韓当とは?そして息子・韓綜の末路
韓当(かんとう)、字は義公。三国志の呉において、孫堅・孫策・孫権という孫家三代に仕えた古参武将です。周瑜や甘寧、呂蒙ほど派手に語られる人物ではありません。しかし正史『三国志』を読むとこの人の経歴はかなりすごい。孫堅の時代から戦場に立ち、孫策の江東平定に参加し孫権の代には赤壁の戦い、南郡攻略、夷陵の戦いにも従軍。晩年には都督となり、ついには一万人もの兵を率いています。
つまり韓当は
・孫堅時代からの古参
・弓馬に優れた猛将
・赤壁の戦いに参加
・夷陵の戦いにも参加
・一万人を率いる都督まで出世
という文字にするとかなり豪華な経歴の持ち主です。しかし韓当本人以上に衝撃的なのが、息子・韓綜(かんそう)の末路です。韓当の死後、韓綜は父の侯爵と軍勢を継承しました。ところが素行に問題があり、処罰を恐れるようになります。そして最終的には―父・韓当の棺、母親、家族、部曲の男女数千人を連れて魏へ亡命しました。魏では将軍となり広陽侯に封じられ、その後は呉の国境を何度も襲撃。孫権は韓綜を激しく憎んだと『三国志』は記しています。
さらに東興の戦いでは魏軍の先鋒となって敗死。その首は諸葛恪によって斬られ、孫権の廟へ送られました。父の韓当は孫氏三代に仕え、孫権から法令を守る将軍として評価された人物です。なのに、その息子が父の棺まで持って敵国へ亡命する。「親父が一生かけて守った国と戦うんかい!」と言いたくなるほど凄まじい親子の落差です。
正史の韓当
弓馬に優れた孫堅時代からの古参
韓当は遼西郡令支県の出身です。陳寿『三国志』韓当伝では、韓当について弓馬に巧みで膂力があったと記されています。つまり史料上でも
弓術
騎馬
腕力
に優れた武人だったことが確認できます。
韓当は孫堅に従って各地を転戦し何度も危険な戦いを経験しました。敵陣へ攻め込み捕虜を得るなどの功績を重ね、別部司馬となっています。ここで興味深いのが裴松之注に引用された『呉書』です。『呉書』は韓当について苦労して功績を挙げたにもかかわらず、孫堅の時代には最後まで別部司馬であった事情を記しています。原文には韓当が「軍旅陪隷」であり英豪とは区別されていたため爵位が加えられなかったという趣旨の記述があります。
ここから身分的な事情が昇進に影響したと読むことはできますが、この一文だけから具体的な制度や差別の実態まで断定することはできません。ただ一つ確かなのは韓当は功績があったのに、孫堅時代には大きく昇進できなかったということです。
後に一万人を任される都督まで上り詰めることを考えるとかなり長い下積み時代だったことになります。
孫策の江東平定で出世
孫堅の死後、韓当は孫策にも従いました。孫策が長江を渡って江東攻略を開始すると、韓当は三郡攻略に参加。先登校尉へ昇進し、兵二千人、騎兵五十騎を与えられています。「先登」という名称からも前線での戦闘を担当する立場だったことがうかがえます。
その後も韓当は
・劉勲討伐
・黄祖攻撃
・鄱陽攻略
などに参加しました。
さらに楽安長となると、『三国志』は山越が韓当を「畏服」したと記しています。単なる突撃専門の猛将ではなく、地方統治でも一定の威圧力と統率力を持っていたことが分かります。
赤壁の戦いにも参加
孫権の時代になると韓当は中郎将となりました。そして建安13年(208年)の曹操南下。有名な赤壁の戦いです。韓当伝には韓当が周瑜らとともに曹操を防ぎ破ったことが明記されています。つまり韓当の赤壁参戦そのものは創作ではありません。ただし正史には、「韓当が曹操軍の有名武将と一騎討ちした」といった派手な場面はありません。そのあたりは後の『三国志演義』で大きく追加されています。
黄蓋を救った韓当
赤壁関連で韓当の人柄が見える面白い逸話があります。これは韓当伝本文ではなく、黄蓋伝の裴松之注に引用された『呉書』です。赤壁の戦いで黄蓋は流れ矢を受け水中へ落ちました。救助されたものの兵士たちは黄蓋本人だと気づきません。そこで黄蓋が韓当を呼びます。韓当はその声を聞いただけで黄蓋だと気づき、救助しました。韓当は黄蓋を見て涙を流し、衣服を取り替えさせたと記されています。長年孫堅以来の戦場を共にしてきた古参同士です。
韓当が声だけで黄蓋に気づいたという記録には二人の長い付き合いを感じます。
南郡攻略から夷陵の戦いへ
赤壁の後も韓当の戦歴は終わりません。呂蒙とともに南郡攻略に参加し、偏将軍となり、永昌太守を兼ねました。そして劉備が関羽の仇討ちとして呉へ侵攻した夷陵の戦い。この時点でも韓当は現役です。すごい。
正史では陸遜・朱然らとともに涿郷で蜀軍を攻撃し、大破したとされています。その功績によって威烈将軍
都亭侯となりました。
孫堅時代から戦っている人物が、劉備晩年の夷陵の戦いでも普通に前線にいる。韓当最大の特徴は、この異常なまでの現役期間かもしれません。
孫権が評価した「規律を守る将軍」
韓当について個人的にかなり重要だと思うのが、この後です。曹真が南郡を攻撃した際、韓当は東南方面を守りました。陳寿は韓当について
・将兵を励ました
・皆を一致団結させて守備した
・上官や監督者を敬った
・法令を守った
という趣旨の評価を残しています。そして孫権も韓当を高く評価しました。ここから見える韓当像は、「腕力だけの猛将」とはかなり違います。若い頃は敵陣へ突入する武人。しかし長い経験を積んだ晩年には兵をまとめ、上官を尊重し、規律を守るベテラン指揮官になっていたわけです。
最後は一万人を率いる都督へ
黄武2年(223年)韓当は石城侯となり、昭武将軍・冠軍太守へ昇進。
さらに都督の号も与えられます。そして『三国志』には韓当が「敢死」「解煩」と呼ばれる兵を合わせて一万人率い、丹陽の反乱勢力を討ち破ったことが記されています。
孫堅時代。功績はあるのに別部司馬。そこから何十年も戦い続け、最後には一万人を率いる都督。派手な大出世エピソードではありません。でもこういう人物のほうが妙に現実味があります。韓当は一発の大功で英雄になったのではなく、何十年もの実績を積み上げて呉の大将になった人物だったのです。
韓当の死
韓当伝にはその後「病により卒した」とあります。死亡年そのものを韓当伝は明記していません。ただし韓当の死と同じ年に孫権が石陽を攻めたとされ、別の孫奐伝ではこの石陽攻撃を黄武5年(226年)としています。そのため、史料を照合すると韓当の死は226年頃と考えられます。これは韓当伝単独の明記ではなく別伝との照合による推定です。
『演義』の韓当
正史でも弓馬に優れた武将だった韓当ですが、『三国志演義』に入るとかなり分かりやすい猛将になります。
張虎を討ち取る
『三国志演義』第7回。
孫堅軍と黄祖軍との戦いで、韓当は黄祖配下の張虎と一騎討ちします。
二人は三十余合にわたって戦いました。
張虎を助けようとした陳生を孫策が弓で射落とすと、張虎が動揺。
その隙を韓当が逃さず、張虎を討ち取ります。
かなり派手です。
しかしこの一騎討ちは正史韓当伝には確認できません。
焦触を一槍で刺殺
赤壁直前の水上戦でも韓当は活躍します。
曹操側の焦触・張南が船で攻めてくると、韓当と周泰が迎撃。
韓当は船首に立ち、長槍を持って焦触と戦います。
そして焦触を一槍で刺殺。
さらに周泰とともに文聘の水軍を攻撃し、退却させています。
正史では「周瑜らと曹操を破った」という簡潔な記述だった韓当が、演義では名前付き敵将を自ら倒す猛将になっています。
黄蓋救出がドラマ化
黄蓋救出については完全な創作ではありません。
元になった話は裴松之注『呉書』に存在します。
ただし『三国志演義』では大幅にドラマ化されています。
韓当は黄蓋を救い上げ、
・濡れた衣服を脱がせる
・矢尻を取り除く
・旗を裂いて傷口を縛る
・自分の戦袍を着せる
など、まるで戦場の救急医療担当のような働きをしています。
演義の脚色はありますが、「韓当が黄蓋を助けた」という話の核心部分そのものは裴松之注に確認できます。
曹洪と三十余合
南郡攻略では曹洪と一騎討ち。
三十余合を戦った末に曹洪が敗走します。
これも正史には確認できません。
周泰と二人で許褚と戦う
濡須口ではさらに豪華です。
韓当と周泰の前に、曹操軍でも屈指の猛将・許褚が登場。
韓当・周泰の二人と許褚が三十合ほど戦っています。
どちらが明確に勝ったという描写ではありませんが、演義世界でも韓当が一線級の猛将として扱われていることが分かります。
夷陵では「若い陸遜を信用しない老将」に
そして正史と最も人物像が違うのが夷陵の戦いです。
孫権が陸遜を大都督に任命すると、韓当や周泰ら古参武将は驚きます。
「なぜ書生に軍を任せるのか」
という反応です。
韓当は、自分は孫堅以来、江南平定のため数百戦を経験してきたと主張。
陸遜が守備を命じても、攻撃すべきだと反発します。
劉備軍を見つけると自ら攻撃したいと申し出ますが、陸遜はこれを止めます。
韓当は口では従うものの、内心では納得していません。
正史では、
上官を敬い、法令を守る韓当。
演義では、
「俺は孫堅の頃から何百戦もしてるんだぞ!」と若い陸遜に反発する老将。
かなり違います。
ただ物語としては、こちらのほうが面白い。
歴戦のベテランたちが若い陸遜を馬鹿にする。
ところが陸遜の判断が次々に的中し、最後には火計で劉備軍を撃破する。
韓当は「若き天才・陸遜の凄さ」を読者に見せる役割も与えられているのです。
正史と演義の韓当は何が違う?
| 項目 | 正史『三国志』 | 『三国志演義』 |
|---|---|---|
| 出身 | 遼西郡令支県 | 基本的に正史を踏襲 |
| 武芸 | 弓馬に優れ、膂力がある | 猛将としてさらに強調 |
| 孫堅時代 | 危険な戦闘を重ね別部司馬となる | 張虎と30余合戦い討ち取る |
| 孫策時代 | 江東平定、劉勲・黄祖・鄱陽攻略 | 武将として戦場で活躍 |
| 赤壁 | 周瑜らと曹操軍を破る | 焦触を一槍で討ち取る |
| 黄蓋救出 | 裴松之注『呉書』に確認できる | 矢尻除去など救出場面を大幅に脚色 |
| 南郡 | 呂蒙と攻略 | 曹洪と30余合戦う |
| 濡須口 | 韓当伝に一騎討ちの記録なし | 周泰とともに許褚と30合戦う |
| 夷陵 | 陸遜・朱然らと蜀軍を大破 | 陸遜を若輩として信用しない |
| 上官への態度 | 上官を敬い法令を守る | 陸遜に強く反発 |
| 統率力 | 孫権から評価される | 猛将・老将としての性格を強調 |
| 晩年 | 都督となり一万人を率いる | 正史ほど晩年の昇進は強調されない |
| 最期 | 病死 | 印象的な死亡場面はない |
| 人物像 | 規律を守る歴戦の指揮官 | 血気盛んな歴戦の老将 |
正史の韓当は若い頃には武勇で戦い経験を積むにつれて統率力を持った指揮官へ成長しています。一方の演義では、一騎討ちを増やすことで猛将化。さらに夷陵では陸遜に反発させることで「経験豊富だが若い天才を理解できない老将」という物語上の役割が追加されています。同じ人物なのにかなり印象が違いますね。
韓当は後世の中国と日本で有名になったのか?
中国では『三国志演義』によって名前は残った
中国で三国志人物の知名度を考える際、『三国志演義』の影響は無視できません。韓当も演義に登場し
・張虎を討つ
・焦触を討つ
・黄蓋を救う
・曹洪と戦う
・許褚と戦う
・夷陵で陸遜に反発する
など複数の見せ場を与えられました。そのため「完全に忘れられた武将」ではありません。
しかし、関羽・張飛・趙雲・諸葛亮・曹操・周瑜などと比べると、韓当本人を主人公とする大きな物語が形成されたわけではありません。確認した範囲では、関羽のように広範な信仰対象となったり、趙雲のように単独の英雄として強烈に物語化された人物ではありません。あくまで孫家を支えた呉の古参武将の一人という位置づけが中心です。陳寿自身も韓当だけを特別扱いするのではなく程普・黄蓋・蔣欽・周泰・甘寧・凌統・徐盛らとまとめ「江表の虎臣」と評価しています。
この「集団の中の名将」という立ち位置は、後世までかなり残ったように感じます。
日本では江戸時代から名前が伝わった
日本で『三国志演義』が広く知られる大きな契機となったのが江戸時代の『通俗三国志』です。『通俗三国志』は17世紀末に刊行された『三国志演義』の日本語翻訳で、その後の日本における三国志受容へ大きな影響を与えました。さらに19世紀には挿絵を加えた『絵本通俗三国志』も成立します。つまり韓当の演義での活躍も江戸時代以来、日本の読者が三国志物語を読む中で触れることができる状態になっていました。ただし日本でも韓当が関羽や諸葛亮のような超有名武将になったとは言いにくいです。
むしろ「三国志をある程度読んでいる人なら知っている」くらいの絶妙な立ち位置ではないでしょうか。
地味だけど調べるほどすごい武将
韓当について調べて一番感じるのは「なんでこの人こんなに影が薄いんだ?」ということです。孫堅に仕える。孫策の江東平定に参加する。赤壁で曹操と戦う。南郡攻略に参加する。夷陵で劉備軍と戦う。曹真とも戦う。最後には一万人を率いる都督になる。
これだけ書けば普通ならかなり有名な武将になりそうです。ところが周囲には
周瑜
甘寧
呂蒙
陸遜
孫策
孫権
太史慈
と、とにかくキャラの濃い人物が多すぎます。韓当には「赤壁の火計を立案した」「関羽を討った」「孫権を命懸けで救った」のような名前と一対一で結び付く巨大な逸話がありません。しかしそれは能力が低かったことを意味しません。むしろ正史を見る限り何十年も前線から脱落せず、三代の君主から使われ続け、一万人を任されるところまで上り詰めた。これ自体がとんでもない実績です。
派手な一発ではなく長年の積み重ねで評価を得た人物。若い頃は膂力と弓馬で戦い、晩年には兵をまとめ、上官を敬い、法令を守る指揮官となった。個人的には韓当の魅力はそこにあると思います。有名ではない。でも調べれば調べるほど、「いや、この人めちゃくちゃ重要な古参じゃないか」となる。
そんな人物を発見できるところこそ、正史『三国志』を読む面白さなのかもしれません。
そして最後に一つだけ。一生かけて呉を守った韓当の棺を積み込み、その息子が魏へ亡命したという結末だけは、何度読んでも強烈です。韓当本人が知ったらたぶん一番怒ったのではないでしょうか。知らんけど。
参考資料・出典
- 陳寿『三国志』巻55・呉書十「韓当伝」、『三国志』巻55「黄蓋伝」裴松之注引『呉書』、『三国志』巻51「孫奐伝」
- 羅貫中『三国志演義』第7回・第48回・第83回・第84回ほか
- 『通俗三国志』

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