【三国志】虞翻とは?演義では諸葛亮に論破された呉の文官

『三国志演義』で虞翻(ぐほん)と聞くと諸葛亮の「舌戦群儒」で言い返され、黙り込んだ東呉の文官を思い浮かべる人が多いかもしれません。

しかし陳寿の正史『三国志』に記された虞翻はそれだけで片づけられる人物ではありません。孫策には友人同然に遇され、孫権には命を懸けて諫言し、呂蒙の荊州攻略では現場の危険を見抜きました。さらに『易』を深く研究し追放先でも数百人の門弟に学問を教え続けた学者でもあります。

その一方、虞翻は言葉があまりにも鋭く于禁や麋芳を容赦なく侮辱し、主君の孫権さえ何度も怒らせました。有能でありながら自らの率直さによって居場所を失っていった人物ともいえます。

目次

正史の虞翻―孫権にも遠慮しなかった博学の直臣

王朗に仕え敗れても見捨てなかった

虞翻、字は仲翔。会稽郡余姚県の出身です。

若い頃の虞翻は会稽太守の王朗に功曹として仕えていました。孫策が会稽へ攻め込んでくると虞翻は王朗に対し、孫策との正面衝突を避けるよう進言します。しかし王朗は受け入れず戦って敗れ、海路を逃れました。

ここで虞翻は進言を退けられたからといって王朗を見捨てていません。敗走する王朗を追い東部の候官まで付き従って守りました。王朗から「あなたには老母がいるのだから帰りなさい」と諭されようやく会稽へ戻っています。

勝ち目が薄いことを冷静に判断しながらも敗れた主君への義理は捨てない。この行動には後に降伏した于禁や麋芳を厳しく責めた虞翻の価値観がすでに表れているように思えます。ただしこれは記録された行動からの推測であり、虞翻自身がその心情を説明したわけではありません。

孫策から友人の礼で遇される

会稽へ帰った虞翻は孫策から再び功曹に任命されました。正史は孫策が虞翻を「交友之礼」つまり部下としてだけでなく友人に対する礼で遇し自ら虞翻の家を訪ねたと記しています。

孫策が護衛を十分に付けず狩猟や遠乗りに出ることを好むと虞翻は主君が軽々しく出歩けば威厳を損ない、不慮の危険にも遭うと諫めました。孫策はその指摘を認めています。後に孫策が狩猟中、許貢の食客に襲撃されたことを考えると虞翻の警告は非常に重いものでした。ただし陳寿はこの諫言と孫策の死を直接結びつけてはいません。

裴松之注が引用する『呉書』には孫策が山中で一人になった際、虞翻が自分は槍を扱えるとして前を歩き孫策を護衛したという逸話もあります。虞翻は純粋な書斎人ではなく軍事行動にも同行できる人物として描かれているのです。

孫策の死後、混乱を防いだ実務官

正史によればその後の虞翻は富春県長となりました。

孫策が死去すると各県の長官たちは任地を離れ、葬儀へ向かおうとします。しかし虞翻は長官が城を空ければ周辺の山越などが混乱を起こす恐れがあると考え任地にとどまったまま喪に服しました。他の県もこれにならい、地域の治安は保たれたといいます。悲しみに流されず、まず住民と城の安全を守る。派手な武功ではありませんが行政官としての虞翻の判断力がよく分かる場面です。

なお裴注が引く『呉書』と『会稽典録』では孫策死去時の虞翻を会稽の功曹としています。正史の「富春県長」と食い違うため当時の正確な官職は不明です。

曹操の招きを拒み『易』の研究で孔融から評価される虞翻は州から茂才に推挙され漢王朝から侍御史として召されました。また司空だった曹操からも招かれますが、いずれにも応じませんでした。

さらに裴注引『呉書』では曹操からの招聘を知った虞翻が盗跖という古代の大盗賊に曹操をなぞらえ「盗賊が余った財物で良家を汚そうというのか」という趣旨の言葉を吐いて拒絶したとされています。この記録に従う限り正史側の虞翻を「曹操への降伏を望んだ人物」とみなすことはできません。

虞翻は学者としても高く評価されました。自ら著した『易注』を孔融に送り孔融から東南には竹や矢竹だけでなく、虞翻のような優れた人物もいるのだと称賛されています。

孫権に仕え、直言によって遠ざけられる

孫権の時代になると虞翻は騎都尉に任じられました。しかし正史は虞翻が何度も孫権の顔色を犯して諫め世俗に調子を合わせない性格だったため、しばしば非難や中傷を受けたと記しています。孫権も虞翻を喜ばず丹陽郡涇県へ移しました。虞翻の問題は正しい意見を持っていなかったことではありません。むしろ正しいと思ったことを相手が孫権であっても遠慮なく突きつけてしまう点にありました。

その後、呂蒙が関羽の守る荊州を奪おうとした際、虞翻に医術の心得があったため呂蒙は同行を求めました。虞翻を処罰から救い出す意図もあったと正史本文は伝えています。

南郡太守の麋芳が開城して降伏すると呂蒙はまだ城を確保しきらないうちに城外で祝宴を始めようとしました。虞翻は心から降った麋芳一人はともかく城内の全員まで信用してよいのかと警告し、すぐに城を押さえるよう進言します。実際に城内には伏兵の計画があり虞翻の言葉によって実行されませんでした。

また裴注引『呉書』では、虞翻が公安を守る士仁に書状を送り、降伏させたことも記されています。虞翻は弁舌だけでなく、敵の心理と軍事上の危険を読む力も持っていました。

于禁と麋芳を容赦なく責める

一方、虞翻の率直さはときに苛烈な攻撃となりました。

関羽に降伏した于禁が呉の手に移り孫権と馬を並べて進むと虞翻は「降伏した捕虜が、どうしてわが君と馬首を並べるのか」と怒り、鞭で打とうとします。宴席で于禁が音楽を聞いて涙を流した際にも釈放を求める芝居ではないかと罵りました。裴注引『呉書』によれば虞翻は于禁を斬って臣下への戒めとするよう孫権に求めましたが採用されませんでした。

同じく関羽を裏切って呉へ降った麋芳にも「忠義と信義を失い、二つの城を傾けながら将軍を名乗るのか」と痛烈な言葉を浴びせています。

虞翻には降伏者を利用する呉の政策と主君を裏切った人物を許せない個人的な倫理観が同居していたのかもしれません。ただし、これも行動から読み取った解釈です。史書が虞翻の内心を直接説明しているわけではありません。

孫権に殺されかけ交州へ追放される

孫権が呉王となった後の宴席で、孫権が自ら酒を注いで回ると虞翻は酔ったふりをして地面に伏し、杯を受けませんでした。ところが孫権が通り過ぎると起き上がったため孫権は激怒し、剣を手に虞翻を斬ろうとします。

その場にいた劉基が「酒の後で善士を殺したと世間に知られれば、誰が虞翻の罪を理解するでしょうか」と必死に止めたことで虞翻は命を救われました。孫権はその後、自分が酒に酔って殺せと命じても実行してはならないと側近に命じています。

虞翻は酒席で失敗を重ね孫権と張昭が神仙について語っていた時には神仙など存在しないと話を遮りました。孫権の怒りは一度の事件で生まれたものではなく、長年積み重なったものでした。ついに虞翻は遠い交州へ追放されます

追放されても学問を捨てなかった

ところが虞翻は追放先でも学問をやめませんでした。正史には、罪を受けて放逐されながらも講学を怠らず、門弟が常に数百人いたとあります。さらに『老子』『論語』『国語』の注釈を著し当時世に伝わったと記されています。

裴注が引用する『虞翻別伝』によれば虞家では五代にわたって『易』を研究してきました。虞翻は乱世に生まれ、軍旅の中で成長しながらも陣太鼓の響く中で経書を学び、馬上の生活の中で議論を続けたという趣旨を自ら述べています。

虞翻は南方で十余年を過ごし七十歳で亡くなりました。裴注引『江表伝』では遼東へ人員や財物を送った孫権が海難による損失を出した後、直言できる虞翻がいれば、この計画は実行されなかっただろうと後悔し帰還させようとします。しかし、その時には虞翻はすでに亡くなっていました。

陳寿は虞翻を「古之狂直」、古代の激しく率直な人物のようだと評しました。その一方で虞翻を受け入れられなかった孫権についても度量が広いとはいえないと批判しています。

正史の虞翻はただの毒舌家ではありません。行政、軍事判断、説得、医術、易学に通じ、それでも自分の言葉の鋭さによって追放された非常に複雑な人物だったのです。

『三国志演義』の虞翻―諸葛亮に論破される呉の文官

王朗を諫め華佗を孫策へ紹介する

『三国志演義』では会稽太守の王朗が厳白虎を助けようとすると虞翻は「厳白虎を捕らえて孫策へ差し出すべきだ」と進言します。王朗は怒って虞翻を退け孫策と戦って敗れました。

この場面は正史をそのまま再現したものではありません。正史の虞翻は王朗に孫策との戦いを避けるよう勧めていますが厳白虎を捕らえて差し出せとは述べていません。

その後、演義の虞翻は孫策から賢人として迎えられ重傷を負った周泰を治療するため名医の華佗を紹介します。しかし虞翻が華佗を孫策へ紹介し華佗が周泰を治療したという話は正史の虞翻伝には見えません。演義が虞翻の医術に関する記録を膨らませ物語へ組み込んだ可能性があります。

第十五回の虞翻は、王朗よりも早く孫策の勢いを見抜き、人材と医者を結びつける有能な文官として描かれています。

華歆を降伏させる

孫策が廬江を攻略した後、虞翻に檄文を持たせて豫章へ走らせ太守の華歆を降伏させたと簡潔に語られます。

これは裴松之注が引用する『江表伝』や『呉歴』にある華歆説得の逸話を短くまとめたものと考えられます。ただし裴松之自身は当時の孫策の勢いを見れば、華歆は虞翻の説得がなくても情勢を判断して降伏した可能性があると論じています。

諸葛亮との舌戦に敗れる

演義で最も有名な虞翻の「舌戦群儒」です。

虞翻は諸葛亮に対し曹操には百万の兵と千人の将がいるがどう考えるのかと問いかけます。諸葛亮が「烏合の衆であり、数百万いても恐れるに足りない」と答えると虞翻は劉備軍は当陽で敗れ夏口まで逃げながら何を大言しているのかと冷笑しました。

すると諸葛亮は劉備は少数の仁義の軍で大軍と戦ったのだから退却も当然だが精兵と長江の要害を持つ江東が主君を曹操へ屈服させようとしている方が恥ではないかと反論します。虞翻は答えられなくなりました。この「虞翻が諸葛亮に論破された」という場面は正史にはありません。また正史にも裴注にも虞翻が赤壁の戦いを前に曹操への降伏を主張したという記録は確認できません。むしろ裴注では虞翻は曹操からの招聘を激しい言葉で拒んでいます。

演義の虞翻は諸葛亮の知略と弁舌を際立たせるための相手役へと変えられたのです。

傅士仁を説得して降伏させる

呂蒙が荊州を奪った後、虞翻が「幼い頃から傅士仁と親しかった」と名乗り五百の兵を率いて公安へ向かいます。城門を閉ざされたため降伏を勧める手紙を矢に結んで城内へ射込み傅士仁を説得しました。

虞翻が士仁を説得したこと自体は裴注引『呉書』にも見える話です。しかし幼少時から親しかったこと虞翻が五百人を率いたこと手紙を矢に結んで射込んだことは正史と裴注には記されていません。

この場面では諸葛亮に黙らされた第四十三回とは異なり虞翻の弁舌が実際に城を開かせています。それでも演義は孫権と何度も衝突した直臣としての姿や交州で学問を教え続けた晩年をほとんど描きません。

その結果、演義の虞翻は「諸葛亮に論破された呉の文官」という印象が強くなり正史に残る複雑で強烈な人物像は薄くなっています。

表で比較する虞翻の正史と演義の違い

比較項目正史本文・裴松之注『三国志演義』
王朗への進言孫策との正面衝突を避けるよう勧める。王朗が敗れると追って護衛する厳白虎を捕らえ、孫策へ差し出すよう勧める
孫策との関係友人の礼で遇される。危険な単独行動を諫め、裴注では槍を持って護衛する孫策に賢人として迎えられ、華佗を紹介する
華歆の降伏裴注に説得の詳しい逸話がある。ただし裴松之は、説得の決定性に疑問を示す虞翻が檄文を届け、華歆が降伏したと簡潔に描く
曹操への態度招聘を拒否。裴注では曹操を盗賊になぞらえる赤壁前の舌戦で、諸葛亮から曹操への屈服を望む側として批判される
諸葛亮との舌戦そのような記録はない曹操軍を恐れないという諸葛亮を批判するが、反論されて沈黙する
荊州攻略城内の伏計を警戒し、士仁の説得にも関わる。軍事判断の鋭さを示す傅士仁の旧友として、手紙を矢で送り降伏させる
于禁・麋芳への態度主君を裏切った降伏者として激しく侮辱するほとんど描かれない
孫権との関係何度も直言し、宴席で殺されかけ、最後は交州へ追放される対立や追放はほとんど描かれない
学問『易』を研究し、『老子』『論語』『国語』に注を施す。追放先でも数百人に教える学者としての活動はほとんど描かれない
最期交州で十余年を過ごし、七十歳で死去。裴注では孫権が呼び戻そうとした時にはすでに亡くなっていた晩年と死は描かれない

目立たぬ呉の文官―虞翻は本当に学問が好きだったのではないか

ここからは史料に基づく事実を踏まえた筆者個人の感想です。

正直に言えば虞翻は三国志の中で目立つ人物ではありません。周瑜のように赤壁で大軍を破ったわけでも陸遜のように夷陵で蜀軍を焼き払ったわけでもありません。『三国志演義』では諸葛亮に言い負かされる文官の一人として覚えられがちです。

けれども正史を読むと虞翻は決して「口だけの文官」ではありませんでした。孫策の危険な行動を止めようとし孫策の死後には地域の混乱を防ぎ呂蒙の荊州攻略では城内の伏計を見抜きました。主君の機嫌を取るより自分が正しいと思うことを口にする人だったのでしょう。

もちろんその率直さをすべて美徳として称えることはできません。于禁や麋芳への言葉はあまりにも激しく現代の感覚なら同じ職場にいれば付き合うのが難しい人物だったと思います。正論であっても伝え方を誤れば相手を傷つけ、自分の居場所まで失ってしまう。虞翻の人生にはその苦さがつきまといます。

それでも私が虞翻に強く惹かれるのは彼が最後まで学問を手放さなかったからです。

虞翻が「学問そのものを心から好きだった」と史書にそのまま書かれているわけではありません。したがって、ここからは私の推測です。しかし若い頃から学問を好み、『易』を研究して孔融から評価され軍旅の中でも経書を学び、追放先でも数百人の門弟に教え『老子』『論語』『国語』の注釈まで残した人物です。これほど長く学び続けた人を見れば、私はやはり、虞翻は出世のためだけではなく知ること自体が好きだったのではないかと思ってしまいます。

中央から遠く離れた交州で孫権に許される保証もないままそれでも書物を開き、若者たちへ教え続ける。その姿を想像すると少し胸が熱くなります。権力から遠ざけられても学んできた知識までは誰にも奪えなかったのでしょう。

そして孫権が遼東政策の失敗を悔やみ「虞翻がいれば止めただろう」と思い出した時には、もう本人は亡くなっていました。この結末には、どうしてもやるせなさを感じます。虞翻がもう少し柔らかな言葉を選べていれば。孫権がもう少し直言を受け入れられていれば。二人の関係は違ったものになったのかもしれません。もちろん、それは史料では確かめられない想像です。

虞翻は英雄たちの陰に隠れた目立たぬ呉の文官です。しかしその生涯をたどると、行政官、説客、軍事参謀、医術の心得を持つ人物、そして何より学者という、多くの顔が見えてきます。

諸葛亮に言い負かされた一場面だけで、虞翻を知ったつもりになるのは惜しい。正論によって主君と衝突し、ついには故郷から遠く追放されても、最後まで学ぶことをやめなかった。その不器用で孤独な姿こそ、正史が伝える虞翻の最大の魅力ではないでしょうか。

参考資料・出典

  • 陳寿『三国志』巻五十七「呉書・虞翻伝」および裴松之注、『三国志』巻五十四「呉書・呂蒙伝」および裴松之注
  • 羅貫中『三国志演義』
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