優れていました。

正史がわざわざ「背が高く、体格が立派で、容姿も優れていた」と記すほどの美男子です。

音楽にも精通し人材を見る目があり、魯粛を推薦し、年上の程普から侮辱されても仕返しをしない度量まで持っていました。

出自、知略、武力、見た目、教養、人望音楽

一つだけでも英雄と呼ばれるには十分なものを、周瑜はすべて兼ね備えていたのです。

もちろん史書は一人の人間のすべてを記録しているわけではありません。現実の周瑜にも記録に残らなかった欠点や失敗はあったでしょう。

それでも残された記録だけを読むなら、周瑜には驚くほど弱点が見当たりません。

唯一の弱点を挙げるならそれはあまりにも寿命が短かったことです。

周瑜が亡くなったのはわずか36歳。

現代で考えれば、ようやく経験と才能が結びつき、本当の力を発揮し始める年齢です。

赤壁で曹操を破り、南郡を手に入れ、これから益州へ進もうとしていた。周瑜の人生は、完成して静かに閉じたのではありません。

まさに新しい戦いを始めようとした瞬間、突然断ち切られてしまったのです。

もし周瑜があと十年生きていたら。

益州は劉備ではなく孫権が手に入れていたのか。

荊州をめぐる呉と蜀の関係は変わっていたのか。

曹操、劉備、孫権による天下の形そのものがまったく違うものになっていたのか。

歴史に「もし」はありません。

それでもそう考えずにはいられないほど周瑜の死によって失われた可能性は大きすぎます。

演義の周瑜は諸葛亮に知略で敗れ嫉妬に心を焼かれて死にました。

しかし正史の周瑜は諸葛亮に敗れたのではありません。

才能が足りなかったのでも度量が狭かったのでもありません。

ただ与えられた時間があまりにも短かった

天は周瑜に家柄も、知略も、勇気も、美貌も、音楽の才能も、人を引きつける魅力も与えました。

その代わりに長い人生だけは与えなかった。

そう思うと周瑜という人物の完璧さはまぶしいと同時にどうしようもなく切なく感じられます。

周瑜の唯一の弱点は嫉妬ではありません。

「寿命」でした。

彼は諸葛亮に負けたのではなくあまりにも短い人生に敗れたのです。

だからこそ周瑜は完成された英雄でありながら永遠に「その先」を想像させる武将として今も人々を引きつけ続けているのでしょう。

主な参照史料

  • 陳寿『三国志』巻五十四「周瑜魯粛呂蒙伝」
  • 裴松之注所引『江表伝』『呉書』『呉録』など
  • 陳寿『三国志』「孫破虜討逆伝」「呉主伝」「先主伝」「諸葛亮伝」など
  • 羅貫中『三国志演義』第十五回、第二十九回、第四十四回~第五十一回、第五十四回~第五十七回
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