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【秦朝】徐福とは何者だったのか?始皇帝に仕えた謎の方士と日本渡来伝説

目次

はじめに

徐福とは、中国を統一した秦の始皇帝の時代に登場する人物です。

ただし、徐福について確実に分かることは多くありません。この記事では、司馬遷『史記』と、後代の資料である『義楚六帖』のみを参考にして、史料で確認できる徐福と日本渡来伝説として語られた徐福を分けて見ていきます。

最初に大事なことを言うと、『史記』には「徐福が日本へ来た」とは書かれていません。『史記』で確認できるのは、徐福が始皇帝の命を受けて東方の海へ向かい、最後は帰ってこなかったというところまでです。一方、『義楚六帖』には、徐福が日本国にとどまったという伝承が見えます。

徐福は「史実」と「伝説」の境界に立つ人物なのです。

『史記』に出てくる徐福

『史記』秦始皇本紀では、斉の人である徐巿、つまり徐福らが始皇帝に上書したとされます。

その内容は、海の中に三つの神山があり、そこには仙人がいるというものでした。神山の名は、蓬莱・方丈・瀛洲です。徐福らは、そこへ行けば不老不死に関わる仙薬を得られると考えたのでしょう。

始皇帝は不老不死を強く求めた皇帝として知られています。そのため、徐福の話は始皇帝にとって非常に魅力的だったはずです。『史記』では、徐福らは童男童女を伴って海へ入ったと記されています。

現代人から見ると、「そんな話を信じるのか」と思うかもしれません。しかし当時は、神仙思想や不老不死への憧れが現実の政治判断にも影響した時代でした。皇帝であっても、死から逃れたいという願いは消せなかったのでしょう。

徐福はなぜ帰ってこなかったのか

徐福についてさらに詳しい話は、『史記』淮南衡山列伝に出てきます。

そこでは徐福が始皇帝に対して海中に神山があると語ったこと、さらに童男童女や百工を連れていけば仙薬を得られると述べたことが記されます。百工とは、さまざまな技術者たちを指す言葉です。つまり単なる宗教的な旅ではなく、人と技術を大規模に動かす計画だったようにも見えます。

また、この列伝には徐福が「大鮫魚」に妨げられて目的を果たせないと説明した話もあります。始皇帝はこれを受けて、弓の名手を連れて海へ向かったとされます。ここはかなり不思議な場面です。

仙薬を探しに行く話だけでも神秘的なのにそこに巨大な魚まで出てくる。徐福が本当にそう報告したのか、それとも後世の語りの中で物語性が強まったのかは断定できません。

ただ、『史記』において重要なのはその後です。徐福は広く豊かな土地を得て、そこにとどまり王となって帰ってこなかったと記されます。ここが徐福最大の謎です。彼は失敗して逃げたのか。本当にどこかの土地へたどり着いたのか。あるいは、始皇帝の怒りを恐れて戻らなかったのか。

『史記』だけでは、行き先を断定できません。分かるのは、徐福が東方へ向かいそして帰らなかったということだけです。『史記』には日本とは書かれていない。

ここはかなり大事なポイントです。『史記』には、徐福の行き先として「日本」「倭国」「九州」「熊野」「佐賀」などは出てきません。『史記』を根拠にして「徐福は日本へ来た」と断定することはできません。

史料から言えるのは

  • 徐福は始皇帝の時代に東方の海へ向かった。
  • 仙薬を求める話と結びついている。
  • 童男童女や技術者を伴ったとされる。
  • 最後は帰ってこなかった。

ここまでです。この「帰ってこなかった」という余白が後世の人々の想像力を刺激したのかもしれません。どこへ行ったのか分からないからこそ、徐福はただの失踪者ではなく伝説の主人公になっていったのでしょう。

『義楚六帖』に出てくる日本渡来伝説

では徐福が日本へ来たという話はどこに出るのでしょうか。

その古い例の一つが『義楚六帖』です。『義楚六帖』巻二十一の日本国条には日本国はまた倭国とも呼ばれ、東海の中にあると説明されています。そして、秦の時代に徐福が童男五百人、童女五百人を率いてこの国にとどまった、という内容が記されています。

ここでは、徐福の行き先が明確に「日本国」と結びつけられています。さらに『義楚六帖』には、富士山についても触れられています。富士は蓬莱とも呼ばれ、徐福はそこにとどまり今に至るまで子孫は秦氏と呼ばれる、という趣旨の記述があります。

これはとても興味深い話です。『史記』では、徐福は東方へ行って帰らなかっただけでした。しかし『義楚六帖』になると、その行き先が日本となり富士山や蓬莱、秦氏と結びついて語られているのです。

ただし、ここで注意が必要です。『義楚六帖』は秦代の同時代資料ではありません。徐福の時代からかなり後に成立した資料です。そのため、これは「徐福が実際に日本へ来た証拠」というより、「後代に徐福日本渡来伝説が語られていた証拠」と見るべきです。

↓他の伝説↓

帰ってこなかった徐福に思いを馳せる

徐福の話で一番心に残るのはやはり「帰ってこなかった」という部分です。始皇帝からすれば、徐福は仙薬を取りに行かせた人物でした。莫大な期待を背負わせ、童男童女や技術者まで託した存在だったのでしょう。

しかし、徐福は戻りませんでした。もし徐福が本当にどこかの平原にたどり着いたのだとしたら、彼はその土地で何を思ったのでしょうか。

秦へ戻れば、仙薬を持ち帰れなかった責任を問われるかもしれない。戻らなければ、故郷には二度と帰れない。連れてきた人々を生かすには、新しい土地で生きるしかない。

もちろんこれは個人の感想であり、史料から断定できる話ではありません。

ですが、徐福の物語には、ただの不老不死伝説では終わらない人間臭さがあります。皇帝の命令、死への恐怖、未知の海、帰れない旅。そこには、歴史の記録には残らない多くの不安や決断があったのではないかと想像してしまいます。

まとめ

徐福は秦の始皇帝の時代に登場する謎多き人物です。

『史記』で確認できるのは徐福が不老不死の仙薬を求めて東方の海へ向かったこと、童男童女や技術者を伴ったとされること、そして広く豊かな土地を得て王となり、帰ってこなかったということです。

しかし『史記』には日本へ来たとは書かれていません。

一方『義楚六帖』では徐福が童男童女を率いて日本国にとどまったという伝承が語られます。さらに富士山、蓬莱、秦氏とも結びつけられています。ただし、これは後代の伝承であり徐福の日本渡来を史実として断定する根拠にはできません。

それでも徐福という人物がここまで語り継がれた理由は分かる気がします。「東へ行ったまま帰らなかった」この一文にはあまりにも大きな余白があります。人は、行方の分からない人物に物語を重ねたくなるのかもしれません。

徐福が本当に日本へ来たのかは不明です。けれど、命令された旅の果てに帰らなかった一人の方士が二千年以上後の私たちにまで想像させる存在になったことは、とても不思議で、少し切ないことだと思います。

もし彼がどこかの海辺で新しい土地を見つめていたのなら、その時の気持ちはどんなものだったのでしょうか。
安心だったのか。後悔だったのか。それとももう戻らないと決めた静かな覚悟だったのか。徐福の伝説は、仙薬の話でありながら同時に「帰れなかった人」の物語でもあるのかもしれません。

参考文献

  • 司馬遷『史記』秦始皇本紀・淮南衡山列伝
  • 釈義楚『義楚六帖』巻二十一「日本国」条
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