16世紀のイングランドに一人の女王がいました。その名はエリザベス1世です。
生涯結婚しなかった女王。スペインのアルマダを退けた女王。海賊を使った女王。そんな強烈なイメージが今も残っています。
しかし本人の手紙や同時代の記録を読むと別の顔も見えてきます。塔へ送られる恐怖の中で無実を訴えた王女。助言者に遠慮のない意見を求めた君主。宗教上の統一を法律で命じた統治者です。
今回はエリザベス本人の書簡と演説を中心に見ていきます。宗教法令や海軍文書も使います。なお有名な演説の多くは自筆原稿ではありません。現存する写本や議員の記録を通して伝わるため史料上の限界も合わせて確認します。
塔へ送られる前に書いた「潮の手紙」
エリザベスは1533年に生まれました。母アン・ブーリンは彼女が幼い時に処刑されます。異母姉メアリー1世の治世にはワイアットの反乱への関与を疑われました。
1554年3月17日。エリザベスはロンドン塔へ送るという命令を受けます。その直前にメアリーへ書いたのが「潮の手紙」です。潮が変われば船が出てしまうため時間がほとんど残っていませんでした。
手紙の中でエリザベスは訴えます。答える機会も十分な証拠もないまま罪人として扱わないでほしい。女王の身や国に害を与える計画へ加わったことはない。隠したことも同意したこともない。まず姉の前で弁明させてほしい。
現物では本文の下に残った空白へ斜線が引かれています。後から文章を書き足されるのを防ぐためと考えられています。
未来の女王だから平静だったわけではありません。当時の彼女には未来など見えていませんでした。それでも感情だけで訴えず証拠と弁明の機会を求めています。のちの慎重な君主を思わせる場面です。

即位直後に求めたのは率直な助言
1558年11月20日。即位したばかりのエリザベスはハットフィールドでウィリアム・セシルを側近に任じました。その時の言葉が写本で残っています。
彼女がセシルに求めたのは贈り物で堕落しないことでした。女王個人の望みに遠慮せず最善と思う意見を述べることも求めました。諸侯への演説では自分を一人の自然人であると同時に統治を担う政治的身体でもあると表現します。そして重い任務を助ける忠実な助言を求めました。
強い君主とは何でも一人で決める人物ではありません。少なくとも即位直後のエリザベスは率直な助言が必要だと公言していました。この現実感覚はかなり格好いいです。
翌1559年1月のロンドン入城を記したリチャード・マルカスターの祝祭記録では沿道の人々が祈りと歓声で女王を迎えたとされます。エリザベスも笑顔や言葉で応じました。ただしこれは即位を祝う出版物です。国民全員の本音を測った記録ではありません。女王と都市が公の場で望ましい関係を演出した史料として読むべきでしょう。
「イングランドと結婚した」は本人の言葉か
1559年。議会は女王へ結婚を求めました。王位継承を安定させるには後継者が必要だったからです。
最初期の演説写本によるとエリザベスは物心がついた頃から独身の生き方を選んできたと答えました。ただし将来も絶対に結婚しないと断言したわけではありません。神が心を結婚へ向けるなら国に害を与えない相手を選ぶとも述べています。
結婚しない場合は神と議会が後継者に備えられるとも語りました。自分に子が生まれても立派な人物になるとは限らないという現実的な説明までしています。初期写本の結びは墓碑に「処女のまま生きて死んだ女王」と記されればよいという内容です。
有名な「私はすでに夫と結ばれている。その夫とはイングランド王国である」という表現は後年のウィリアム・カムデン版に現れます。初期写本には同じ一節がありません。カムデンは演説を再構成しているため本人の言葉として断定はできません。
名言としては最高です。しかし史料を確認すると少し待ったが入ります。「格好いいから採用!」では済まないのが歴史の面白いところです。
宗教政策は現代的な寛容ではなかった
エリザベスの宗教政策は穏健なバランス路線と説明されることがあります。しかし1559年の法律を読むと単純な寛容政策ではなかったことが分かります。
国王至上法は国外の宗教的権威を否定しました。女王を宗教上と世俗上の唯一の最高統治者と認める宣誓も公職者へ求めます。
礼拝統一法は共通祈祷書による礼拝を命じました。従わない聖職者には収入の没収や投獄が科されます。一般の人々にも日曜と祝日の教会出席を求めました。欠席には12ペンスの罰金が定められています。
つまり目指したのは宗教を各自の自由に任せる社会ではありません。王権の下で公的な礼拝を統一する体制です。エリザベスの統治を評価する時もこの強制の側面は外せません。
海賊を半分公認?実際はもっと複雑
エリザベス時代を語る時に欠かせない人物がフランシス・ドレークです。彼を「女王公認の海賊」と呼ぶと分かりやすいでしょう。しかし海軍文書を見ると海賊と海軍をきれいに分けることはできません。
1587年の遠征記録には女王の艦船としてエリザベス・ボナヴェンチャー号。ゴールデン・ライオン号。ドレッドノート号。レインボー号が登場します。物資の記録では私掠活動を行うドレークと女王艦隊の提督としてのドレークが区別されています。
同じ人物が私掠者でもあり国王艦隊の指揮官でもあったのです。国家と私的な武力が重なり合う世界でした。「敵国なら何でも略奪してOK」という一言では説明しきれません。
↓私掠船船長や海賊たちの伝説↓


スペインのアルマダとティルベリー演説
1588年。スペインのアルマダがイングランド侵攻のため海峡へ入りました。エリザベスがティルベリーの軍営を訪れたのは8月9日です。
ここで時系列には注意が必要です。アルマダ主力はすでに海峡での戦闘を終えて北へ向かっていました。それでもパルマ公の軍による上陸の危険は消えていません。女王は上陸に備える兵士たちの前へ姿を見せました。
有名な演説では民を信用していると述べます。戦いの中で兵士と共に生きて死ぬ覚悟も示します。そして「弱くかよわい女の身体を持つことは知っている。しかし私は王の心と勇気を持つ。しかもイングランド王のものを持つ」と宣言しました。
ただし現存する本文は女王の自筆ではありません。演説を聞いた人物が記録したとする写本で伝わります。実際に演説が行われた可能性は高いとされますが一字一句を録音のように扱うことはできません。
海軍側の手紙からは華々しい勝利の裏側も見えます。ドレークはパルマ公の脅威が残ると警告しました。ジョン・ホーキンスは船の損傷や水漏れを報告します。食料と飲料の不足も深刻でした。
アルマダの敗退は女王一人の武勇伝ではありません。艦隊を動かした指揮官。船員。補給担当者。上陸に備えた兵士たち。その全員が危機の中にいました。ティルベリー演説は勝利後の記念スピーチではなく危険がまだ残る時点の政治的行動だったのです。


晩年の「黄金演説」
1601年の議会では独占権への不満が問題になりました。特定の者へ与えた独占権が人々の生活を圧迫していたからです。エリザベスは不満の収拾を図ります。その上で議員たちへ最後の演説を行いました。
演説は議場にいたヘイワード・タウンゼンドの記録など複数の異なる本文で残っています。その中で女王は臣民の愛より大切にする宝石はないと述べました。
これは美しい言葉です。同時に政治的な言葉でもあります。晩年の女王は臣民への愛を語ることで批判を受けた王権と議会の関係を立て直そうとしていました。カリスマだけではありません。言葉を使って危機を収める政治家の姿があります。
まとめ


エリザベス1世の史料から見えるのは欠点のない英雄ではありません。
- 塔へ送られる恐怖の中で弁明を求めた王女
- 側近へ率直な助言を求めた君主
- 結婚問題を政治課題として扱った女王
- 宗教統一を法律で強制した統治者
- 海軍と私掠活動が重なる仕組みを利用した君主
- 危機の場で言葉と姿を政治的な力に変えた演説者
私が最も心を動かされたのはティルベリーの名言より「潮の手紙」でした。そこにいるのは完成された伝説の女王ではありません。無実を信じてほしいと姉へ訴える一人の若い女性です。
その人物がのちに助言者や議会や軍人を動かし自分自身の言葉と姿まで統治へ利用しました。強さとは最初から恐れないことではないのでしょう。恐れを知った上で生き残る方法を学ぶこと。エリザベス1世の魅力はそこにあるように思います。
参考資料・出典
- Elizabeth I: Collected Works(Leah S. Marcus・Janel Mueller・Mary Beth Rose編 2000年)
- 英国国立公文書館「潮の手紙」(1554年3月17日 SP 11/4/2 ff.3–3v)
- 国王至上法(1559年 1 Eliz. c.1)
- 礼拝統一法(1559年 1 Eliz. c.2)
- Richard Mulcaster, The Queen’s Majesty’s Passage(1559年)
- Papers Relating to the Navy During the Spanish War, 1585–1587(Julian S. Corbett編 1898年)
- State Papers Relating to the Defeat of the Spanish Armada 第1巻(J. K. Laughton編 1894年)
- State Papers Relating to the Defeat of the Spanish Armada 第2巻(J. K. Laughton編 1894年)


