【ルネサンス】マーティン・フロビッシャーとは何者だったのか? 北西航路を追った海賊提督

目次

エリザベス・シードッグスの一人

16世紀後半、イングランドとスペインの対立が深まるなか探検・貿易・私掠・海軍任務をまたいで活動した船乗りたちがいました。後世「エリザベス・シードッグス」と総称される男たちです。フランシス・ドレークやジョン・ホーキンスが特に有名ですが北極圏の探検からスペイン無敵艦隊との戦いまで経験したマーティン・フロビッシャー(Martin Frobisher)もその代表的な一人に数えられます。

ただし「エリザベス・シードッグス」は、彼ら自身が所属した正式な部隊名ではありません。エリザベス1世時代にスペイン船やスペイン領を襲い戦時には海軍指揮官として働いた航海者たちを指す後世の呼び名です。フロビッシャーも探検家・私掠船乗り・海軍軍人という複数の顔を持っていました。

↓他の海賊たち↓

マーティン・フロビッシャーとは?

マーティン・フロビッシャーは1535年頃、イングランド北部ヨークシャーのオルトフツ周辺で生まれたとされる航海者です。若い頃にはギニア方面への航海を経験しその後は私掠活動にも関わりました。しかし私掠船と海賊の境界は王権の許可や国際関係によって簡単に動く時代でした。

イングランドの国務文書には1566年5月30日と6月11日フロビッシャーが「海賊船として船を準備した疑い」をめぐって尋問を受けた記録があります。これだけで彼のすべての航海を違法な海賊行為と断定することはできませんが少なくとも若い頃から当局に警戒されるほど危うい活動をしていたことは確かです。のちに女王の艦隊を率いる男が若い頃には海賊の疑いで取り調べを受けている。経歴の振れ幅が早くもすごいですね。

北西航路を求めた男

当時のヨーロッパでは北アメリカの北側を通ってアジアへ抜ける「北西航路」が存在すると期待されていました。スペインやポルトガルが押さえる航路を避けてイングランドから中国や東インドへ向かえるかもしれない。実現すればとんでもない交易上の利益です。

1576年、フロビッシャーはガブリエル号、マイケル号、小型船一隻からなる船団を率いて出航しました。航海の途中で小型船を失いマイケル号も引き返しましたがフロビッシャーはガブリエル号で現在のカナダ北東部へ到達します。彼は現在のバフィン島南東部に入り込む湾をアジアへ続く海峡だと考えました。この場所がのちにフロビッシャー湾と呼ばれることになります。シードッグスだけにフロビッシャー「わん」……という駄洒落はさておき本人は本気でアジアへの入口を見つけたと期待していました。

もっともこの地域にはすでにイヌイットの人々が暮らしていました。ジョージ・ベストの航海記には交易だけでなく衝突や人の連行も記録されています。そのためフロビッシャーの遠征を「未知の無人地帯を発見した英雄物語」とだけ説明することはできません。ヨーロッパ側にとっての探検は現地住民にとって突然やって来た武装集団との接触でもあったのです。

そしてこの最初の遠征が思わぬ方向へ進む原因となったのが一片の黒い石でした。ベストの『A True Discourse of the Late Voyages of Discoverie』によると、遠征隊の一人が黒い石をイングランドへ持ち帰りある出資者の妻がその一片を火に入れた後、酢で冷やしたところ金色に輝いたといいます。石は鑑定に回され金を含むとの判断が広がりました。

北西航路を探すマーティン・フロビッシャーのイメージ

黄金を求めて大遠征

黒い石に金が含まれるという期待から遠征の目的は北西航路の探索だけでなく「金鉱石」の採取へ傾いていきます。1577年の第二回遠征ではフロビッシャーは女王船エイド号を含む三隻を率い、約200トンの鉱石を持ち帰りました。

翌1578年の第三回遠征は、さらに巨大化します。ベストの記録には15隻の船名と船長が並び、現地で越冬する予定の100人について、船員40人、鉱夫30人、兵士30人という内訳まで記されています。もはや小規模な探検ではなく、採鉱と植民を視野に入れた国家的事業でした。

ところが船団は氷と悪天候に苦しめられます。バーク・デニス号は氷に衝突して沈没しました。乗員は救助されたものの、船団は分散し、予定していた植民も実現しませんでした。それでも遠征隊は大量の鉱石を積んで帰国します。

問題は、その鉱石から期待された金が得られなかったことです。精錬を続けても商業的価値を持つだけの金銀は回収できず、事業は破綻しました。ここで注意したいのは、フロビッシャー一人が勝手に石を金だと思い込んだわけではないことです。鑑定者、出資者、宮廷関係者まで巻き込み、期待が期待を呼んで遠征は15隻にまで膨らみました。怪しい投資案件のようですが国家規模で突っ込んでいるので被害も笑えません。

なお、ベストの本は第三回遠征と同じ1578年に刊行されており、鉱石をまだ「金鉱石」として扱っています。つまりこの史料は、のちに価値のない鉱石だと判明した結果を冷静に振り返った記録ではありません。むしろ、当時の遠征関係者がどれほど黄金の可能性を信じ、あるいは宣伝していたのかを示す同時代史料として読むべきでしょう。

エリザベス・シードッグスとして活躍

北西航路と金鉱の計画が失敗した後もフロビッシャーは海を離れませんでした。1585年にはフランシス・ドレークが率いる西インド諸島遠征へ副提督として参加し、プリムローズ号を指揮します。

この遠征を記録したウォルター・ビッグスの『A Summarie and True Discourse of Sir Frances Drakes West Indian Voyage』はフロビッシャーを「海上の活動に非常に経験豊かな人物」と紹介し、副提督として船団の主要指揮官に挙げています。なお、ビッグスは遠征中に死亡したため刊行された航海記は彼が書き始め、別の参加者が完成させたものと考えられています。

ドレーク艦隊はサンティアゴ、サント・ドミンゴ、カルタヘナ、セント・オーガスティンなどを攻撃しました。これは単なる探検ではなくスペインの植民都市と補給拠点を直接たたく大規模な軍事・私掠遠征です。スペインから見れば海賊の襲撃、イングランドから見ればスペインへ圧力をかける遠征。フロビッシャーは、北極圏の探検家から対スペイン戦争の指揮官へと役割を変えていきました。

アルマダ戦で前線に立つ

1588年、スペイン王フェリペ2世は巨大艦隊アルマダを送り出しました。その目的はフランドルにいるパルマ公の軍勢と連携しイングランド上陸を実現することでした。

フロビッシャーは、イングランド王室最大級の軍艦トライアンフ号を指揮しました。さらにイングランド艦隊が四つの戦隊に分けられると、海軍卿チャールズ・ハワード、フランシス・ドレーク、ジョン・ホーキンスと並んで、その一隊を率いる立場に置かれます。北西航路では大失敗した男が、ここではイングランド海軍の中核指揮官です。本当に人生の振れ幅が大きい。

フロビッシャーの危険な戦いぶりがよく分かるのが、Navy Records Society刊『State Papers Relating to the Defeat of the Spanish Armada』に収められた戦闘記録です。イングランド側の旧暦で7月25日、現在のグレゴリオ暦では8月4日、ワイト島近くのダンノーズ沖でトライアンフ号はスペイン艦隊と激しく交戦しました。

風が弱いなかフロビッシャーは艦載艇にトライアンフ号を引かせて戦いましたが、やがてスペイン側の多数の船が迫り、危険な状態に陥ります。海軍卿ハワードはフロビッシャーが孤立することを恐れ、有力艦を率いて救援に向かいました。その結果、スペイン艦隊の中核に近い場所で激しい砲撃戦が起きます。フロビッシャーは後方で安全に号令をかけていたのではありません。大型艦の指揮官でありながら救援が必要になるほど前へ出ていたのです。完全に前線タイプ。

ただしこの戦いを「イングランドが余裕でスペイン艦隊を圧倒した」と考えるのも正確ではありません。同じ史料集に収められたハワードの書状ではスペイン艦隊の巨大さが強く警戒され、イングランド側も食糧や弾薬の不足を訴えています。勝者となる側も戦っている最中には勝利を確信できるような状況ではありませんでした。

その後、イングランド艦隊はカレー沖に停泊したアルマダへ火船を送り込み隊形を乱します。続くグラヴリーヌ沖の砲撃戦でスペイン艦隊は損傷しパルマ公軍との合流も実現しませんでした。アルマダは北海へ押し流される形で撤退し、帰路では損傷、補給難、暴風によってさらに多くの船を失います。

フロビッシャーはこの戦役のさなかに海軍卿ハワードから海上でナイトに叙されました。戦後にエリザベス1世本人から称号を授けられたというよアルマダとの戦闘が続く最中、その働きを評価したハワードが騎士にしたのです。金鉱石の鑑定は外しましたが海戦指揮官としての実力まで偽物だったわけではありません。

スペイン無敵艦隊と戦うマーティン・フロビッシャーのイメージ

晩年と最期

アルマダ戦後も、フロビッシャーは対スペイン戦争に参加し続けました。スペイン支配下の海上交易を妨害し、アゾレス諸島方面へ向かう財宝船を狙う作戦にも関わっています。彼は探検家として名を上げた人物でしたが、晩年の中心は明らかに海軍軍人としての活動でした。

1594年、フロビッシャーはフランス北西部ブルターニュへ派遣されブレスト近郊のクロゾン半島に築かれたスペイン軍の要塞を攻撃しました。この戦いで腰または腿の付近に銃撃を受けイングランドへ帰還した後、プリマスで死亡します。生年を1535年頃とすれば、享年はおよそ59歳です。

北極圏でアジアへの道を探し、黄金に振り回され、スペイン領を襲い、アルマダと戦い、最後もスペイン軍との戦闘で受けた傷によって世を去る。良くも悪くも、16世紀イングランドの海洋進出を体現したような最期でした。

まとめ

マーティン・フロビッシャーは

  • 北西航路を求めて三回の北極圏遠征を行った探検家
  • 金鉱石への期待から15隻の大遠征を率いた事業家
  • ドレークの西インド諸島遠征で副提督を務めた対スペイン戦の指揮官
  • トライアンフ号を率いてアルマダと戦い、戦役中に騎士となった海軍軍人

という非常に濃い生涯を送った人物でした。フランシス・ドレークほど有名ではありませんが、探検史とアルマダ戦の両方に名前が現れる重要人物です。

一方で彼の北西航路遠征は英雄物語だけではありません。鉱石への期待は多くの出資者を巻き込んで破綻し現地ではイヌイットとの衝突や連行も起きました。フロビッシャーは勇敢な航海者であると同時に、私掠と植民拡大の時代を生きた武装した探検者でもあります。

それでも北西航路の失敗だけを見て彼を「石ころを金と間違えた男」で終わらせるのも惜しいでしょう。アルマダ戦の記録では彼はイングランド最大級の軍艦を率いスペイン艦隊の前で危険な戦闘に入り海軍卿が救援へ向かうほどの前線に立っています。黄金の夢では大失敗しながら、海戦では本物の指揮官として戦った。そんな極端な浮き沈みこそマーティン・フロビッシャーという人物の一番おもしろいところではないでしょうか。

参考資料・出典

  • Great Britain, Public Record Office, Calendar of State Papers, Domestic Series, Edward VI, Mary and Elizabeth, 1547–1580(1566年のフロビッシャー尋問記録を含む公文書抄録)
  • George Best, A True Discourse of the Late Voyages of Discoverie, 1578(三回の北西航路遠征。ベストは第二・第三回遠征の参加者)
  • Walter Bigges, A Summarie and True Discourse of Sir Frances Drakes West Indian Voyage, 1589(1585~1586年のドレーク遠征と副提督フロビッシャー)
  • Navy Records Society, State Papers Relating to the Defeat of the Spanish Armada, Vol. I/Vol. II, 1894(アルマダ戦の書状・報告・公文書集)
  • Dictionary of National Biography, “Frobisher, Martin”(生涯の年代確認に用いた補助資料)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次