3行で結論
- 三国時代の争いを終わらせ280年に中国を統一したのは司馬炎が治める「晋」です。
- 魏・呉・蜀の三国のうち最後まで残った国は「呉」でした。
- 蜀は魏に降伏し魏は司馬氏に皇位を譲りその後、晋が呉を滅ぼしました。
第一章 天下を統一したのは晋
三国志の結末で少し意外なのは魏・呉・蜀のどれも王朝としては天下統一を果たしていないことです。最終的な統一王朝は司馬氏の晋。後世に「西晋」と呼ばれる王朝です。
『三国志』孫皓伝の本文には呉の天紀四年、すなわち280年に晋軍が進撃し王濬が孫皓の降伏を受け入れたことが記されています。呉の皇帝が降伏したことで三国の分立は終わりました。
| Q | A |
|---|---|
| 最後に天下を統一した国は? | 晋 |
| 統一時の晋の皇帝は? | 司馬炎 |
| 魏・呉・蜀のうち、最後まで残った国は? | 呉 |
| 蜀を滅ぼした国は? | 魏 |
| 魏はどうなった? | 司馬氏への禅譲によって王朝が交代した |

第二章 晋が統一するまでの背景
まず263年に蜀が魏へ降伏した
『三国志』後主伝の本文によると263年、魏は鄧艾・鍾会・諸葛緒らを動員し複数の道から蜀へ攻め込みました。鄧艾は綿竹で諸葛瞻を破ります。劉禅は譙周の進言を採用して降伏し各地の守備軍にも命令を送りました。守備軍はその命令を受けて降伏しています。
ここで押さえておきたいのは蜀を滅ぼした時点では、まだ国号は魏だったことです。晋が蜀を滅ぼした。と書くと順序が違ってしまいます。
魏の皇位が司馬炎へ移った
蜀の降伏後、魏では司馬昭が晋王となりその死後、息子の司馬炎が地位を継ぎました。
『三国志』陳留王紀の本文は咸熙二年十二月、魏の皇帝・曹奐が司馬炎に皇位を譲ったと記しています。これが魏から晋への王朝交代です。形式は「禅譲」すなわち皇帝が別の人物へ皇位を譲る手続きでした。ただし、この手続きに至るまでには、司馬氏による権力掌握がありました。その事情は第四章で説明します。
蜀の地を得たことで、呉への攻め方も変わった
晋にとって重要だったのは、旧魏の領域だけでなく、旧蜀の領域も支配していたことです。
呉の将軍・陸抗は、長江上流から敵の船団が下ってくる危険を警告していました。陸抗伝の本文に残る上奏では、西陵・建平の防備が崩れれば、他の地域から救援を送っても間に合わないおそれが示されています。これは、呉にとって長江が防壁になる一方で、上流を敵に押さえられると、侵攻の通路にもなることを示す記録です。
実際に孫皓伝の裴松之注が引用する干宝『晋紀』には王濬が蜀で軍船を建造していたとの記録があります。そして280年、晋軍の侵攻を受けた呉は降伏します。魏から晋への交代と晋による天下統一は、別々の出来事なのです。

第三章 魏・呉・蜀で最後まで残った国は?
三国の中で最後まで残ったのは、孫氏の呉でした。
滅亡・王朝交代の順序を整理すると、次のようになります。
| 順序 | 国 | 終わりの時期 | 最後の皇帝 | 結末 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 蜀 | 263年 | 劉禅 | 魏の鄧艾に降伏 |
| 2 | 魏 | 咸熙二年十二月 | 曹奐 | 司馬炎へ禅譲し、晋へ交代 |
| 3 | 呉 | 280年 | 孫皓 | 晋軍に降伏 |
呉は蜀の滅亡後も約17年間存続しました。しかもその間ずっと敗北を重ねていたわけではありません。
陸抗伝の本文には272年、呉の西陵督・歩闡が晋へ寝返ると、陸抗が西陵を包囲し、晋の救援軍を退けて城を攻略したことが記されています。つまり末期の呉にも晋の軍事行動を阻止できる将軍と軍隊が存在しました。
一方で陸抗自身は呉には同盟国の援助がなく、政治にも問題があり山や川の険しさだけに頼ることはできないと訴えています。最後まで残った事実と天下統一へ近づいていたかどうかは別問題だったのです。

第四章 なぜ魏は晋に負けたのか?
出発点は魏の内部で起きた権力争い
魏の終わりを理解するには「魏と晋が別々の国として戦い、魏が敗れた」と考えるより、魏を動かす権力が曹氏から司馬氏へ移ったと考えるほうが正確です。その大きな転機が249年の高平陵の政変でした。
『三国志』曹爽伝の本文によると曹爽とその兄弟が皇帝に従って高平陵へ出かけた際、司馬懿は兵を動かして武器庫を押さえ曹爽らの罷免を求めました。曹爽には皇帝とともに許昌へ移り、外部の兵を集める案も示されました。しかし結局は権力を手放すことになります。
裴松之注が引用する『世語』には免官だけで済むとの説明を曹爽が信じ兵を解いたという記録があります。ただし、これは本文そのものではなく注釈に収められた別資料の伝える事情です。曹爽らはその後、処刑されました。この政変で司馬懿と対抗していた有力な勢力が排除されたのです。

皇帝が権力を取り戻そうとしても阻まれた
司馬氏の台頭に対し魏の皇帝が何もせず従い続けたわけではありません。
高貴郷公紀の裴松之注が引用する『漢晋春秋』によれば、260年、皇帝・曹髦は自ら兵を率いて司馬昭を討とうとしました。しかし賈充らに迎え撃たれ、成済に殺害されます。
ここから読み取れるのは皇帝という地位を持つことと実際に兵を動かせることがすでに一致しなくなっていたという状況です。これは記録された事件からの解釈です。
曹氏一族の力を制限した制度も弱点になったと考えられる
皇帝を支えるはずの曹氏一族はどれほどの力を持っていたのでしょうか。
陳寿は『三国志』巻二十の末尾で、魏の王公について領国の名目はあっても実質を欠き厳しい制限のもとに置かれていたと批判しています。さらに裴松之注が引用する『袁子』も諸王が老兵百余人を置かれる程度で監視を受け行動を制限されていたと述べています。
これらを踏まえると曹氏の王たちが皇帝の危機に大きな軍事力で駆けつける仕組みは弱かったと考えられます。魏の終わりは一度の合戦だけでは説明できません。政敵の排除、軍事力の掌握、皇帝の抵抗の失敗などが重なり最後に禅譲という形で王朝が交代したと捉えられます。

勝った国だけでは語り尽くせない結末
※ここからは感想です。
三国志の結末を知るとやはり少し寂しくなります。曹操、劉備、孫権。それぞれの勢力のために戦った武将たちを追ってきたのに、最後に天下を統一した王朝の名前は、その三国のどれでもないのです。とりわけ魏の終わりには戦場での強さだけでは国を守り切れない怖さを感じます。蜀を降伏させるほどの軍事力がありながら、曹氏は自分たちの皇位を守れませんでした。外の敵に勝てることと、内側の権力を保てることは、同じではなかったのでしょう。
一方、最後まで残った呉にも心を引かれます。陸抗のように危機を見つめ守るための方策を訴えた人物がいたことを知ると、呉の滅亡を単に「弱かったから」の一言では片づけられません。天下を統一したのは晋。それは明確な結末です。それでも歴史を読む楽しさは、勝者の名前を覚えるだけでは終わらないと思います。敗れた側にも守りたいものがあり、必死に考え行動した人がいました。
国が滅んでもその人たちの生き方まで無意味になるわけではない。だからこそ私は結末を知っていてもまた三国志の人物たちを読みたくなるのです。
参考資料・出典
- 正史三国志(陳寿)と裴松之注釈



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