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【赤壁の大戦×スペイン無敵艦隊】火攻めで崩れた二つの巨大侵攻作戦

目次

大国敗北の歴史

歴史には、「これは大国側が勝つだろう」と思われた戦いが、意外な形で崩れる場面があります。その代表例が中国三国時代の赤壁の大戦と、16世紀ヨーロッパのスペイン無敵艦隊アルマダの戦いです。片方は曹操が南方制圧を狙った長江の戦い。もう片方はスペイン王フェリペ2世がイングランド侵攻を狙った大艦隊の戦い。時代も場所もまったく違います。しかしどちらにも共通点があります。それは、巨大な侵攻作戦が、火攻めによって崩されたという点です。

火強すぎいいい!

ただし、同じ火攻めでも、その意味はかなり違います。赤壁では火が曹操軍の船と陣営を直接焼きました。一方、アルマダでは火船がスペイン艦隊を安全な泊地から追い出しパルマ公軍との合流作戦を崩しました。つまり、赤壁は「焼いて破壊する火攻め」。アルマダは「動かして崩す火攻め」。

今回は、正史『三国志』陳寿の記述をもとにした赤壁の大戦と、ブリタニカおよび Navy Records Society『The Defeat of the Spanish Armada』をもとにしたアルマダ戦を比較していきます。

赤壁の大戦とは?

赤壁の大戦は、建安13年、つまり208年ごろに起きた戦いです。

曹操は華北をほぼ押さえさらに南へ進軍しました。荊州の劉琮が降伏し曹操は長江方面へ進出します。このままいけば、曹操が南方まで一気に飲み込む可能性がありました。天下統一RTA、ここで一気に加速しそう状態。しかしそこで立ちはだかったのが孫権と劉備です。正史『三国志』では、孫権が周瑜・程普らを派遣し、劉備とともに曹操を迎え撃った流れが記されています。ここで注意したいのは、今回見るのはあくまで**陳寿の正史『三国志』**です。そのため演義で有名な

  • 諸葛亮が東南の風を祈る
  • 草船借箭
  • 曹操軍八十万
  • 龐統の連環計がすべてを決めた

といった話は今回の比較では使いません。演義を封印するとだいぶ渋い赤壁になるますが。正史ベースで見る赤壁は、曹操軍がすでに疾病を抱え、初戦で不利となり、黄蓋の火攻めによって船と陣営を焼かれ、撤退へ向かう戦いです。つまり赤壁は単なるロマン満載の大火計ではなく、病気・水上戦・火攻め・撤退判断が重なった戦いだったと見た方がよいでしょう。

スペイン無敵艦隊アルマダとは?

一方スペイン無敵艦隊アルマダの戦いは1588年の出来事です。スペイン王フェリペ2世は、イングランド侵攻を狙って巨大艦隊を送り出しました。この艦隊がいわゆるスペイン無敵艦隊アルマダです。無敵って名前がもう敗北フラグ立ってますが。

しかし調べてみるとアルマダの本質は単なる海戦用の艦隊ではありませんでした。ブリタニカではアルマダはフランドルにいたスペイン軍つまりパルマ公の軍と連携してイングランドへ侵攻するための艦隊と説明されています。すなわちんごスペイン側の狙いはこうです。

  • スペイン艦隊が英仏海峡へ進む。
  • フランドル方面のパルマ公軍と合流する。
  • パルマ公の兵をイングランドへ上陸させる。
  • イングランドを制圧する。

つまりアルマダは海だけで勝つ作戦ではありません。本命はパルマ公の陸軍をイングランドへ送り込むことでした。

記事が見つかりませんでした。

Navy Records Society『The Defeat of the Spanish Armada』に収められた捕虜尋問でも、ドン・ペドロ・デ・バルデスは、アルマダの目的について「パルマ公がこの王国へ上陸し、征服できるよう道を開くためだった」と答えています。要するに、アルマダは「艦隊そのものが敵国を完全制圧する」というより、上陸作戦を成立させるための巨大な橋渡し役だったのです。

共通点三つ

共通点1:どちらも巨大侵攻作戦だった

赤壁とアルマダの一つ目の共通点はどちらも巨大勢力による侵攻作戦だったことです。赤壁では曹操が南方へ進み、孫権・劉備を圧迫しました。曹操はすでに北方の大勢力であり、荊州も降伏させています。もしそのまま長江を越えて江東方面まで制圧していたら、三国時代の形そのものが変わっていたかもしれません。

一方、アルマダではスペインがイングランド侵攻を狙いました。当時のスペインはヨーロッパ最強級の大国です。フェリペ2世はスペイン王であると同時に1580年以降はポルトガル王も兼ねていました。スペイン帝国は広大な海外領土を持ち、カトリック大国として大きな影響力を持っていました。

つまり赤壁もアルマダも防御側からすれば、「ここで負けたら飲み込まれる」という戦いだったわけです。赤壁では、孫権・劉備が曹操に飲み込まれる危機。アルマダでは、イングランドがスペインの侵攻を受ける危機。どちらも、単なる局地戦ではなく、その後の勢力図を左右する大きな分岐点でした。

共通点2:火攻めが作戦を崩した

二つ目の共通点はやはり火攻めです。赤壁では孫呉の宿将黄蓋が曹操軍の船が首尾相接しているつまり船同士が連なっている状態に注目しました。そこで黄蓋は燃えやすい草や油を積んだ船を用意し偽って降伏する形で曹操軍に接近します。そして一気に火を放ちました。この火は曹操軍の船に燃え移りさらに岸辺の陣営にも及びました。船をつないで安定させたら逆に全部まとめて燃える。安全対策が地獄の導火線になった感じ。赤壁の火攻めは、かなり直接的です。

  • 敵の船を焼く。
  • 敵の陣営を焼く。
  • 敵軍を敗走させる。

まさに火力で物理的に破壊する火攻めでした。

一方アルマダの火船作戦は、少し性格が違います。イングランド側は、カレー沖に停泊していたスペイン艦隊へ火船を流し込みました。ただしこの火船作戦はスペイン艦隊をすべて焼き尽くすためというより安全な泊地から追い出すことが重要でした。 Navy Records Society の記録ではウィンターがスペイン艦隊の巨大さを見て砲撃だけで動かすのは難しいと考え火船を使えば彼らを泊地から離れさせ錨や錨索を失わせられると考えたことが読み取れます。つまりアルマダの火船は燃やすための火というより動かすための火でした。

ここが赤壁との大きな違いです。赤壁は「敵船を焼き崩す火攻め」。アルマダは「敵艦隊を動かして隊形を崩す火攻め」。同じ火でも、使い方が違うわけです。

共通点3:疫病・補給・環境が勝敗に絡んだ

三つ目の共通点はどちらも戦場の勇気や戦術だけで決まったわけではないことです。赤壁では曹操軍に疾病がありました。正史『三国志』の周瑜伝系の記述では、曹操軍にはすでに疾病があったとされます。また魏書武帝紀でも曹操が赤壁で劉備と戦って不利となり大疫によって官吏や兵士に多くの死者が出たため軍を引いたと記されています。つまり曹操軍は火攻めを受ける前から万全ではなかったのです。病気で弱ってるところに火攻め。曹操軍からしたら踏んだり蹴ったり燃えたりラジバンダリ。

一方、アルマダでも補給と環境が大きな問題でした。Navy Records Society の書状を見ると、イングランド側も食糧や弾薬不足に苦しんでいました。8月1日の軍議では、艦船が極度の物資不足にあるため補給のため戻る必要がある、とされています。

勝った側ですら余裕ではなかったのです。さらにスペイン側にも補給の問題が見えます。捕虜グレゴリオ・デ・ソトマヨールの供述ではフェリペ王は艦隊に6か月分の食糧を積むよう命じたが実際には4か月分しか用意されずしかも質が悪く腐っていたとされています。もちろんこれは捕虜の証言なのでそのままスペイン側の公式見解として断定するのは危険です。しかし少なくともアルマダが補給・水・食糧の面で大きな負担を抱えていた可能性は高いでしょう。

赤壁では疫病。アルマダでは補給・水・弾薬・天候。どちらも巨大軍を動かす難しさが敗因に絡んでいます。大軍は強い。でも大軍は飯も水もめちゃくちゃ食う。

相違点3つ

違い1:赤壁は河川戦、アルマダは海洋戦

赤壁とアルマダの大きな違いは戦場です。赤壁は長江の戦いです。つまり海ではなく大河の水上戦です。曹操軍は北方の大軍でしたが、長江流域の水軍運用では孫権側の方が経験と地の利を持っていたと考えられます。曹操軍が船をつないでいたことも南方水域への不慣れと関係していた可能性があります。

一方、アルマダは英仏海峡から北海へ続く海の戦いです。こちらでは、風、潮流、泊地、海峡の狭さ、フランドル方面との連絡、北方迂回航路などが大きく関わりました。

赤壁は長江という大河での戦い。アルマダは海峡と外洋をまたぐ大作戦。同じ水上戦でもスケールと条件はかなり違います。川と海どっちも水だけど難易度の種類が違うのです。

違い2:火攻めの目的が違う

先ほども触れましたが火攻めの目的も違います。赤壁の火攻めは曹操軍の船と陣営を直接焼くための攻撃でした。船が密集し連なっていたところへ燃料を積んだ船を送り込む。火が燃え広がり曹操軍は敗走する。非常に分かりやすい破壊型の火攻めです。一方アルマダの火船はスペイン艦隊を直接焼き尽くすというよりカレー沖の安全な泊地から追い出すための作戦でした。

スペイン艦隊はそこでパルマ公軍との合流を待っていました。だからこそイングランド側にとって重要なのはスペイン艦隊をその場所に留まらせないことでした。火船によってスペイン艦隊は錨を切り泊地を離れます。そして隊形が崩れたところへグラヴリーヌ沖の砲撃戦が続きます。つまりアルマダの火船作戦は敵艦隊そのものを全部焼くというより、上陸作戦の前提を壊す作戦でした。

赤壁は火で曹操軍を焼く。アルマダは火でスペイン艦隊を動かす。この違いはかなり重要です。

違い3:記録の残り方が違う

もう一つ大きい違いは記録の残り方です。赤壁について陳寿『三国志』の記述は後世のイメージに比べるとかなり簡潔です。演義では諸葛亮、周瑜、龐統、黄蓋、曹操の心理戦が盛り盛りで描かれます。しかし正史だけで見ると赤壁はもっと淡々としています。

  • 曹操軍に疾病があった。
  • 初戦で曹操軍が敗退した。
  • 黄蓋が火攻めを献策した。
  • 火が船と陣営に及んだ。
  • 曹操が撤退した。

という流れです。

一方、アルマダは近世の戦争なので、書状や報告、軍議の決定、捕虜尋問、物資報告などがかなり細かく残っています。Navy Records Society『The Defeat of the Spanish Armada』には、シーモア、ウィンター、フェナーらの報告、軍議の決定、捕虜尋問、食糧や弾薬不足の話まで出てきます。そのためアルマダは、

  • 誰がどう報告したか
  • 何に困っていたか
  • どのように敵を見ていたか
  • 戦後に何を警戒していたか

まで追いやすいです。赤壁は「短い正史記述をどう読むか」。アルマダは「大量の書簡・記録から実態を見る」。資料の性格がまったく違うわけです。

敗者は本当に弱かったのか?

赤壁もアルマダも敗者が弱かったわけではありません。曹操は赤壁で敗れましたがその後も北方の大勢力であり続けました。赤壁で曹操政権が即崩壊したわけではありません。スペインも同じです。アルマダは敗北しましたがスペイン帝国がすぐに弱小国になったわけではありません。フェリペ2世のスペインはなおヨーロッパ屈指の大国でした。つまりどちらも敗者が弱かったから負けたというより

巨大な侵攻作戦が、複数の問題によって崩れた

と見るべきです。赤壁では曹操軍の疾病、水上戦の条件、船団の密集、黄蓋の火攻めが重なりました。アルマダではパルマ公軍との合流困難、火船による泊地離脱、グラヴリーヌ沖の砲撃戦、補給問題、撤退中の嵐が重なりました。巨大勢力でも環境と作戦が噛み合わなければ崩れる。これが赤壁とアルマダに共通する教訓だと思います。強い国がいつも順当に勝つわけではないから歴史は面白いです。

↓アルマダの詳細↓

赤壁とアルマダの比較表

項目赤壁の大戦スペイン無敵艦隊
時代208年ごろ1588年
舞台長江流域英仏海峡・北海方面
侵攻側曹操スペイン王フェリペ2世の艦隊
防御側孫権・劉備連合イングランド、ネーデルラント方面勢力
目的南方制圧パルマ公軍と合流し、イングランド上陸
火攻め黄蓋の火攻めイングランド側の火船作戦
火の役割船と陣営を直接焼く泊地から追い出し隊形を崩す
主な問題疾病、水上戦、船団密集合流失敗、補給、航路、天候
結果曹操の南方制圧を阻止スペインの上陸作戦が失敗
よくある誤解諸葛亮が全部やった嵐だけで負けた

まとめ

赤壁の大戦とスペイン無敵艦隊アルマダの戦いは時代も地域もまったく違います。しかし比較するとかなり面白い共通点があります。

  • どちらも巨大勢力による侵攻作戦だった。
  • どちらも水上戦だった。
  • どちらも火攻めが大きな転機になった。
  • どちらも疫病・補給・環境が勝敗に絡んだ。
  • どちらも敗者が即滅亡したわけではない。

ただし火攻めの意味は違います。赤壁では黄蓋の火攻めが曹操軍の船と陣営を直接焼きました。一方アルマダでは火船作戦がスペイン艦隊を安全な泊地から追い出しパルマ公軍との合流という作戦の前提を崩しました。つまり一言でまとめるなら赤壁は火攻めで曹操の南征を焼き崩した戦い。アルマダは火船と砲撃でスペインの上陸作戦を崩し、嵐が追い打ちをかけた戦い。です。

赤壁もアルマダも、「巨大な軍事力があれば勝てる」とは限らないことを示しています。大軍には大軍の弱点があります。

  • 兵が多ければ、食糧が必要になる。
  • 船が多ければ、統制が難しくなる。
  • 作戦が大きければ、連絡と合流が難しくなる。
  • そして水上では、風や病気や火が、すべてをひっくり返すことがある。

歴史を調べてるとだいたい最後は兵站と天候と体調が殴ってきます。赤壁とアルマダは、まさにその代表例です。強大な侵攻作戦は正面からの力だけでなく火と環境によって崩れる。この二つの戦いを並べると時代を超えて見えてくる戦争の怖さと面白さがあります。

参考資料・出典

  • 陳寿『三国志』魏書 武帝紀
  • 陳寿『三国志』蜀書 先主伝
  • 陳寿『三国志』呉書 周瑜・魯粛・呂蒙伝
  • 陳寿『三国志』呉書 黄蓋伝
  • Navy Records Society, The Defeat of the Spanish Armada, Vol. II, 1894.
  • Encyclopaedia Britannica “Spanish Armada”
  • Encyclopaedia Britannica “Philip II, king of Spain and Portugal”
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