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【三国志】牛金とは?曹仁に救われた勇将

目次

牛金って誰?

牛金(ぎゅうきん)は曹操配下の名将・曹仁に仕えのちに後将軍まで昇進した魏の武将です。

しかし曹操や曹仁、張遼などとは異なり陳寿『三国志』に独立した伝はありません。字・出身地・生没年・家族関係も不明で正史における具体的な戦歴は赤壁の戦い後に発生した江陵攻防での一件にほぼ限られます。

その一方で後世になると牛金の人物像は大きく広がりました。『三国志演義』では五百人を率いて呉軍へ突撃する血気盛んな猛将として描かれます。唐代に編纂された『晋書』では司馬懿の指揮下で諸葛亮軍や馬岱と戦い公孫淵討伐にも参加したとされました。

さらに『宋書』と『晋書』には、「牛継馬後」という予言を恐れた司馬懿によって毒殺されたという不気味な逸話まで残されています。なお『晋書』と『宋書』も二十四史に含まれる正史です。ただし『三国志』より後世に編纂され牛金の毒殺話には予言や符瑞が関係しています。

正史における牛金

陳寿『三国志』魏書巻九「曹仁伝」によれば赤壁の戦い後、曹仁は江陵に駐屯し周瑜の率いる呉軍と対峙していました。

周瑜は数万の兵を率いて進軍しその先鋒数千人が江陵へ到着します。曹仁は城上から敵軍を確認すると三百人を募り「部曲将」であった牛金に迎撃を命じました。部曲将とは直属部隊を率いる現場の指揮官と考えられます。しかし相手は数千人、牛金の兵はわずか三百人です。牛金隊はたちまち包囲され壊滅寸前に陥りました。

これを見た曹仁は陳矯らの制止を振り切り数十騎を率いて城外へ出撃します。曹仁は敵の包囲へ突入して牛金を救い出したうえ取り残された兵を助けるためもう一度敵陣へ突入しました。ここで「将軍はまことに天人である」「全軍がその勇気に服した」と称賛されたのは牛金ではなく曹仁です。

それでも牛金は数千人を迎え撃つ危険な任務を任された武将でした。曹仁から前線を任せられるだけの勇猛さを評価されていた可能性はあります。その後について陳寿は「牛金の官位は後将軍にまで至った」とだけ記しています。部曲将から後将軍へ昇進した以上江陵戦後にも相応の軍功を挙げたと考えられますがその過程は『三国志』にも裴松之注にも残されていません。

『演義』『晋書』『宋書』に描かれた後世の牛金

『三国志演義』の牛金

『三国志演義』では第51回「曹仁大戦東呉兵 孔明一気周公瑾」に登場します。

演義の牛金は敵を前に城へ閉じこもることを「臆病」と主張し自ら五百人を借りて出撃を願う勇猛な騎将です。丁奉と四、五合ほど戦った後、偽装退却を追って呉軍の包囲へ入り曹仁に救出されます。包囲と救出は正史を土台としていますが牛金が自ら出撃を願ったことや丁奉との一騎打ちは演義による脚色です。

その後も牛金は曹純とともに夷陵へ向かい曹洪と合流して甘寧を包囲します。しかし周瑜軍の救援に敗れ馬を捨てて逃走しました。さらに曹操が残した策によって周瑜が城内の罠にかかると牛金は負傷した周瑜を捕らえようと出撃します。周瑜が救出された後には三日間にわたって呉軍の陣前で罵声を浴びせました。

最後は周瑜の偽装死を信じた曹仁軍の夜襲で先鋒を務めますが伏兵に襲われて敗北します。演義の牛金は勇猛ではあるものの挑発や突撃を担当する猪突型の武将として描かれているのです。

『晋書』に加えられた戦歴

唐代に編纂された『晋書』宣帝紀では牛金は司馬懿の配下として再び登場します。

太和五年(231年)司馬懿は牛金の軽騎兵をおとりとして諸葛亮軍へ向かわせました。両軍が接触すると諸葛亮軍は退き、魏軍は祁山まで追撃したと記されています。

青龍三年(235年)には蜀の馬岱が魏へ侵攻しました。司馬懿は牛金を派遣し、馬岱軍を退けて千人余りを討ち取ったとしています。

さらに景初二年(238年)、司馬懿が遼東の公孫淵を討伐した際には牛金と胡遵らを伴う歩兵・騎兵四万の遠征軍が編成されました。牛金が四万を単独で指揮したのではなく司馬懿率いる遠征軍の主要武将として名前を挙げられた形です。これらの戦歴は陳寿『三国志』にはありません。ただし『三国志』が牛金の最終官位を後将軍と記していることを考えると江陵戦後も軍歴を重ねたという大筋には違和感はないでしょう。

『宋書』『晋書』の「牛継馬後」と毒殺伝説

牛金の最期について最も衝撃的な話を収めているのが『宋書』巻二十七「符瑞志上」です。

それによれば牛金は司馬懿に寵愛された武将でたびたび功績を挙げていました。しかし司馬懿は「馬の後を牛が継ぐ」という意味の予言を恐れます。

そこで司馬懿は普通の酒と毒酒を仕込んだ特殊な酒器を用意し自分は普通の酒を飲み牛金には毒酒を与えました。牛金はそれを飲むとその場で死亡したとされています。司馬師が「牛金は名将であり大いに用いることができるのに、なぜ殺したのですか」と尋ねると司馬懿は「石に現れた、馬の後には牛が来るという予言を忘れたのか」と答えました。

『晋書』元帝紀にも、司馬懿が「牛継馬後」の予言を恐れ牛金を毒殺したというよく似た話が収録されています。

ところが予言は別の形で実現したとされました。『宋書』と『晋書』は、晋元帝の母である夏侯氏が牛姓の小吏と密通して晋元帝を産んだという話を続けています。

正史と後世の牛金を比較

比較項目陳寿『三国志』・裴松之注『三国志演義』『晋書』『宋書』
史料の性格三国時代に比較的近い正史明代に成立した歴史小説唐代に編纂された正史南朝梁の沈約が編纂した正史
江陵戦の兵力三百人五百人記載なし記載なし
出撃の経緯曹仁に派遣される牛金が自ら出撃を願う記載なし記載なし
江陵戦の相手周瑜軍の先鋒数千人丁奉と一騎打ち記載なし記載なし
江陵戦の結果包囲され、曹仁に救出される曹仁に救出され、呉軍を退ける記載なし記載なし
後年の戦歴詳細不明夷陵戦、周瑜への挑発、夜襲諸葛亮軍へのおとり、馬岱撃退、公孫淵討伐「たびたび功績を挙げた」と記す
官位後将軍まで昇進官位の説明なし将軍として司馬懿に従う司馬懿に寵愛された名将
人物像前線を任された部隊指揮官勇猛だが猪突気味の騎将司馬懿配下の実戦的な武将功績を警戒され、予言の犠牲となる武将
最期不明描かれない牛継馬後を恐れた司馬懿に毒殺されたとする司馬懿に毒酒を飲まされ死亡したとする
史料上の注意裴松之注にも追加情報はない多くが創作・脚色戦歴と予言逸話を分けて見る必要がある符瑞志に収められた伝説的な話

独立した伝はなくても興味深い牛金

牛金は陳寿『三国志』では曹仁伝の一場面に現れるだけの武将です。三百人を率いて数千人の敵へ向かい包囲され、曹仁に救出される。正史の描写だけを見れば曹仁の勇気を際立たせる脇役だったとも言えます。

しかしその直後に置かれた「官位は後将軍にまで至った」という短い一文が牛金への興味を一気に深めてくれます。壊滅寸前から生還した部曲将はその後どのような戦場を渡り歩き、後将軍まで昇ったのでしょうか。『晋書』が伝える諸葛亮軍との戦いや馬岱撃退、公孫淵討伐はその空白を埋める記録として非常に興味深く感じられます。

一方『演義』は史料上ほとんど性格の分からない牛金に血気盛んで挑発的な猛将という個性を与えました。さらに『宋書』『晋書』の毒殺伝説は牛金を「予言を恐れた司馬懿の犠牲者」という悲劇的な存在へ変えています。

もちろんこれらをすべて事実として一つにまとめることはできません。特に毒殺話は正史に収められているからといってそのまま史実と断定できる内容ではありません。

それでもわずかな正史の記述から後世にこれほど多彩な物語が生まれたことには驚かされます。独立した伝がないからこそ「後将軍になるまでに何があったのか」と想像せずにはいられません。牛金は名前が華やかで記録の少なさそのものが不思議な魅力となっている実に興味深い武将だと思います。

参考資料・出典

  • 陳寿『三国志』裴松之注
  • 『三国志演義』第51回
  • 『晋書』巻一「宣帝紀」巻六「元帝紀」
  • 『宋書』巻二十七「符瑞志上」
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