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【三国志】楽進とは?小柄な体で先陣を駆け続けた曹操軍の猛将

目次

楽進の概要

楽進(がくしん)、字は文謙(ぶんけん)。後漢末期の曹操に仕え張遼・于禁・張郃・徐晃とともに陳寿『三国志』巻十七へ伝を立てられた武将です。

楽進について正史が最初に伝えるのは「容貌短小、以膽烈從太祖」という印象的な一文です。姿は小柄でしたが激しい胆力をもって曹操に従ったという意味です。正確な身長や顔立ちは不明であり「短小」から必要以上に特異な容姿を想像することはできません。しかし小柄な男が敵陣の最前線へ飛び込み続けたことは楽進という武将を象徴しています。

曹操配下の属吏から出発した楽進は故郷で千人余りを募兵し呂布・袁術・劉備・袁紹・袁譚・袁尚・高幹・関羽・孫権勢力との戦いを経験しました。正史には敵陣や城へ真っ先に突入する「先登」の功績が繰り返し記録されています。官渡では袁紹軍の淳于瓊、黎陽では袁譚・袁尚軍の大将・厳敬を斬ったとも記されました。

ところが陳寿は巻末で楽進が「驍果」すなわち勇猛果敢さによって名を知られながら残る事績だけでは当時の評判に十分見合わないと評しています。これは楽進を過大評価と断じた言葉ではありません。楽進と張郃の記録には欠落があり張遼や徐晃ほど詳しく伝わらなかったのだろう、という史料不足への留保です。

一方『三国志演義』では正史にない一騎討ちや孫権への突撃が加えられました。しかし不思議なことに正史が楽進の功績とする淳于瓊討ち取りは描かれていません。

正史における楽進

小柄ながら胆力に満ちた曹操の古参

陳寿『三国志』によれば楽進は陽平郡衛国県の出身です。曹操に仕えた正確な年は不明ですが初めは「帳下吏」となりました。その後、故郷へ戻って兵を集めるよう命じられ千人余りを募って帰還。軍仮司馬・陥陣都尉に任命されています。

楽進は名門の出身や有力者の配下を率いて曹操へ加わったとは記されていません。曹操の身近な属吏から始まり自ら集めた兵と戦功によって将軍へ昇っていった人物です。

その前半生を特徴づける言葉が「先登」でした。

楽進は濮陽で呂布、雍丘で張超、苦県で袁術軍の橋蕤を攻め、いずれも先登の功績を挙げたと記録されています。ここでいう先登とは攻城戦や敵陣への攻撃で他の兵に先んじて突入することです。単に勇ましく声を上げたのではなく最も危険な場所へ自ら踏み込んだということでしょう。

その後も張繡を安衆で攻め下邳では呂布を包囲しその別働隊を破りました。さらに射犬で眭固を攻め、小沛では劉備を破ったとされています。

個々の戦闘経過、楽進が率いた兵数、受けた損害はほとんど記されていません。それでも、同じ人物に「先登」の二文字が何度も与えられていることから楽進が曹操軍の突破役として認められていたことは確かです。

官渡で淳于瓊、黎陽で厳敬を斬る

建安五年(200年)の官渡の戦いで楽進は奮戦し袁紹軍の将・淳于瓊を斬ったと楽進伝に記されています。

淳于瓊は袁紹軍の兵糧が集められた烏巣を守っていた将軍です。曹操による烏巣襲撃は官渡の勝敗を決定づけたためその守将を斬ったという記録が事実なら楽進にとって極めて大きな戦功でした。

しかしここには史料上の注意が必要です。

裴松之が武帝紀に引用した『曹瞞伝』では、淳于瓊は鼻を削がれながら生きたまま捕らえられ、曹操はいったん助命しようとしました。しかし許攸の進言を受け後から殺されたと記されています。一方、楽進伝は簡潔に「斬紹將淳于瓊」と記しています。

したがって楽進伝が淳于瓊撃破の功績を楽進に帰していることは確認できますが楽進本人が一騎討ちで淳于瓊へとどめを刺したとまでは断定できません。淳于瓊の最期についても本文と裴松之注所引の史料は一致していません。

官渡の後、楽進は黎陽で袁譚・袁尚軍と戦いその大将・厳敬を斬りました。これによって游撃将軍を代行しています。厳敬の詳しい経歴やどのような状況で討たれたのかは不明です。しかし敵軍の「大将」を討ちその直後に昇進した以上、曹操軍が楽進の明確な戦果として認定したと考えられます。

さらに楽進は黄巾の残党を破って楽安郡を平定し鄴攻略に参加。南皮で袁譚を攻めた際には再び先登して東門へ突入しました。正史の楽進は野戦でも攻城戦でも軍の先頭に立ち続けています。

突撃だけではない―曹操が評価した指揮能力

楽進というと敵陣へ飛び込むだけの猛将を想像しがちです。しかし曹操の評価はそれだけではありません。

建安十一年(206年)、曹操は楽進・于禁・張遼の昇進を求め、漢の皇帝へ上奏しました。その中で三人は武力だけでなく計略も周到で忠実に節義を守り堅固な敵陣を攻め落とすと称賛されています。

さらに別働隊を任せれば軍を統率し兵をよくまとめ、命令に違反せず敵を前にした判断にも失敗がないと評価されました。これは昇進のための公式文書であり美辞を含む可能性はあります。それでも曹操が楽進を単なる突撃要員ではなく独立した部隊を任せられる指揮官と見ていたことは読み取れます。楽進はこの上奏によって折衝将軍となりました。

その後、高幹を討つため北道から上党へ入り敵の背後へ回り込みます。管承討伐では李典とともに敵を破り海岸地域を平定しました。勇気だけでなく別働隊を率いて作戦を遂行する能力がなければ任せられない役目です。

関羽を退けた楽進

荊州平定後、楽進は襄陽に駐屯しました。楽進伝には関羽・蘇非らを攻撃しいずれも敗走させたとあります。文聘伝にも楽進と文聘が尋口で関羽を討ち、功績を挙げたとの記録があります。

また劉備伝では楽進が青泥で関羽と対峙していることを理由に劉備が劉璋へ援軍と物資を求めました。劉備は関羽を救わなければ楽進が大勝して益州方面へ侵入する、と訴えています。

ただしこの劉備の言葉は劉璋から兵力を引き出すための説明でもあります。「楽進が必ず大勝する」という部分をそのまま実際の戦果とは見なせません。また楽進と関羽が一騎討ちをした記録もありません。

確実にいえるのは楽進が荊州方面で関羽軍と交戦し少なくとも一度は関羽側を後退させたことです。『演義』では目立ちにくいものの正史の楽進を語るうえでは重要な戦功でしょう。

張遼・李典との不和と合肥の守備

楽進は勇猛でしたが同僚との関係は必ずしも良好ではありませんでした。

趙儼伝によれば于禁・楽進・張遼が別々の地に駐屯していた頃、諸将は気性が強く互いに協調できないことが多かったため曹操は趙儼に三軍をまとめさせました。趙儼の説得によって、ようやく親しく協力するようになったと記されています。

李典伝にも合肥に駐屯していた楽進・李典・張遼の三人は、以前から不仲だったと明記されています。ただし不和の具体的な原因や楽進が誰と何をめぐって対立したのかは不明です。

建安二十年(215年)、孫権が十万と称する大軍で合肥を包囲すると曹操の密命が開かれました。その内容は張遼と李典が出撃し楽進は護軍を守って戦わないというものでした。したがって正史の楽進は合肥防衛軍の一人ですが張遼が八百人を率いた有名な突撃には参加していません。常に先登してきた楽進が、なぜこの時は守備を命じられたのかは不明です。

最期と陳寿の評価

楽進は右将軍まで昇進し、建安二十三年(218年)に亡くなりました。死因、死亡場所、没年齢は不明です。死後には「威侯」と諡されました。

正始四年(243年)には張遼・張郃・徐晃・李典・龐徳・典韋らとともに曹操の廟庭へ祀られています。魏王朝が楽進を、創業を支えた重要な功臣として扱っていたことが分かります。

しかし陳寿は巻末で次のように評しました。

「張郃以巧変為称、楽進以驍果顕名。而鑑其行事、未副所聞。或注記有遺漏、未如張遼、徐晃之備詳也」

張郃は巧みな変化への対応で称賛され楽進は勇猛果敢さで名を知られた。しかし残された事績を調べると聞いていた評判に十分見合わない。おそらく記録に欠落があり、張遼・徐晃ほど詳しく残らなかったのだろう、という意味です。

これは「実力が評判倒れだった」と断定した評価ではありません。陳寿は楽進の名声が当時広く知られていたことを認めながら、その名声を完全に説明できるだけの資料が残っていないと述べています。

なお確認した裴松之注本では、楽進伝そのものに楽進の逸話を補う注釈はありません。裴松之注まで含めても人物像や死因が増えないこと自体、楽進に関する史料の少なさを示しています。

演義における楽進

曹操挙兵直後から仕える古参へ

『三国志演義』第5回では曹操が義兵を募った際、楽進は李典とともに自ら仕官します。二人は帳前吏として採用されました。

正史でも楽進が帳下吏だったことは確認できますが曹操へ仕えた正確な時期は不明です。『演義』はその空白を埋め、反董卓連合以前から曹操に従う古参武将として登場させました。正史冒頭にある「容貌短小」という説明はこの登場場面では使われていません。楽進が小柄だったという有名な特徴は、『演義』の創作ではなく正史に由来します。

一騎討ちの猛将として描かれる

正史の楽進伝は戦果を簡潔に列挙するため個々の戦闘場面はほとんど分かりません。『演義』はその空白へ武将同士の一騎討ちを加えています。

第11回の濮陽の戦いでは呂布配下の臧覇と三十余合にわたって戦い勝負がつきませんでした。その後、呂布自身が出てくると夏侯惇とともに退いています。この臧覇との一騎討ちは正史では確認できません。

一方、官渡の烏巣襲撃では、正史との逆転が起きます。

正史の楽進伝は楽進が淳于瓊を斬ったと記しています。ところが『演義』第30回では、曹操が率いる烏巣襲撃隊に楽進の名はなく淳于瓊は生け捕りにされます。耳・鼻・指を切られて袁紹の陣へ送り返され、最後は失敗に怒った袁紹によって処刑されました。

↑官渡の戦いについて↑

つまり『演義』は楽進の個人的な武勇を大幅に増やしながら正史に記された最大級の戦功の一つを楽進から外しています。

孫権へ「電光」のように斬り込む

『演義』の楽進が最も鮮烈な姿を見せるのは第53回の対呉戦です。

張遼と太史慈が戦う中、楽進は孫権を見つけるとただ一騎で斜めから突進しました。その速さは「一道の電光」のようだったと表現されています。孫権を守る宋謙と賈華が二本の戟で防ぐと楽進は一刀でその柄をともに断ち切りました。孫権を討ち取ることはできませんでしたが敵軍の最高指導者へ単騎で斬り込む姿は正史の「胆烈」「先登」という人物像を物語らしい場面へ置き換えたものといえるでしょう。この突撃そのものは正史では確認できません。

第67回の逍遥津では楽進は敵が多く味方が少ないため守備すべきだと主張します。その後は張遼の策に従い甘寧と数合戦って偽装退却し孫権軍を伏兵の中へ誘い込みました。正史では、出撃したのは張遼と李典であり、楽進は曹操の命令によって守備を担当します。『演義』は楽進を守備だけに残さず、誘い出しと追撃に参加させたのです。

凌統と五十合を戦い、甘寧の矢を受ける

第68回では、楽進は凌統と五十合にわたって戦い勝負がつきませんでした。曹休が密かに矢を放って凌統の馬を射ると落馬した凌統を楽進が槍で討とうとします。しかし今度は甘寧が矢を放ち楽進の顔面に命中させました。楽進は馬から落ち両軍がそれぞれの将を救出して戦いは終わります。楽進は治療を受けますがその後に明確な死亡場面は描かれません。

臧覇や凌統と互角に渡り合い孫権へ単騎で迫る。『演義』の楽進は正史の短い戦功一覧を読者の目に見える個人的武勇へ作り替えた人物です。その一方で正史に残る別働隊の統率、関羽を退けた働き、右将軍への昇進、218年の死去は大きく扱われません。『演義』は楽進を弱い武将にはしていませんが曹操軍を長く支えた指揮官という側面より戦場に現れて槍や刀を振るう猛将として描きました。

楽進の正史と演義の比較

比較項目正史・裴松之注の楽進『三国志演義』の楽進
曹操への仕官帳下吏として仕えた。正確な時期は不明曹操挙兵直後、李典とともに自ら仕官
体格「容貌短小」と明記され、小柄だった登場時に小柄との説明はない
基本的な武勇胆力が強く、濮陽・雍丘・苦県・南皮などで先登臧覇・凌統との一騎討ちなど、個人戦を追加
淳于瓊の最期楽進伝は楽進が斬ったとする。ただし裴注所引『曹瞞伝』には捕虜となった後に殺された異説がある曹操軍に捕らえられ、袁紹のもとへ戻された後、袁紹に処刑される。楽進の功績にはならない
厳敬との戦い袁譚・袁尚軍の大将・厳敬を斬り、游撃将軍を代行楽進の代表的な見せ場としては描かれない
関羽との関係関羽・蘇非らを敗走させ、青泥でも関羽と対峙正史の対関羽戦は大きく描かれない
指揮官としての評価別働隊を統率し、軍をまとめ、命令を守り、判断にも失敗がないと曹操が上奏統率力より、一騎討ちや突撃を行う猛将として描写
張遼・李典との関係三人は以前から不和。原因は不明主に李典と張遼の私怨として整理され、楽進は守備を主張する
合肥での役割曹操の命令で守備担当。張遼・李典の八百人突撃には加わらない甘寧への偽装退却や孫権軍への追撃に参加
対孫権戦詳しい個人戦は記録されない孫権へ電光のように突進し、護衛二人の戟を断つ
凌統・甘寧との戦い一騎討ちや負傷の記録はない凌統と五十合戦い、甘寧の矢を顔面に受けて落馬
最期218年に死去。死因は不明。諡は威侯甘寧の矢で負傷した後、明確な死は描かれない
総合的な人物像小柄で勇猛。先登だけでなく別働隊を任された指揮官一騎討ちと単騎突撃で魅せる武勇型の武将

記録が少なくても淳于瓊と厳敬を斬った戦果は十分ではないか

ここからは正史の記述を踏まえた私の考察です。

陳寿は張郃と楽進について当時聞いていた評判に比べて残る行動の記録が十分ではないと述べました。そして、張遼や徐晃ほど詳しくないのは記録に欠落があるためだろうと考えています。

しかし楽進伝を読んでいると私はどうしても思ってしまいます。淳于瓊と厳敬を斬り何度も先登し、関羽を退けた。それだけでも十分すぎるほどの戦果ではないか、と。

特に淳于瓊は官渡における袁紹軍の兵糧を守る立場にありました。烏巣の陥落は袁紹軍崩壊の決定的な要因です。もちろん裴松之注が保存した異説があるため楽進が淳于瓊を一騎討ちで斬ったとは断定できません。それでも楽進伝がその重要な敵将を斬った功績を楽進の名と結びつけたことは軽くありません。

黎陽でも楽進は袁譚・袁尚軍の大将・厳敬を斬り昇進しています。厳敬という人物の詳しい経歴が残らないためその価値を現代から正確に測ることはできません。しかし敵の大将を討ち官位に反映される戦功を挙げたという骨格は明瞭です。、、、ではなぜ陳寿は「評判に十分見合わない」と感じたのでしょうか。

私には戦果の数が少なかったからではなく戦果へ至る過程が残らなかったからだと思えます。

張遼伝には、合肥で八百人を率いて孫権軍へ突入した様子が詳しく描かれています。徐晃伝にも曹操と交わした言葉や関羽の包囲を破った作戦の経過が残りました。対して楽進伝は、「先登した」「破った」「斬った」という結果が次々と並ぶだけです。どのように兵を励まし、何人を率い、どの瞬間に決断し、どのように敵将へ迫ったのか。その場面がほとんど見えません。

つまり不足しているのは功績そのものより楽進の名声を生んだ具体的な物語だったのではないでしょうか。これは史料からわかる結論ではなく陳寿の評と伝記の書き方を比べた筆者の解釈です。

それでも正史の冒頭にある「容貌短小、以膽烈從太祖」という言葉は短いからこそ胸に残ります。

大柄な豪傑だったとは書かれていません。名門の後ろ盾があったとも雄弁な言葉で曹操を動かしたとも記されていません。小柄な体で千人余りを集め戦いが始まれば誰よりも先に城壁や敵陣へ向かう。その積み重ねだけで属吏だった男は右将軍にまで上りました。

楽進は自分の言葉をほとんど歴史に残していません。喜びも恐怖も何を思って先頭へ飛び込んだのかも分かりません。だからこそ、何度も記された「先登」が彼に代わって語っているように感じます。

体が小さいことと勇気が小さいことはまったく別です。むしろ小柄だったからこそ巨大な敵陣へ突入する姿は当時の兵士たちの目に強く焼きついたのではないでしょうか。その姿を見た者たちが楽進の「驍果」を語り継いでも記録する者が戦場の細部を書き残さなければ名声だけが後世へ届くことになります。

陳寿が耳にした楽進の評判は現存する文章よりさらに大きなものだったのでしょう。私には「記録が評判に追いつかない」という評価が楽進への疑いというより失われた戦功への惜しさに聞こえます。淳于瓊と厳敬を斬り、関羽を退け、幾度も先登した。それでもなお陳寿が資料不足を感じたのなら楽進は私たちが読める数行よりはるかに激しい戦場を駆け抜けたのかもしれません。

小柄な体で誰よりも前へ進み続けた男

詳しい言葉も最期の様子も残らないからこそその背中を想像すると胸が熱くなります。楽進は記録の少なさによって評価を下げるべき武将ではありません。むしろ記録が失われてもなお、「勇猛果敢で名を知られた」という評判だけは消えなかった。その事実こそ彼がどれほど強烈な武将だったかを物語っているように思います。

参考資料・出典

  • 陳寿『三国志』魏書巻十七「張楽于張徐伝」楽進伝・張遼伝・巻末評(裴松之注を含む)、魏書巻一「武帝紀」裴松之注所引『曹瞞伝』、魏書巻十八「李典伝」「文聘伝」、魏書巻二十三「趙儼伝」、蜀書巻二「先主伝」、魏書巻四「三少帝紀」(裴松之注を含む)
  • 羅貫中『三国志演義』第5回・第11回・第30回・第53回・第67回・第68回
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