【三国志】程普とは?孫氏三代を支え赤壁で一万を率いた呉の最古参将軍

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程普の概要

程普(ていふ)、字は徳謀(とくぼう)。孫堅・孫策・孫権の三代に仕えた、江東の孫氏を代表する古参武将です。

周瑜や呂蒙、陸遜ほど華やかに語られる人物ではありませんが、その経歴を確認すると驚かされます。孫堅に従って黄巾軍や董卓軍と戦い、孫策の江東平定を支え、孫権の時代には赤壁の戦いで一万人を率いました。つまり程普は、呉がまだ小さな軍事集団だった時代から、三国の一角を占める勢力へ成長するまでを前線で支え続けた将軍なのです。

『三国志演義』では「鉄脊蛇矛」を振るう老練な猛将として描かれ、胡軫を討ち取り、太史慈と一騎討ちを演じます。しかし、これらの華々しい武勇の多くは演義による脚色です。

一方、陳寿の正史『三国志』に登場する程普も決して地味ではありません。矛を手に敵陣へ突入して孫策を救い、地方長官として反乱を鎮圧し、赤壁では周瑜とともに「左右督」を務めています。正史の程普は、一騎討ちだけを得意とする豪傑ではなく、戦闘・指揮・統治のすべてを経験した孫氏政権の重鎮でした。

正史の程普

容貌と計略に優れた州郡の役人

陳寿『三国志』呉書・程普伝によれば、程普は右北平郡土垠の出身です。生年は記されていません。最初は州や郡の役人を務めていました。

陳寿は若い頃の程普について、容貌が立派で計略を備え、応対に優れていたと記しています。後世の作品では武骨な老将として描かれがちですが、正史が最初に強調しているのは腕力ではなく、外見、知略、対人能力でした。

後年には呉郡都尉、丹陽都尉、江夏太守などを務めているため、程普には軍勢を率いる力だけでなく、地方を統治する能力も求められていました。

孫堅に従い黄巾軍と董卓軍を破る

程普は孫堅に従い、宛・鄧方面で黄巾軍と戦いました。その後は反董卓連合の戦いにも参加し、陽人で董卓軍を破っています。

程普伝には、攻城戦と野戦を重ね、身体に傷を負ったとあります。傷の場所や数は不明ですが、程普が後方から命令するだけの人物ではなく、若い頃から激しい戦場をくぐり抜けた武将だったことは分かります。

矛で包囲を突破し孫策を救う

孫堅の死後、程普はその子の孫策に仕えました。廬江攻略に参加した後、孫策とともに長江を渡り、横江・当利・秣陵・句容・曲阿・余杭など江東各地を転戦します。戦功が多かったため、兵二千と騎馬五十匹を加えられました。

正史における程普最大の武勇譚は、孫策が祖郎を攻撃して敵軍に包囲された時の出来事です。

程普は一人の騎兵とともに孫策をかばい、馬を走らせて大声を上げながら、矛で敵陣へ突入しました。敵兵が左右へ崩れた隙に孫策を脱出させています。

演義のような一騎討ちではありませんが、主君を守るため少人数で包囲を突破したという、十分すぎるほど豪快な逸話です。なお、正史に記される武器は単に「矛」であり、「鉄脊蛇矛」という名前は出てきません。

孫策の死後は張昭らと孫権を補佐

孫策が死去すると、程普は張昭らとともに若い孫権を補佐しました。孫権の支配に従わない勢力を討伐し、江夏攻略や楽安平定にも参加しています。さらに太史慈に代わって海昏方面の守備を担当しました。

ここまで来ると、程普が孫家の単なる古参ではなかったことが分かります。孫堅の家臣だったから厚遇されただけではなく、政権が代替わりするたびに必要な軍事任務を任され続けていました。

赤壁では周瑜と左右督を務める

建安十三年(208年)、曹操の大軍が南下すると、程普は周瑜とともに「左右督」に任命されました。孫権伝では周瑜と程普がそれぞれ一万人を率い、劉備軍とともに進撃して赤壁で曹操軍を破ったとされています。

演義では周瑜が大都督、程普が副都督という明確な上下関係になっています。しかし正史の肩書では二人が左右に並ぶ都督です。ただし、後に呂蒙が語った言葉によれば、実際の軍事上の決定は周瑜が行っていたとされます。そのため、二人の実権まで完全に同等だったと断定することはできません。

赤壁の勝利後、程普は周瑜とともに南郡へ進み、曹仁を敗走させました。その功績により裨将軍となり、江夏太守を兼任しています。

周瑜と対立した最年長の宿将

程普伝によれば、孫氏に早くから仕えた諸将の中で程普が最年長であり、人々は敬意を込めて「程公」と呼んでいました。程普は人に物を施すことを好み、士大夫を好んだとも記されています。

しかし、最古参としての自負は周瑜との対立を生みました。陳寿は周瑜伝で、周瑜は多くの人と良好な関係を築いたが、程普とだけは不仲だったと記しています。

さらに孫皎伝に収録された呂蒙の発言では、江陵攻略において決定権を持つ周瑜に対し、程普が自分は経験豊富な古参将軍であり、しかも同じ都督であると自負したため、二人は不和となり、危うく国事を失敗させるところだったとされています。これは微笑ましい先輩と後輩の喧嘩ではなく、軍の指揮系統に影響する深刻な対立だった可能性があります。

ここからは陳寿本文ではなく、裴松之注が引用する『江表伝』の逸話です。程普は年長であることを頼みに、周瑜をたびたび軽侮しました。それでも周瑜は自分を抑えて程普を受け入れ、正面から争おうとしませんでした。

やがて程普は周瑜を敬い、親しく重んじるようになります。そして人々に「周公瑾と交わることは、芳醇な酒を飲み、知らないうちに酔ってしまうようなものだ」と語りました。

周瑜の実力を認めた程普は、意地を張り続けませんでした。古参としての誇りが強い人物であっても、自分より若い人物の力量を最後には受け入れた。この逸話には程普の頑固さだけでなく、考えを改める度量も表れています。

裴松之注に残る不穏な最期

周瑜が死去すると、程普は一時的に南郡太守を引き継ぎました。その後、孫権が荊州を劉備と分有する段階で江夏へ戻り、盪寇将軍に昇進して死去しています。陳寿本文は死亡年や死因を記していません。

ところが、裴松之注が引用する『呉書』には異なる情報があります。それによれば程普は、反乱者数百人を殺して火中へ投じさせ、その日のうちに「病癘」を患い、百日余り後に死亡したとされます。

ただし「投火」という言葉だけでは、生きたまま焼いたのか、殺害後の遺体を焼いたのかまでは分かりません。「病癘」も具体的にどのような病気だったのか不明です。残酷な処置と発病の因果関係も確認できないため、「祟りで死んだ」といった話にまで広げることはできません。

孫権が皇帝に即位した後、程普の功績が改めて論じられ、息子の程咨が亭侯に封じられました。陳寿は程普を含む十二人の将軍を「江表の虎臣」と評価しています。後世にいう「江表十二虎臣」の一人ですが、これは正式な官職名ではありません。

演義の程普

鉄脊蛇矛で胡軫を討ち取る

『三国志演義』第5回で、程普は黄蓋・韓当・祖茂とともに孫堅配下の四将として登場します。程普の武器は「鉄脊蛇矛」です。

反董卓連合の戦いでは董卓軍の胡軫と一騎討ちになり、数合のうちに喉を突いて討ち取ります。正史には程普が胡軫を討った記録はなく、鉄脊蛇矛という武器も演義独自の設定です。

伝国璽を見抜いた知識人

演義第6回では、孫堅が洛陽の井戸から発見した印章を程普が調べ、漢王朝の伝国璽であると説明します。さらに、これは孫堅が帝王となる瑞兆であると判断しました。

伝国璽の発見は陳寿本文にはありません。裴松之注には『呉書』などが伝える説として収録されていますが、裴松之自身は、忠烈で知られた孫堅が皇帝の印を隠したという話は人物像と矛盾すると批判しています。まして程普が璽を鑑定したという記録は正史にはなく、演義の創作と考えるべきでしょう。

孫堅と孫策を守る忠勇の老将

演義の程普には、その後も多くの武勇が加えられています。劉表軍との戦いでは蔡瑁を破り、孫堅が戦死すると呂公を討ち取りました。孫策の江東平定では太史慈と三十合にわたって戦い、厳白虎の軍勢も破っています。

さらに孫策が許貢の食客に襲撃された場面では、兵を率いて駆けつけ、負傷した孫策を救出しました。

この救出劇には正史上の下敷きがあります。ただし、正史で程普が孫策を救ったのは祖郎軍に包囲された時です。演義は実際の救出逸話を、孫策が致命傷を負う許貢の食客による襲撃場面へ移し替えたと考えられます。

周瑜に反発するも実力を認める

赤壁直前の第44回では、程普は曹操への降伏に反対する宿将として登場します。孫権は周瑜を大都督、程普を副都督に任命しました。

ところが程普は、自分より若い周瑜が大都督になったことに不満を抱き、病気を理由に出仕しません。やがて周瑜の軍令が厳格で、決断力にも優れていることを知ると、自ら軍営へ赴いて謝罪します。

正史と裴松之注では、程普が周瑜を何度も軽侮し、軍事指揮を危うくするほど対立した後、次第に敬服したとされています。演義はこの長い人間関係を、赤壁直前の短い対立と和解にまとめ、物語として分かりやすく再構成しました。

赤壁以後も孫権軍を支える

赤壁では周瑜とともに船上から軍を指揮し、その後の南郡攻略にも参加します。さらに合肥の戦いでは、張遼の攻撃を受けた孫権を救出する活躍まで与えられました。

演義の程普は、突出した主人公ではありません。しかし孫堅・孫策・孫権の危機に何度も駆けつける、頼りになる老将として一貫しています。なお、一般的な120回本では程普の明確な死亡場面は描かれていません。

正史と演義の程普の違い

比較項目正史・裴松之注三国志演義
基本的な人物像知略、応対、戦闘、地方統治を経験した孫氏最古参の重鎮鉄脊蛇矛を振るう忠勇の老将
若い頃州や郡の役人。容貌と計略に優れ、応対が巧み役人としての経歴や対人能力はほとんど強調されない
武器孫策救出時に「矛」を使用。固有名はない鉄脊蛇矛
一騎討ち一騎討ちの記録はない胡軫を討ち、蔡瑁を破り、太史慈と三十合戦う
孫策救出祖郎軍の包囲を矛で突破して救出許貢の食客に襲われた孫策を救出
伝国璽程普が鑑定した記録はない。伝国璽発見説自体を裴松之が批判伝国璽を見抜き、孫堅が帝王となる瑞兆だと説明
赤壁での地位周瑜と左右督となり、それぞれ一万人を率いる。ただし決定は周瑜が担ったとされる周瑜が大都督、程普が副都督
周瑜との関係程普が年長を恃んでたびたび軽侮。軍事指揮を危うくした後、周瑜に敬服赤壁直前に一度反発するが、周瑜の軍令を見てすぐ謝罪
人柄人に施すことを好み、士大夫を重んじた忠義、武勇、長老としての判断力が中心
陳寿本文は死因不明。裴注所引『呉書』に反乱者を火中へ投じた後、病癘で死んだとの異伝120回本では明確な死亡場面がない

呉の歴史を最初から支えた男

程普は、孫堅・孫策・孫権の三代に仕えた呉の最古参将軍でした。黄巾軍や董卓軍と戦い、江東平定では孫策を命がけで救い、孫権の時代には赤壁で一万人を率いています。地方の反乱鎮圧や太守としての統治も経験しており、正史の程普は演義の猛将像よりもはるかに幅の広い人物です。

その一方で、立派な部分だけが残っているわけではありません。年長者としての自負から周瑜を軽侮し、二人の対立は軍事を失敗させかねないほど深刻になりました。裴松之注には、反乱者数百人を殺して火中へ投じたという、程普の印象を一変させるような異伝も残っています。

それでも私が程普に強くひかれるのは、周瑜の実力を認めた後、最後まで意地を張り続けなかったことです。自分の方が年上で、孫家に仕えた期間も長く、戦場経験も多い。その誇りを持つこと自体は当然でしょう。しかし、だからこそ年下の周瑜に頭を下げるのは簡単ではなかったはずです。

華々しい天才が現れた時、その陰には、まだ国の形すらなかった頃から主君を守り、傷を負い、地道に土地を平定してきた者がいます。周瑜が赤壁の英雄として輝くことができた背景にも、程普のように一万の兵を預かる歴戦の将軍がいました。

程普には、関羽や張飛のような圧倒的な知名度も、周瑜のような華やかさもありません。しかし孫家が三代にわたって政権をつなぐことができたのは、この「程公」が何度も主君の危機を支えたからです。目立たなくても、組織の歴史を最初から背負い続けた人間の重みがある。程普とは、そんな簡単には代わりを見つけられない、呉の土台そのもののような将軍だったのではないでしょうか。

主な参考史料

  • 陳寿『三国志』巻55・程普伝、巻54・周瑜伝及び裴松之注、巻51・孫皎伝、巻47・呉主伝、巻46・孫堅・孫策伝及び裴松之注
  • 羅貫中『三国志演義』120回本
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