荀攸とは
三国志の軍師といえば荀彧や郭嘉、諸葛亮、司馬懿などを思い浮かべる人が多いかもしれません。しかし曹操のすぐそばで数々の遠征に加わり張繡・呂布・袁紹・袁譚・袁尚との戦いを支えた重要な軍師がいました。
それが荀攸(じゅんゆう)字は公達です。荀攸は潁川郡潁陰県の出身で荀彧と同じ荀氏の一族でした。陳寿『三国志』では「荀彧の従子」と記されていますが裴松之注に引かれた『荀氏家伝』によると荀攸の父・荀彝と荀彧は従祖兄弟の関係でした。そのため荀攸は荀彧の実の甥ではなく一族内で一世代下にあたる族甥と見るのが正確です。しかも年齢は荀攸の方が荀彧より六歳上でした。
正史における荀攸は派手に自分の功績を語る人物ではありません。曹操と相談した軍略を家族にも明かさず功績を誇らず苦労さえ他人に見せませんでした。
それでも曹操は荀攸を遠征時の中心的な相談役である「謀主」として重用しました。裴松之注に引かれた『魏書』には曹操が荀攸について長く交際するほど敬意が深まる人物だと称賛したことも記されています。
一方『三国志演義』では正史由来の軍略に多数の創作が加えられ最後には曹操の魏王就任に反対して死ぬ漢室の忠臣として描かれました。
正史における荀攸
十三歳で逃亡犯を見抜いた少年
荀攸は若い頃から人の様子を観察して本心を見抜く力を備えていました。
陳寿『三国志』荀攸伝によると荀攸が十三歳のとき祖父の荀曇が亡くなりました。すると祖父の元部下だった張権という人物が墓守を願い出ます。荀攸は張権の様子を見てどこか不自然だと感じました。叔父に調べるよう頼んだところ張権は人を殺して逃亡していたことが判明します。十三歳の少年が表面上は忠義に見える行動の裏に隠された事情を見抜いたのです。後年の荀攸が敵将の性格や軍の内情を読み切ったことを考えるとその才能は少年時代から表れていたといえるでしょう。
ここからは裴松之注の記述です。
裴松之注に引かれた『魏書』には荀攸が七、八歳だった頃の逸話もあります。叔父の荀衢が酒に酔い誤って荀攸の耳を傷つけてしまいました。荀攸は叔父に傷を見られないよう振る舞い罪悪感を抱かせないようにしたといいます。『魏書』が伝える荀攸像は賢いだけでなく幼い頃から他人の心情にまで配慮できる人物でした。
董卓暗殺を計画した勇気
何進が天下の名士二十人余りを招聘すると荀攸も選ばれて黄門侍郎となりました。やがて董卓が朝廷の実権を握り皇帝と都を長安へ移します。荀攸は鄭泰・何顒・种輯・伍瓊らとともに董卓を暗殺する計画を立てました。計画は董卓を殺害した後、崤山と函谷関の険要を押さえ皇帝の命令を奉じて天下に号令するという大胆なものでした。
しかし計画は発覚し荀攸と何顒は投獄されます。何顒が恐れて自殺したのに対し荀攸は普段と変わらず会話し、食事をしていたと陳寿は記しています。荀攸というと物静かな軍師という印象を持たれがちです。しかし若き日の彼は失敗すれば命を失う董卓暗殺計画に加わった人物でした。後に曹操が「外見は臆病に見えても内面は勇敢」と評した理由を感じさせる出来事です。
なお釈放の経緯については史料が一致しません。陳寿本文では董卓の死後に釈放されたとされますが裴松之注に引かれた『魏書』では人を介して董卓に事情を説明し、釈放されたと記されています。どちらが事実なのかは不明です。

曹操が「謀主」として迎える
董卓の死後、荀攸は一度官職を離れました。その後、蜀郡太守になることを望みましたが道が断たれていたため赴任できず荊州にとどまります。建安元年(196年)曹操が献帝を許へ迎えると荀攸を呼び寄せました。荀攸は汝南太守に任じられた後、中央に入って尚書となりさらに軍師として曹操に従います。
曹操は荀彧と鍾繇に対し荀攸は並の人物ではなく彼と計略を相談できれば天下について何を心配する必要があるだろうかと語りました。荀攸は荀彧のように後方の政治や人材登用を中心に支えた人物というより曹操の遠征に随行し戦場で具体的な作戦を立てる役割を担いました。荀彧伝でも、荀攸は常に曹操の「謀主」だったと記されています。
張繡と劉表の関係を見抜く
建安三年(198年)曹操が張繡を攻めようとすると荀攸は急いで攻めないよう進言しました。
張繡の軍は劉表から食糧を得なければ維持できず、劉表もいつまでも支え続けることはできない。そのため時間がたてば両者の関係は自然に悪化する。ゆっくり待てば張繡を誘い出せるが急攻すれば劉表は張繡を救援するだろう。という判断です。
曹操は荀攸の意見を採用せずに進軍しました。すると荀攸の予測どおり劉表が張繡を救援し曹操軍は不利になります。曹操は後に「あなたの言葉を用いなかったため、こうなってしまった」と自らの判断ミスを認めました。
荀攸は戦場の兵数だけを見ていたのではありません。張繡と劉表を結び付けている補給関係と攻撃された場合の心理まで読んでいたのです。
呂布と陳宮の弱点を突く
曹操が呂布を下邳に追い詰めたとき長期戦で兵が疲れたため撤退を考えました。しかし荀攸と郭嘉は反対します。荀攸は呂布は勇猛ではあるが思慮に欠け、陳宮には知恵があっても決断が遅いと分析しました。呂布軍の士気が回復し陳宮の策が決まる前に攻撃すれば倒せると考えたのです。
曹操はこの進言を受け入れ、沂水と泗水の水を引いて下邳城を水攻めにしついに呂布を捕らえました。ただし陳寿本文は水攻めの具体的な発案者を荀攸一人に限定していません。荀攸と郭嘉の進言を受けた後、曹操が水攻めを行ったと理解するのが安全です。

白馬と延津で袁紹軍を翻弄
官渡の戦いに先立ち袁紹軍の顔良が白馬を包囲しました。荀攸は曹操軍が延津から黄河を渡って袁紹軍の背後を突くように見せれば袁紹は西へ兵を分けると考えました。その隙に曹操軍が白馬へ急行し顔良を攻撃するという陽動作戦です。
袁紹は荀攸の読みどおり兵を分けました。曹操は白馬へ急行し顔良は関羽に討たれます。続く延津では曹操軍の輜重を見た文醜軍が戦利品を奪おうとして隊列を乱しました。曹操軍はその瞬間に攻撃し文醜を破ります。
このとき諸将が敵の多さを恐れるなか荀攸だけは曹操の意図を理解していたと陳寿は記しています。なお正史は文醜を討ち取った人物を特定していません。『三国志演義』では関羽が文醜を斬りますがこれは正史から確認できない描写です。
官渡で許攸の投降を信じる
官渡の戦いでは荀攸の冷静な人物観察が再び発揮されました。荀攸は袁紹軍の輸送部隊が隙を見せていると判断し徐晃を推薦しました。徐晃らは輸送部隊を破り食糧を焼き払います。
この輸送部隊の指揮官名について陳寿本文には「韓𦳣」とありますが、裴松之は他の史料に「韓猛」「韓若」といった異同があるため正しい名前は分からないと記しています。その後、袁紹のもとを離れた許攸が曹操に投降し烏巣にある袁紹軍の兵糧庫を攻撃するよう勧めました。多くの者が許攸を疑うなか荀攸と賈詡だけはその言葉を信じるよう進言します。
曹操は荀攸と曹洪を本営に残し自ら烏巣を急襲しました。兵糧を焼かれた袁紹軍は混乱します。さらに張郃と高覧が投降すると曹洪は偽りではないかと疑いました。荀攸は張郃は自分の策が袁紹に採用されなかったことに怒って投降したのであり疑う必要はないと判断しました。荀攸は許攸や張郃の言葉だけを信じたのではありません。二人がなぜ袁紹を見限ったのかその理由まで考えて判断していたのです。
袁氏兄弟の内紛を好機に変える
袁紹の死後、息子の袁譚と袁尚は後継者争いを始めました。
曹操の陣営では先に荊州の劉表を攻めるべきだという意見も出ました。しかし荀攸は劉表には領地を守る以上の大志がなく袁氏兄弟が和解すれば再び強敵になると分析します。だからこそ兄弟が争っている今のうちに河北を攻略するべきだと進言しました。
曹操は荀攸の策を採用し袁譚と同盟して袁尚を攻撃します。その後、曹操は袁譚も破り河北平定を進めました。敵が分裂した瞬間を逃さず、より危険な相手から順に崩す。荀攸は一度の戦闘だけでなく戦後に勢力図がどう変化するのかまで見通していました。
功績を語らなかった「十二奇策」の軍師
河北平定後、曹操は朝廷への上表で、荀攸は仕えて以来、出征のたびに従軍し敵を破って勝利したのはすべて荀攸の謀略によるものだと称賛しました。荀攸は陵樹亭侯に封じられ建安十二年(207年)の論功では荀彧に次ぐ功臣と評価されます。その後は中軍師となり魏公国が成立すると尚書令に任じられました。
これほどの功績を挙げながら荀攸は自分の働きをほとんど語りませんでした。曹操と相談した内容は家族さえ知らなかったといいます。
ここからは裴松之注に引かれた『魏書』の記述です。
親族の辛韜が冀州平定について尋ねたとき荀攸は自分は何も知らないと話をそらしました。それ以後、身内も外部の人間も国事や軍事について荀攸に質問しなくなったといいます。荀攸が立てたとされる「十二の奇策」の全容を知っていたのは鍾繇だけでした。鍾繇はそれを記録しようとしましたが完成しないまま亡くなります。そのため十二の奇策が存在したことは史料に記されていても、具体的な十二項目は現在まで伝わっていません。
曹操が長く交わるほど敬った人柄
陳寿本文によると曹操は荀攸を次のような人物だと評価しました。
外見は愚鈍に見えても内面には知恵があり、外見は臆病に見えても内面は勇敢であり、外見は弱く見えても内面は強い。自分の功績を誇らず、苦労を他人に押し付けない。荀攸の知恵に追いつける者はいても、その謙虚さまで真似できる者はいない――という評価です。
曹操は後継者の曹丕にも荀攸は人々の模範となる人物なので最大限の礼を尽くすよう命じました。荀攸が病気になると曹丕は病床の下で拝礼したといいます。
ここからは裴松之注に引かれた『魏書』の記述です。
曹操は荀攸と二十年以上にわたり行動をともにしながら髪の毛ほどの過失さえ見いだせなかったと称賛しました。さらに孔子が晏嬰を評した「人と交わることに優れ、長く交際するほど敬意を抱かせた」という言葉を挙げ荀攸こそ、そのような人物だと語っています。知略に優れた人物はときに周囲から恐れられます。功績を重ねた人物は、ときに傲慢になります。しかし荀攸は、才能を知れば知るほど警戒されるのではなく付き合いが長くなるほど敬われたのです。
荀攸の死と正史の評価
建安十九年(214年)、荀攸は曹操の孫権征討に従軍し、その道中で亡くなりました。
陳寿本文に死因と正確な死亡地点は記されていないため、不明です。裴松之注に引かれた『魏書』によると、享年は五十八歳でした。曹操は荀攸について語るたびに涙を流したといいます。
陳寿は荀攸と賈詡について計略にほとんど失敗がなく、臨機応変に優れ、漢の張良・陳平に次ぐ人物だと評価しました。
これに対し裴松之は、荀攸と賈詡を同列に並べることを批判しています。二人を夜光の珠と蝋燭にたとえ光を放つ点は同じでも本質は異なると論じました。文脈から見れば裴松之は知略だけでなく人格面も含め、荀攸を賈詡より高く評価したと考えられます。
『三国志演義』における荀攸
荀彧とともに曹操へ仕える軍師
『三国志演義』の荀攸は正史より早い段階から物語に登場します。
第十回では荀彧が荀攸を曹操に推薦します。荀攸は荀彧の甥にあたる人物として単純化され荀彧とほぼ同じ時期に曹操へ仕え行軍教授に任じられました。しかし正史では荀彧と荀攸は同時に曹操へ仕えたわけではありません。荀攸は何進に招聘され董卓暗殺計画による投獄などを経験した後、建安元年に曹操から呼び寄せられました。つまり『演義』は複雑な経歴や一族関係を整理し荀彧が曹操のもとへ連れてきた軍師として分かりやすく描いています。

正史の軍略を受け継いだ活躍
『演義』にも正史をもとにした荀攸の軍略が数多く登場します。
呂布討伐では張繡と劉表が敗戦直後で動けないことを見抜き、呂布を早く討つよう進言します。下邳では撤退に反対し呂布と陳宮が立ち直る前に攻め続けるべきだと主張しました。文醜との戦いでは輜重を餌に敵軍の隊列を乱す曹操の意図を理解します。官渡では袁紹軍の輸送部隊を攻撃する将として徐晃を推薦し袁譚と袁尚が争うと、両者を各個撃破するよう進言しました。
これらは細部に違いがあるものの荀攸伝に記された判断をもとにした描写です。ただし、文醜を関羽が斬る場面や官渡で鄴と黎陽へ偽情報を流す策など、『演義』独自の脚色も加えられています。
赤壁や馬超との戦いでも献策
『演義』では正史の荀攸伝にない献策も大幅に増えています。
赤壁の戦いに至る過程では孫権に書状を送り劉備を共同で討って荊州を分割する策を提案します。さらに蔡中と蔡和を呉へ偽投降させ内情を探らせる案も荀攸の策です。また程昱が連環船への火攻めを警戒すると荀攸もその危険性に同意します。しかし曹操は東南の風が吹かないと考え警告を退けました。
周瑜の死後には孫権と劉備を順番に討つ策を述べ馬騰を官職で都へ誘い出して排除する案も出します。馬超との戦いでは渭水の砂を使って城を築くよう進言しました。
魏王就任に反対して憂憤のうちに死ぬ
正史と『演義』の最大の違いは荀攸の最期です。
『演義』第六十六回では、曹操が魏王になろうとすると荀攸が反対します。荀攸は曹操がすでに魏公となって九錫を受けている以上、これ以上の地位を望むべきではないと諫めました。曹操は怒り荀攸も荀彧の真似をするのかと言い放ちます。荀攸は憂憤から病にかかり五十八歳で亡くなりました。
しかしこの最期は正史と一致しません。
正史の荀攸は建安十九年(214年)に亡くなっています。曹操が魏王になったのは建安二十一年(216年)なので荀攸が魏王就任に反対することは年代上不可能です。さらに裴松之注に引かれた『魏書』では、建安十八年(213年)、曹操に魏公の爵位と九錫を受けるよう勧めた連名者の中に荀攸が含まれています。ただし、これは連名の文書であるため、文面のすべてが荀攸個人の考えだったとまでは断定できません。
『演義』は曹操の魏公就任に反対して失意のうちに死んだ荀彧の物語を荀攸にも重ね二人を漢王朝への忠義を貫いた軍師として描いたのでしょう。これは史実ではなく物語上の改変です。

正史と『三国志演義』の荀攸を比較
| 比較項目 | 陳寿『三国志』本文 | 裴松之注 | 『三国志演義』 |
|---|---|---|---|
| 荀彧との関係 | 荀彧の従子 | 父同士の関係を補足。実の甥ではなく族甥にあたる | 荀彧の甥として単純化 |
| 曹操への仕官 | 建安元年、曹操に呼び寄せられる | 若年期や家系を補足 | 荀彧とほぼ同時に推薦されて仕える |
| 主な役割 | 曹操の遠征に従う謀主 | 曹操・鍾繇らの人物評を補足 | 曹操軍の常任軍師として登場 |
| 張繡戦 | 急攻すれば劉表が救援すると予測 | 大きな相違なし | 呂布討伐前の情勢判断に取り入れる |
| 呂布討伐 | 郭嘉とともに撤退へ反対。呂布・陳宮の弱点を分析 | 張繡・劉表が動けないとの判断を補足 | 正史をもとに描写。ただし水攻めの役割分担は変化 |
| 官渡の戦い | 陽動策、輸送隊攻撃、許攸と張郃の投降判断などで貢献 | 輸送隊指揮官名の異同などを補足 | 正史由来の活躍に偽情報策などを追加 |
| 赤壁・馬超戦 | 荀攸伝に具体的献策はない | 具体的献策の補足なし | 偽投降策、火攻めへの警戒、馬騰誘殺、渭水築城などを追加 |
| 人物像 | 秘密を守り、功績を誇らない。曹操が高く評価 | 二十年以上付き合って欠点がなく、長く交わるほど敬意が深まる人物とする | 有能な軍師であると同時に漢室への忠節も強調 |
| 十二の奇策 | 十二策の一覧は記されない | 存在は記すが、鍾繇が記録を完成できず内容は散逸 | 独自の策は増えるが、十二奇策を復元したものではない |
| 曹操の昇格への態度 | 魏王就任以前に死去 | 魏公・九錫の受諾を勧める連名者に含まれる | 魏王就任に反対 |
| 最期 | 孫権征討へ向かう途中で死去。死因と場所は不明 | 建安十九年、五十八歳と補足 | 曹操に反対した後、憂憤から病死 |
知るほどに敬意が深まる軍師

荀攸の知略は奇抜な作戦を一度だけ成功させたものではありませんでした。
張繡と劉表を結ぶ補給、呂布の勇猛さと陳宮の決断の遅さ、袁紹軍の輸送、許攸の投降、張郃の怒り、袁譚と袁尚の対立。荀攸は敵の兵力だけでなくその背後にある人間関係と心の動きを読み、曹操軍の勝利へ変えていきました。それほどの知恵を持ちながら自ら功績を吹聴しませんでした。家族にも軍議を明かさず、苦労を人に見せず、手柄を誇らない。そのため十二の奇策の詳細まで失われたことは、歴史好きとして本当に惜しく感じます。
私が何より心を動かされるのは曹操が荀攸を「長く交わるほど敬意が深まる人物」と評したことです。一度会っただけなら礼儀正しく知的に振る舞うことはできるでしょう。しかし二十年以上も行動をともにすれば、欠点も、弱さも、醜い部分も見えてくるはずです。それでも曹操は、荀攸には髪の毛ほども非難すべき点がなかったとまで語りました。
戦場で曹操を驚かせる策を出すことも難しい。しかし人材を厳しく見定める曹操と長年付き合い、知れば知るほど尊敬されることはそれ以上に難しいのではないでしょうか。
『三国志演義』は荀攸を漢王朝に殉じた忠臣として劇的に描き直しました。けれども正史の荀攸にはそのような最期を付け加えなくても十分な魅力があります。功を誇らず、秘密を守り、必要なときだけ勝利につながる一言を差し出す。荀攸は表舞台で輝く英雄というより曹操軍の勝利を背後から静かに支え続けた「謀主」でした。十二の奇策が失われたため私たちは荀攸の知恵のすべてを知ることができません。それでも彼を失った曹操が語るたびに涙を流したという一文だけで荀攸がどれほど大きな存在だったのかは伝わってきます。
名声を追わなかったからこそ多くが歴史の闇に消えてしまった。その静けさまで含めて荀攸という人物には、知れば知るほどこちらまで敬意を抱かずにはいられません。
参考史料
- 陳寿『三国志』魏書巻十「荀彧荀攸賈詡伝」、魏書巻一「武帝紀」
- 裴松之注(引用『魏書』『荀氏家伝』『傅子』など)
- 『三国志演義』通行百二十回本

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