【ルネサンス】ジョン・ホーキンスとは何者だったのか? ドレークの師匠にしてイングランド海軍の改革者

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ジョン・ホーキンス船長

イラストはイメージです。ふざけました、すみません。

16世紀イングランドの海の英雄といえば、まずフランシス・ドレークが思い浮かぶでしょう。しかしそのドレークより早く大西洋へ進出し、後にはイングランド海軍の運営を支えた人物がいました。それがジョン・ホーキンスです。

ホーキンスは航海者・武装商人・奴隷貿易者・海軍官僚・艦隊指揮官という、いくつもの顔を持っていました。王下七武海のような存在と例えたくなりますが実像はもっと複雑です。海軍の発展に貢献した一方、その富と経験の一部はアフリカの人々を捕らえて売る航海によって得られました。


ジョン・ホーキンスの概要

ジョン・ホーキンス(1532年頃~1595年)はエリザベス1世時代に活動したイングランドの航海者・海軍指揮官です。プリマスの海運業者の家に生まれ1560年代には西アフリカとスペイン領アメリカを結ぶ航海を繰り返しました。

その後は王室海軍の運営に関わり1577年末に海軍財務長官となります。1588年のスペイン無敵艦隊アルマダとの戦いでは軍艦 Victory 号を率いる主要指揮官の一人として参加しました。つまりホーキンスは船を動かす役人であると同時に、自ら前線へ出る船乗りでもあったのです。


ドレークの「師匠」だったのか?

ホーキンスはしばしばフランシス・ドレークの師匠として紹介されます。確かに1567年に始まったホーキンスの第三回航海では、ホーキンスが船団全体を指揮し若いドレークは小型船 Judith 号の船長として参加しました。

そのため、経験豊富なホーキンスの下でドレークが実戦を経験した、という説明はできます。しかし二人の間に正式な師弟関係があったことを示す記録までは確認できません。「ホーキンス=師匠、ドレーク=弟子」という表現は上下関係を分かりやすく説明するための比喩と考えた方が安全でしょう。

後にドレークは世界一周を達成しホーキンスは海軍運営の中心へ進みます。同じ時代の海で出発しながら一人は前線の英雄、もう一人は前線と組織運営の両方を担う人物になったわけです。


奴隷貿易で利益を得た航海者

ホーキンスを語るうえで絶対に外せないのが大西洋奴隷貿易への関与です。彼の1562年の第一回航海についてリチャード・ハクルートが収録した同時代の航海記はホーキンスがシエラレオネ方面で少なくとも300人のアフリカ人を「剣とその他の手段」によって手に入れたと記しています。

船団は捕らえた人々をイスパニョーラ島へ運びスペイン人入植者へ売りました。代わりに得たのは、皮革・砂糖・ショウガ・真珠などです。航海記はこの航海がホーキンスと出資者に大きな利益をもたらしたことも隠していません。

1564年に始まった第二回航海でもホーキンスは人々を捕らえ、またポルトガル商人から買い集めてアメリカへ運びました。スペイン植民地では外国人の無許可貿易が禁じられていたため彼は交渉だけでなく武力による威圧も用いて販売を認めさせています。これは単なる平和的な交易ではありませんでした。

スペイン大使も警戒していた

ホーキンスの活動はスペイン側にも把握されていました。駐英スペイン大使ディエゴ・グスマン・デ・シルバは1566年2月4日にフェリペ2世へ送った報告でギニアで人々を捕らえてインディアスへ運ぶ事業は非常に利益が大きいと述べています。

さらに大使はホーキンスが航路を他のイングランド人へ教えることを警戒していました。つまりホーキンスの航海は、一人の船長による冒険で終わる可能性のないものでした。高い利益を知った商人たちが続けば、イングランド人による奴隷貿易が拡大しかねないとスペイン側も見抜いていたのです。

当時、この事業が利益を生む投資として扱われていたことは事実です。しかしホーキンス側の航海記そのものが、人々を武力で捕らえたことを記しています。「当時の価値観」という言葉だけで、その強制性まで薄めるべきではないでしょう。ホーキンスの海軍上の功績と奴隷貿易への加担は、どちらも同じ人物の歴史です。


サン・フアン・デ・ウルアの敗北

1567年、ホーキンスは三度目の奴隷貿易航海へ出発しました。彼自身の航海記によれば船団は西アフリカで400人から500人ほどの人々を集め、スペイン領アメリカで販売を進めました。リオ・デ・ラ・アチャでは町を武力で攻め、その後に秘密取引で約200人を売ったと記されています。

帰路、暴風で旗艦 Jesus of Lübeck 号が損傷したため船団は現在のメキシコにあるサン・フアン・デ・ウルアへ入りました。そこへスペインの船団も到着します。ホーキンスの説明では両者は安全を保証する条件を結び、人質まで交換しました。しかしその後スペイン側が攻撃を開始し港内で激戦となります。

Jesus of Lübeck 号はマストや帆桁を砲撃で破壊され放棄せざるを得なくなりました。最終的に脱出できた主力船は、ホーキンスの乗った Minion 号と、ドレークの Judith 号だけでした。ホーキンスは多くの船・人員・積荷を失い、命からがら帰国します。


ホーキンス最大の功績は海軍運営

サン・フアン・デ・ウルアで大敗したホーキンスですが後には王室海軍の運営を担うようになります。1577年末に海軍財務長官となり艦船の修理、資材の調達、会計、補給などに深く関わりました。

ホーキンスは「新型軍艦を一人で設計した改革者」のように語られることがあります。しかし軍艦の建造には船大工や他の海軍官僚も関わっており、どこまでがホーキンス一人の発案だったのかを切り分けるのは簡単ではありません。

一方、資料からは彼が艦隊の修理と補給を具体的に動かしていたことを直接確認できます。派手な設計者像よりも戦える艦隊を維持する実務家としての姿の方が、史料にははっきり残っています。

  • 壊れた船を修理する。
  • 大砲・火薬・索具などの資材をそろえる。
  • 船員へ食糧と飲料を届ける。
  • 限られた予算で艦隊を動かす。

結局、海軍も船と飯と金で動きます。どれほど勇敢な船長がいても船底から水が入り火薬と食糧が尽きれば戦えません。ホーキンスの強みは、海戦の裏側にある当たり前だけれど重大な仕事を理解していたことでした。


スペイン無敵艦隊との戦い

1588年、スペイン無敵艦隊アルマダがイングランド侵攻のために来航するとホーキンスは Victory 号を率いて迎撃に参加しました。彼はフランシス・ドレークやマーティン・フロビッシャーと並ぶ主要指揮官の一人であり、戦功によってこの遠征中にナイトに叙されています。

しかし、ホーキンスらしさが最もよく見えるのは敵船へ砲撃する場面だけではありません。Navy Records Societyが刊行したアルマダ関係文書集には、1588年8月8日にホーキンスが海軍卿へ送った自筆書状が収録されています。

その書状によるとホーキンスは複数の艦船とともにハリッジへ入りHope 号から大砲とバラストを降ろして船底を地面に据える作業を進めていました。これは船体を点検・修理するための措置です。

さらに書状はBear 号に船体の低い位置から漏水している疑いがあったこと、Elizabeth Jonas 号と Triumph 号が嵐で流され、その後まだ連絡がなかったことを伝えています。勝った側の艦隊も普通にボロボロだったのです。

ビールとパンが艦隊を支えた

同じ書状にはビールとパンを積んだ平底輸送船がすでに三隻到着し残る七隻にもハリッジへ来るよう命令が出ているとあります。さらに海軍卿の艦隊に対する14日分の食糧も積まれていると報告されました。

ここから分かるのはアルマダ戦が「勇敢な船長たちが砲撃して勝った」だけの戦いではなかったということです。

  • 損傷した船を港へ入れる。
  • 船底を点検する。
  • 漏水した船の状態を把握する。
  • 輸送船を集めて食糧を届ける。
  • 再び艦隊へ合流する。

こうした地味な作業がなければ追撃も海上封鎖も続けられません。ドレークが剣ならホーキンスは剣を研ぎ、食事を用意し、次の戦場まで運ぶ仕組みそのものだったのかもしれません。しかも本人も Victory 号に乗って戦っています。裏方だけで終わらないところがこの男のすごさです。


功績と加害の両方を残した人物

ホーキンスの生涯には明るい功績と重い加害が同居しています。海軍指揮官・行政官としての能力は高く、アルマダ戦では前線と補給の両面でイングランドを支えました。その一方で奴隷貿易航海では自ら船団を率い、アフリカの人々を捕らえてスペイン植民地へ売りました。

この二つの顔を都合よく分けることはできません。奴隷貿易で得た航海経験、人脈、資金、スペイン領海域への知識は、後の海軍活動とも無関係ではなかったからです。海軍改革者として称賛するだけでも、奴隷貿易者として一語で終わらせるだけでもホーキンスの歴史は見えにくくなります。

最後に

ジョン・ホーキンスはフランシス・ドレークに先立って大西洋へ進出した航海者でありイングランド人による大規模な奴隷貿易の初期を担った人物でした。サン・フアン・デ・ウルアでは壊滅的な敗北を経験しましたがその後は王室海軍の運営を担い、1588年のアルマダ戦では艦隊指揮官として戦っています。

資料を読むと英雄伝の陰に隠れがちな姿まで見えてきます。アフリカの人々を武力で捕らえた航海者。敗北をスペインの裏切りとして説明した当事者。損傷した軍艦を修理しビールとパンを積んだ輸送船を集めた海軍実務家。そして自ら Victory 号で戦った指揮官です。

派手さではドレークに負けても、イングランドの海軍と大西洋進出に残した影響は非常に大きい。しかし、その影響は栄光だけでできていたわけではない。

そこまで含めて見ることがジョン・ホーキンスという人物を歴史の中で正しく捉えることにつながるのではないでしょうか。

参考資料・出典

  • Clements R. Markham ed., The Hawkins’ Voyages During the Reigns of Henry VIII, Queen Elizabeth, and James I, Hakluyt Society, 1878.(ハクルートが収録した第一・第二航海記およびホーキンス自身による第三航海記を再録)
  • Calendar of State Papers, Spain (Simancas), Volume 1, 1558–1567, “Simancas: February 1566.”(駐英スペイン大使グスマン・デ・シルバからフェリペ2世への報告)
  • John Knox Laughton ed., State Papers Relating to the Defeat of the Spanish Armada, Anno 1588, Vol. II, Navy Records Society, 1894.(1588年8月8日付ホーキンス自筆書状、pp.66–68)
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