【三国志】司馬懿とは?正史に単独伝がない「最後まで耐えた知将」

目次

司馬懿の概要

三国志を代表する軍師と聞けば、蜀の諸葛亮と魏の司馬懿を思い浮かべる人は多いでしょう。

何度も北伐を行う諸葛亮。それを防ぎ続ける司馬懿。『三国志演義』では空城の計に驚いて退却し、上方谷では火攻めに追い詰められ、最後には死んだ諸葛亮の木像にまで恐れをなす――。完全に諸葛亮の好敵手であり、物語後半のラスボスのような人物です。

しかし、陳寿の正史『三国志』を読むと、かなり違った姿が見えてきます。

司馬懿、字は仲達。後漢末から曹魏に仕え、曹操・曹丕・曹叡・曹芳の時代を生きた軍人・政治家です。孟達の反乱を短期間で鎮圧し、諸葛亮の北伐を防ぎ、遠く遼東まで遠征して公孫淵を滅ぼしました。晩年には高平陵の変を起こして曹爽一派を排除し、曹魏の実権を司馬氏へ移しています。

司馬懿自身は皇帝になりませんでしたが、息子の司馬師・司馬昭へ権力が受け継がれ、やがて孫の司馬炎が西晋を建国しました。そのため司馬懿は後世に「晋宣帝」と追尊されています。

ところが意外なことに、陳寿『三国志』には独立した「司馬懿伝」がありません。司馬懿の事績は、明帝紀・三少帝紀・曹爽伝・張郃伝・諸葛亮伝・公孫淵伝・王凌伝など、複数の巻に分散しています。

つまり正史の司馬懿を知るには、他人の伝を渡り歩き、断片を一つずつ拾い集めなければならないのです。

正史の司馬懿

司馬懿の家系は司馬朗伝から分かる

独立した司馬懿伝はありませんが、その家系については「司馬朗伝」の裴松之注から確認できます。

司馬朗は河内郡温県の人で、父は司馬防。裴松之注が引用する司馬彪の『序伝』によれば、司馬防には八人の息子がおり、長男が司馬朗、次男が後に「晋宣帝」と追尊された司馬懿でした。

つまり司馬懿本人の伝ではなく、兄の伝に付けられた注釈から家族関係を確認することになります。初っ端からすでに「他人の記録の中に現れる司馬懿」なのです。

関羽を倒すため孫権を利用する

司馬懿が陳寿本文で大きな働きを見せるのは、建安二十四年(219年)の樊城攻防戦です。

関羽が于禁の七軍を破り、龐徳を斬ったことで「威震華夏」と呼ばれるほどの勢いを見せると、曹操は許都からの遷都まで考えました。しかし司馬懿と蔣済はこれに反対します。

二人は、関羽が勢力を伸ばすことを孫権も望んでいないと見抜きました。そこで孫権に関羽の背後を攻撃させ、その代わりに江南の領有を認めるという策を提案します。曹操はこの意見を採用し、やがて孫権軍が荊州を攻撃。関羽は敗死しました。

司馬懿自身が関羽と戦ったわけではありません。それでも呉と蜀の対立を利用し、魏軍が正面から関羽の猛攻を受け続ける状況を変えています。敵を直接倒すより、敵の敵を動かす。後の司馬懿にも通じる、非常に現実的な戦い方です。

曹丕から後事を託される

黄初七年(226年)、曹丕が病に倒れると、曹真・陳羣・曹休・司馬懿の四人が呼ばれ、後継者である曹叡の補佐を命じられました。

曹丕の時代の司馬懿は、軍事だけでなく後方の軍や官庁文書を統括する地位にも就いていました。前線で派手に敵将を討ち取る猛将ではありませんが、国家運営と軍事の双方を任せられる存在になっていたことが分かります。

曹叡即位後には、襄陽方面へ侵攻した諸葛瑾らを破り、驃騎大将軍へ昇進しました。

孟達を十六日で滅ぼす

太和元年末から二年(227~228年)にかけて、新城太守の孟達が魏に反旗を翻しました。

陳寿本文は、曹叡が司馬懿に討伐を命じ、司馬懿が新城を攻め落として孟達を斬ったと記しています。さらに裴松之注が引用する『魏略』によれば、孟達は十六日間の包囲で敗れ、部下の李輔と甥の鄧賢が城門を開いたとされます。

『演義』では司馬懿が皇帝への報告を待たず、通常の倍の速度で進軍したように描かれます。細部には脚色がありますが、孟達に守備を固める時間を与えず、短期間で鎮圧したという核心部分は正史にもあります。

待つべきときは徹底して待つ。しかし反対に、急ぐべきときは相手が驚くほど速い。司馬懿は何でも慎重に進める人ではなく、「時間の使い分け」が巧みな人物だったのでしょう。

諸葛亮に敗れたという裴松之注の記録

太和五年(231年)、諸葛亮が祁山へ進出すると、曹叡は司馬懿に迎撃を命じました。

陳寿本文はこの戦いを詳しく書いていません。一方、裴松之注が引用する『漢晋春秋』では、司馬懿にとってかなり厳しい経過が伝えられています。

張郃は、蜀軍が遠征軍で兵糧も少ないことから、むやみに追わず別働隊で後方を脅かすべきだと進言しました。しかし司馬懿は聞き入れず、諸葛亮を追跡。追いついた後は陣地を築いて戦おうとしませんでした。そのため配下から「蜀を虎のように恐れている」と嘲笑され、やむなく出戦したところ、魏延・高翔・呉班らに大敗したとされます。

ただし、これは陳寿本文ではなく『漢晋春秋』による異伝です。裴松之注の中に収録されているからといって、陳寿本文と同じ確度で扱うことはできません。それでも「司馬懿は諸葛亮に一度も負けなかった」という見方も、正確ではないことが分かります。

張郃の死に司馬懿は関係していたのか

諸葛亮軍が撤退すると、魏の名将・張郃が追撃して木門で戦死しました。

陳寿本文は、張郃が蜀軍を追って矢を右膝に受けて死んだと記すだけです。しかし裴松之注所引『魏略』では、司馬懿が張郃に追撃を命じたとされます。

張郃は「帰る軍を追ってはならない」と反対しましたが、司馬懿は聞き入れませんでした。張郃はやむを得ず進み、蜀軍の伏兵から一斉射撃を受けたというのです。

これが事実なら、司馬懿は張郃の戦死に大きな責任を負います。ただし、ここも裴松之注に収録された『魏略』の説明であり、陳寿本文が直接そう断定しているわけではありません。

五丈原では諸葛亮と戦わずに勝つ

青龍二年(234年)、諸葛亮は大軍を率いて五丈原へ進出しました。

魏明帝は司馬懿に対し、陣地を固く守って蜀軍の勢いをくじき、兵糧が尽きるのを待つよう命じました。司馬懿は挑戦を受けても出撃せず、百日以上にわたって対陣を続けます。

裴松之注所引『魏氏春秋』によれば、諸葛亮は女性用の衣服を送り、戦わない司馬懿を挑発しました。司馬懿は怒りに任せて動くのではなく、使者に諸葛亮の食事量や仕事量を質問します。諸葛亮が食事も少なく、細かな処罰まで自分で確認していると知ると、身体が長く持たないと予測しました。

やがて諸葛亮は陣中で病没し、蜀軍は撤退します。司馬懿が諸葛亮を討ち取ったわけではありませんが、決戦を避けて遠征軍の時間切れを待つという目的は達成しました。

司馬懿は蜀軍の陣地を調べ、「天下の奇才である」と諸葛亮を称賛しています。敵の死を喜ぶだけでなく、その陣営を見て力量を認めたところには、名将同士ならではの重みがあります。

裴松之注所引『漢晋春秋』では、司馬懿が蜀軍を追った際、姜維らが旗を返して鼓を鳴らすと退却したとされます。これにより「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」という諺が生まれました。司馬懿は「生きている者は推し量れても、死者は苦手だ」と答えたといいます。

正史系統の記録に「死せる諸葛が生ける仲達を走らせた」という話はあります。しかし、ここに諸葛亮の木像は登場しません。木像を見て司馬懿が恐慌状態になる展開は、『演義』による視覚的な脚色です。

遼東遠征で公孫淵を滅ぼす

景初二年(238年)、司馬懿は四万人を率いて遼東の公孫淵を討ちました。

公孫淵軍は長大な塹壕を築いて迎撃します。司馬懿はその陣地を攻め続けると見せかけ、軍を東南へ動かした後、一気に東北へ転じて本拠地の襄平へ向かいました。敵軍が慌てて戻るとこれを破り、襄平を包囲します。

長雨が三十日以上続いても撤退せず、雨が上がると土山や櫓を築き、投石器や連弩で攻撃。城内では食糧が尽き、人が人を食べるほど追い詰められました。公孫淵父子は脱出を図りましたが、追撃を受けて斬られます。

魏明帝は遠征前から司馬懿を信頼し、「司馬懿は危機に臨んで状況を変化させられる。公孫淵を捕らえる日は計算できる」と評価していました。

諸葛亮との対戦ばかりが注目されますが、司馬懿の軍事的な大功としては、孟達鎮圧と遼東平定を外せません。特に遼東では、遠距離遠征・兵站・野戦・攻城戦をすべてまとめ上げています。

曹叡から幼帝を託される

景初三年(239年)、病床の曹叡は司馬懿を呼び戻し、その手を取って「曹爽とともに幼い曹芳を補佐せよ」と命じました。

司馬懿は曹丕に続き、曹叡からも後継者を託されたことになります。少なくともこの時点の公式記録では、司馬懿は魏王朝を支える最高位の重臣です。

曹芳が即位すると、司馬懿は太傅へ昇進しました。その詔では、孟達を南で捕らえ、蜀軍を西で破り、公孫淵を東で滅ぼした功績が称賛されています。

曹爽を欺いた仮病

やがて共同補佐役の曹爽が権力を独占し、司馬懿は政治の中心から遠ざけられました。陳寿本文は、司馬懿が病気を称して曹爽を避けたと記しています。

ここからは裴松之注所引『魏末伝』の話です。

曹爽の側近・李勝が病状を探りに来ると、司馬懿は二人の侍女に身体を支えさせ、粥を口から胸へこぼし、荊州と并州を聞き違えました。そして、自分はもうすぐ死ぬので息子たちを頼むと泣いてみせます。

李勝は完全に信じ込み、曹爽へ「太傅は回復しないだろう」と報告しました。しかし李勝が帰ると司馬懿はすぐに起き上がります。

この仮病は『演義』の創作と思われがちですが、細かな演技まで裴松之注に収録されています。司馬懿の「忍耐」と「演技力」を象徴する逸話は、すでに正史の注釈部分に存在したのです。

高平陵の変と破られた誓い

嘉平元年(249年)、曹爽兄弟が皇帝曹芳とともに高平陵へ出かけると、司馬懿は兵を動かして武器庫と洛水の浮橋を押さえました。皇太后の命令を利用し、曹爽兄弟の兵権を取り上げます。これが高平陵の変です。

曹爽には皇帝を連れて許昌へ向かい、地方軍を集めて抵抗する選択肢もありました。しかし曹爽は決断できませんでした。

裴松之注所引『世語』によれば、司馬懿側は「免官にするだけだ」と伝え、洛水に誓いました。曹爽はそれを信じて兵権を手放し、「富裕な家の主人として暮らせればよい」と考えたとされます。

しかし曹爽・何晏・丁謐・鄧颺らは謀反を計画した罪で処刑され、三族を皆殺しにされました。陳寿本文では曹爽一派の陰謀が処刑理由として記録されています。一方で裴松之注は、司馬懿側が「免官だけ」と誓って降伏させた経緯も残しています。

曹爽一派に本当にどこまで具体的な簒奪計画があったのかは、この記録だけでは断定できません。確かなのは、高平陵の変を境に曹魏の実権が司馬氏へ移ったことです。

政治的には大勝利。しかし信義という点では、どうしても暗い影が残ります。司馬懿は負ければ一族が滅びかねない勝負で、約束の美しさより勝利を選んだのでしょう。

王凌を急襲し、その年に死去

嘉平三年(251年)、太尉の王凌が曹芳を廃し、楚王曹彪を擁立しようとしているとの情報が司馬懿へ伝わりました。

司馬懿は王凌を赦免すると先に宣言しながら、水軍を率いて急速に接近します。王凌は抵抗できずに降伏し、洛陽へ送られる途中で毒を飲んで自殺しました。

裴松之注所引『魏略』では、王凌が「お前は私を裏切った」と訴えると、司馬懿が「私はあなたを裏切っても、国家は裏切らない」と答えたとされます。これも史実と確定した会話ではなく、『魏略』が伝える逸話です。それでも司馬懿の冷徹な国家観を象徴する言葉として残りました。

同年、司馬懿は死去します。その後は長男の司馬師が実権を受け継ぎました。

『三国志演義』の司馬懿

本格的な登場は関羽対策

『三国志演義』で司馬懿が本格的に意見を述べるのは、第七十五回です。

関羽の勢いを恐れた曹操が遷都を考えると、司馬懿は孫権に関羽の背後を攻撃させるよう提案します。この場面は陳寿本文の関羽伝をほぼ踏まえたものです。

物語前半の司馬懿はまだ目立ちません。しかし関羽が倒れ、曹操・劉備・曹丕らが相次いで世を去ると、一気に存在感を増していきます。

架空の五路侵攻作戦

第八十五回では、劉備の死を知った曹丕に対し、司馬懿が蜀を五方向から攻撃する策を提案します。

鮮卑の軻比能、南蛮王孟獲、呉の孫権、上庸の孟達、魏の曹真をそれぞれ動かし、合計五十万の大軍で蜀を攻めるという壮大な作戦です。しかし諸葛亮は外交と配置だけで五路を退けました。

これは陳寿本文にはない『演義』独自の物語です。司馬懿に巨大な作戦を立てさせ、それを諸葛亮が戦わずに解決することで、諸葛亮の知謀を強調しています。

「鷹視狼顧」の危険人物にされる

第九十一回では、司馬懿が雍州・涼州の兵権を握ると、諸葛亮と馬謖が偽の反乱告示を流すという話が描かれます。

魏の華歆は、かつて曹操が司馬懿を「鷹のように見て、狼のように振り返る人物」と評し、兵権を与えてはならないと警戒していたと発言します。曹叡は疑いを抱き、司馬懿を罷免しました。

この反間の計と罷免は、『演義』による筋立てです。少なくとも陳寿本文と今回確認した裴松之注には、曹操が司馬懿を「鷹視狼顧」と評した記述はありません。

『演義』では早い段階から「いつか魏を奪うかもしれない危険人物」という伏線を置いているのです。

孟達討伐で諸葛亮も恐れる名将へ

第九十四回、曹真が諸葛亮に苦戦すると、鍾繇の推薦によって司馬懿が復帰します。諸葛亮は「自分が恐れるのは司馬懿ただ一人だ」と驚きました。

孟達の反乱を知った司馬懿は、曹叡への報告を待たず、通常の二日分を一日で進む強行軍を開始します。孟達が想定した一か月よりはるかに早く新城へ到着し、反乱を鎮圧しました。

この電撃的な進軍は、正史にある短期鎮圧を大きく膨らませたものです。ただし『演義』では徐晃が孟達の矢を額に受けて死にますが、陳寿の徐晃伝では病死しており、ここは明確に異なります。

街亭では張郃の功績まで司馬懿のものになる

第九十五回では、司馬懿が街亭の重要性を見抜き、山上に布陣した馬謖の水路を断ちます。張郃を王平への押さえに回しながら馬謖を包囲し、蜀軍の第一次北伐を失敗させました。

ところが陳寿本文では、街亭で馬謖を破ったのは張郃です。この時期の司馬懿は荊州方面におり、街亭攻略の中心人物ではありません。

『演義』は司馬懿を諸葛亮の宿敵にするため、張郃と曹真の功績を司馬懿へ集約したのです。これによって北伐は「諸葛亮対司馬懿」という分かりやすい天才同士の戦いになります。

空城の計で諸葛亮に敗れる

同じ第九十五回には、あまりにも有名な空城の計が登場します。

西城にわずかな兵しか残っていない諸葛亮は、城門を開き、兵士を住民に変装させ、自ら城楼で琴を弾きました。十五万の兵を率いて到着した司馬懿は、慎重な諸葛亮が理由もなく危険を冒すはずがないと考え、伏兵を疑って退却します。

司馬昭が「本当は兵がいないのでは」と指摘しても、司馬懿は聞き入れませんでした。

この空城の計は、陳寿本文にも裴松之注にもありません。完全に『演義』の物語です。

ただし、司馬懿を単なる愚将として描いているわけではありません。「諸葛亮は慎重な人物である」という正しい知識を持っていたからこそ、その知識を逆手に取られました。司馬懿が賢くなければ成立しない計略なのです。

上方谷の雨と女性の衣服

第一〇三回では、諸葛亮が上方谷へ司馬懿とその息子たちを誘い込み、火を放ちます。司馬懿父子は死を覚悟しますが、突然の大雨によって炎が消え、脱出に成功しました。諸葛亮は「事を謀るは人にあり、事を成すは天にあり」と嘆きます。

これは『演義』独自の有名場面です。正史系統の記録に、司馬懿父子が上方谷で焼死寸前になった話はありません。

その後、諸葛亮が女性用の衣服を送って司馬懿を挑発する場面は、裴松之注所引『魏氏春秋』に原型があります。司馬懿が使者から諸葛亮の食事と仕事量を聞き、長く生きられないと見抜く部分も同様です。

つまり上方谷は創作ですが、女性の衣服と寿命の予測は、正史の注釈を利用した脚色なのです。

木像を見て逃げる「生ける仲達」

第一〇四回、諸葛亮が死ぬと蜀軍は撤退を開始します。追撃した司馬懿の前に、諸葛亮そっくりの木像が現れました。司馬懿は諸葛亮がまだ生きていると思い込み、「自分の首は付いているか」と確認するほど混乱して逃げます。

後に木像だったと知り、「生きている諸葛亮は予測できても、死後までは予測できない」と嘆きました。

裴松之注所引『漢晋春秋』にも、蜀軍が旗を返して鼓を鳴らすと司馬懿が退いた話と、「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」という諺はあります。しかし木像はありません。

『演義』は短い異伝を、読者が一度見たら忘れられない名場面へ作り替えたのです。

仮病と高平陵の変は裴松之注を大きく利用

第一〇六回では、司馬懿が李勝の前で重病人を演じます。粥を胸にこぼし、荊州を并州と聞き違え、死の間際であるように見せました。これは裴松之注所引『魏末伝』をかなり忠実に利用しています。

第一〇七回の高平陵の変も、陳寿本文と裴松之注の記録を多く取り入れています。洛水に誓って曹爽を降伏させた後、曹爽一派を処刑する流れまで描かれました。

ただし『演義』では、夏侯覇らの口を通して司馬懿を「老賊」「簒奪を狙う者」と強く非難します。正史にある政争を、曹氏から司馬氏へ天下が奪われていく物語として明確に意味付けしているのです。

第一〇八回で司馬懿は、自分が魏に長年仕え、人臣として最高位に達したものの、世間から異心を疑われ続けてきたと息子たちに語って死にます。この遺言も『演義』の人物造形であり、陳寿本文は司馬懿の死を簡潔に記すだけです。

正史と『三国志演義』の司馬懿の違い

比較項目正史『三国志』・裴松之注『三国志演義』
人物伝独立した司馬懿伝はなく、複数の紀伝に記録が分散物語後半の中心人物として一貫した人物像を与えられる
基本的な人物像軍事・政治・後方統括を担う曹魏の重臣諸葛亮の宿敵であり、後の簒奪を予感させる奸雄
関羽への対策孫権に関羽の背後を攻撃させる策を曹操へ進言第七十五回でほぼ同じ策を進言
五路侵攻記録なし劉備死後、五十万を五方向から蜀へ送る策を立てる
鷹視狼顧陳寿本文・今回確認した裴注には見えない曹操が将来の危険人物と見抜いていたとされる
孟達討伐短期間で新城を攻略。裴注では包囲十六日強行軍と情報戦を加え、天才的な電撃作戦として描く
街亭の戦い馬謖を破った中心人物は張郃司馬懿が地形と馬謖の弱点を見抜いた総指揮官
231年の諸葛亮戦裴注所引『漢晋春秋』では出戦して敗北複数の戦いを再構成し、諸葛亮との知略戦を強調
空城の計記録なし諸葛亮の琴と開かれた城門を恐れ、十五万の兵を退却させる
上方谷記録なし火攻めで父子ともに死にかけるが、大雨に救われる
女性用の衣服裴注所引『魏氏春秋』に記録あり上方谷の後に配置し、諸葛亮との対決を劇的にする
死せる諸葛裴注では旗と鼓を見て退却。木像はない諸葛亮の木像を本人と誤認して恐慌状態になる
李勝を欺く仮病陳寿本文に称病、裴注所引『魏末伝』に詳細な演技裴注の逸話をほぼそのまま採用
高平陵の変曹爽排除と処刑を記録。裴注には洛水の誓いもある史料を利用しつつ、司馬氏による魏簒奪の始まりとして描く
王凌事件曹彪擁立計画を急襲で鎮圧ほぼ省略され、司馬懿の死へ進む
諸葛亮との関係敗北を伝える異説もあるが、五丈原では持久戦を完遂し、その才能を称賛諸葛亮に何度も翻弄されながらも、最後まで対抗できる唯一の人物

なぜこれほどの人物に「司馬懿伝」がないのか

司馬懿は関羽を倒す外交策に関わり、孟達の反乱を短期間で鎮圧し、諸葛亮の北伐を防ぎ、公孫淵を滅ぼしました。そして最後には曹爽一派を排除し、曹魏の実権を司馬氏へ移しています。

決して常勝無敗ではありません。裴松之注には、諸葛亮軍に敗れた話、張郃の追撃反対を聞かずに戦死させた話、死後の諸葛亮を警戒して退却した話も残っています。高平陵の変では、曹爽を免官だけだと信じさせながら、最終的に三族を処刑したという非常に重い問題もあります。

それでも司馬懿の強さは、派手な勝利だけでは測れません。

関羽には孫権をぶつける。孟達には準備の時間を与えない。諸葛亮には決戦を与えず、兵糧と寿命が尽きるのを待つ。曹爽には自分が死にかけていると思わせ、相手が完全に油断した一日にすべてを賭ける。

司馬懿の最大の武器は、剣でも奇策でもなく、「今は動くべきか、まだ耐えるべきか」を見抜く力だったのではないでしょうか。

そして何より驚かされるのが、これほど三国時代の結末に影響を与えた人物なのに、陳寿『三国志』には独立した司馬懿伝が存在しないことです。なぜ立伝されなかったのかについて、陳寿自身は説明していません。そのため理由を断定することはできません。

正史で司馬懿を追いかけると、関羽伝、明帝紀、張郃伝、諸葛亮伝、公孫淵伝、曹爽伝、王凌伝と、次々に別人の記録へ移動することになります。

しかし、その散らばり方がどこか司馬懿らしいとも感じます。

自分が常に物語の中央へ立つのではなく、関羽が滅びる場面、孟達が討たれる場面、張郃が戦死する場面、諸葛亮が最後の北伐を行う場面、公孫淵・曹爽・王凌が敗れる場面に、司馬懿の影が現れるのです。そして気が付いたときには、曹魏の実権そのものが司馬氏の手へ移っている。

一冊の伝を持たないのに、他人の伝を読み進めるほど存在感が大きくなっていく。こんな人物は三国志でもほとんどいません。

『演義』の司馬懿は諸葛亮に翻弄される場面が目立ちます。それでも、諸葛亮の計略を理解し、その相手役を最後まで務められる人物は司馬懿しかいませんでした。諸葛亮の天才性を示すためには、簡単に倒れる凡将では足りなかったのです。

正史では断片の中から浮かび上がり、『演義』では諸葛亮の最大の好敵手となる司馬懿。華々しく勝ち続けた英雄ではなく、敗北も屈辱も疑いもすべて飲み込み、最後まで盤上から消えなかった男――。独立した伝がないという空白さえ、この人物の不気味な存在感を強めているように思えてなりません。

参考資料・出典

  • 陳寿『三国志』巻二「文帝紀」、巻三「明帝紀」、巻四「三少帝紀」、巻八「公孫度・公孫淵伝」、巻九「曹爽伝」、巻十五「司馬朗伝」、巻十七「張郃伝」、巻二十八「王凌伝」、巻三十五「諸葛亮伝」、巻三十六「関羽伝」、裴松之注
  • 『三国志演義』第七十五回・第八十五回・第九十一回・第九十四回・第九十五回・第一〇三回・第一〇四回・第一〇六回・第一〇七回・第一〇八回
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