タラスクスの概要
六本の脚、鋭い歯、鱗に覆われた身体。タラスクスは、フランスのタラスクとも呼ばれる怪物です。その物語の中心にいるのは剣を振るう騎士ではなく聖女マルタでした。
中世の伝記では怪物は南フランスのローヌ川沿いを脅かしマルタによって制圧されます。しかし身体の描写や退治の場面を読み比べると伝承は一つの決まった形ではありません。ここで用いる聖人伝は中世に語られた伝承を知るための一次資料です。
成立年代については本文とは別に校訂・年代研究を参照します。ヴェロニク・オリヴィエの研究では偽マルケラ『聖女マルタ伝』の成立は1174~1210年の間と推定されています。比較研究でも、タラスクを登場させる最古のマルタ伝として位置づけられています。『黄金伝説』は1260年頃。一方、偽ラバヌスの伝記は成立年代に議論があり、12世紀末とする説や13世紀とする説があります。なお、「偽マルケラ」「偽ラバヌス」の「偽」は、伝統的に掲げられた著者名をそのまま実作者と認められないことを示す呼び方です。伝承資料として無価値だという意味ではありません。
偽マルケラ『聖女マルタ伝』最古級の本文に現れる異形
偽マルケラ『聖女マルタ伝』では怪物はアルルとアヴィニョンの間、ローヌ川沿いの森に登場します。人間だけでなくロバや馬も殺し武装した人々が来ても川に潜むため倒すことができません。
その姿は、半ば獣、半ば魚。牛より太く、馬より長い身体に、獅子の頭と口、馬のたてがみ、剣のような歯を備えています。さらに鋭い背と鱗、六本の脚、熊の爪、毒蛇のような尾があり、両側は亀のように守られていました。十二頭の獅子や同数の熊でも勝てないとされます。六本足や鱗は、すでにこの初期の伝承本文にある特徴なのです。ただし「六本」の箇所には写本間の異読があり、ここでは校訂者が採用した本文に従っています。
住民の頼みを受けたマルタは人を食べている怪物に聖水をかけ、木の十字架を示します。怪物は羊のようにおとなしくなり帯で縛られ、住民の槍と石によって殺されます。
私がこの描写に感じるのは怪物の姿を何とか言葉で伝えようとする迫力です。獅子、馬、熊、蛇、亀。知っている動物の恐ろしさを重ねることで見たことのない一体が目の前に立ち上がってきます。

『黄金伝説』怪物の血筋と、聖水による制圧
ヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』「聖女マルタ」では怪物の外見は比較的短くまとめられます。半ば獣、半ば魚で、牛より太く、馬より長く、鋭い歯を持ち、亀のように両側を守られた怪物です。川に潜み、通行する者を殺し、船を沈めます。
注目したいのはその血筋です。本文では、アジアのガラティアから海を渡ってきた怪物とされレヴィアタン(リヴァイアサン)とボナクスと呼ばれる動物から生まれたと説明されます。
このボナクスには追跡者に糞を放ち、触れたものを火のように焼くという性質が記されています。確認したラテン語本文ではこれは親の動物についての説明です。「タラスクスが空腹になると糞を飛ばして獲物を襲う」とは書かれていません。
マルタが聖水と十字架で怪物を制圧し帯で縛った後住民が槍と石で殺す筋立ては、先ほどの伝記と共通します。私にはここで描かれる強さの違いが印象的です。川の船を沈める力が聖水と十字架の前で止まる。怪物の圧倒的な破壊力を示すほど、マルタの静かな行動が際立って見えます。

偽ラバヌスの伝記毒の息と、住民を促すマルタ
偽ラバヌス『聖マリア・マグダレナとその姉妹聖マルタの生涯』では怪物の恐ろしさが別の形で描かれます。
巨大で長い身体を持ち息には有害な煙、目には硫黄の火花。爪と歯で相手を引き裂くだけでなく近づいたものを息の悪臭によって死なせます。牧人や家畜にも被害が及びます。タラスクスの「毒の息」には、この中世本文という出典があるのです。人々から力を示すよう求められたマルタは、怪物のもとへ進みます。十字のしるしで凶暴さを抑え自分の帯をその首に巻きつけます。
大きな違いはその後です。この伝記ではマルタ自身が遠くから見ている人々に近づいて怪物を切り刻むよう促します。怪物が息や歯で危害を加えないよう抑えながら、人々を励まし住民はついに怪物をバラバラにします。
この展開を読むと私は少し身構えてしまいます。おとなしくなった怪物に哀れみを感じても、本文のマルタはその殺害を止めません。自分の感情と物語が描いている行動の間に距離がある。その距離を残したまま読むことも古い伝承に向き合う面白さだと思います。

恐ろしい怪物なのに最期が心に残る
近年書かれた幻獣辞典(笠倉出版)では六本足のワニに似た怪物が頑丈な鱗と長い牙を備えた姿で描かれています。聖水と十字架でおとなしくなり最後に村人から石を投げられて死ぬという説明も強く印象に残ります。
幻獣辞典の描写を古い本文と照合すると六本足や鱗、毒気を帯びた息など中世の記述と対応する要素が見つかります。一方、「ロバとの間に生まれた」「空腹になると糞を飛ばす」という説明は今回の一次資料とは区別が必要でした。幻獣辞典の一つの項目を入口に複数の伝記へさかのぼると、同じ怪物の輪郭が少しずつ変わって見えてきます。
ここからは私自身の感想です。
人を食べ、生活を脅かしてきた怪物ですから住民がその死を望む気持ちは想像できます。自分や家族が襲われるかもしれない場所で怪物がおとなしくなったからといってすぐに恐怖を捨てられるでしょうか。そう考えると人々を簡単には責められません。
それでも帯に縛られ、羊のようになった姿を思い浮かべると私はどうしても切なくなります。あれほど恐ろしかったものが抵抗できなくなった途端に傷つく一つの命として見えてしまう。ただしこれは本文が語る「怪物の後悔」ではありません。タラスクスが何を思ったのかは書かれていませんし、マルタが救おうとしたのに住民が勝手に殺した、という物語に置き換えることもできません。

書かれていない心情を史実のように補わなくても読む側の心は動きます。鋭い鱗や六本の脚に驚き、その力に圧倒され、最後には少しだけ哀れみを感じる。私にとってタラスクスは恐ろしさと切なさが同じ姿の中に残る忘れがたい怪物になりそうです。
参考資料
- 偽マルケラ『聖女マルタ伝』。聖人伝書誌番号5545。
- ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』「聖女マルタ」。
- 偽ラバヌス『聖マリア・マグダレナとその姉妹聖マルタの生涯』。
- 幻獣辞典(笠倉出版 2011年)



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