クラーケン『王の鏡』と『ノルウェー博物誌』から正体を考える
クラーケンと聞くと巨大なイカやタコが触手を船に巻きつけ海中へ引きずり込む姿を思い浮かべる人が多いかもしれません。
しかし、13世紀頃のノルウェー文献『王の鏡』の英訳と18世紀のエーリク・ポントピダン『ノルウェー博物誌』を読むと古いクラーケン像は現代の「巨大イカ型モンスター」とは少し違います。
そこに現れるのは魚よりも島のように見える生物、海底そのものと間違われる怪物、魚を周囲へ集め沈む時には渦を起こすと恐れられた存在です。ポントピダンは腕や枝のような部分も記録していますが、それを現代のイカやタコと断定してはいません。
先に結論を述べるとこれらの資料はクラーケンの実在を証明するものではありません。確認できるのは中世から近世にかけて北方の海に島のような巨大生物がいると語られていたことです。
↓ポントピダン『ノルウェー博物誌』に掲載された海洋生物の図↓

13世紀『王の鏡』に描かれた島のような怪物
クラーケンを考えるうえで古い記述として参考になるのが13世紀頃に成立したとされるノルウェー文献『王の鏡』です。
今回参照したローレンス・マーセラス・ラーソンによる1917年の英訳ではこの生物が「kraken」と訳されています。
『王の鏡』の語り手はまだ紹介していない巨大な魚がいるもののその大きさは多くの人に信じてもらえそうにないため、語ることさえためらわれると述べています。この魚はめったに岸へ近づかず漁師の目に触れる場所にもほとんど現れないため、詳しく語れる者も少ないとされました。
その大きさを具体的な単位で示すことはできず目撃された時には魚よりも島のように見えたといいます。捕獲された例も死骸が見つかった例も聞いたことがないとも記されています。
魚を誘い込む巨大な口
『王の鏡』で特に印象的なのがクラーケンの食事方法です。
空腹になると激しくげっぷをするような動作を行いそれによって餌になるものが浮かび上がるため周囲の大小さまざまな魚が集まってくると語られています。その間、怪物は海峡やフィヨルドほども広い口を開け、魚が十分に入り込んだところで口を閉じ一度に捕らえるというのです。
ここで描かれているのは触手で船を襲う巨大イカではありません。島のような巨体ととてつもなく大きな口を持ち、魚を誘い込んで食べる「巨大な魚」に近い存在です。

ポントピダンは怪物話をどう扱ったのか
18世紀のポントピダンは『ノルウェー博物誌』第VIII章で海の怪物や珍しい海生動物を取り上げています。
第I節を読むと、彼が海の怪物の話を何でも無批判に信じていたわけではないことが分かります。ポントピダンは自分で行った観察、手元に届いた標本、漁師や各地の協力者から集めた話をもとに記述していました。
一方で漁師の間には珍しい生物を不吉と考える迷信があり奇妙な獲物が捨てられてしまうことにも触れています。また、珍しい話を信じすぎる態度だけでなく普通ではないという理由だけで否定する態度にも距離を取っています。
ただしその慎重さは現代の科学的調査と同じではありません。クラーケンの説明には伝聞、推測、宗教的な解釈が含まれています。したがって『ノルウェー博物誌』は実在する怪物の観察記録というより、18世紀の著述家が当時の証言を集め、未知の海の生物を理解しようとした資料として考えるのがが良いでしょう。
ポントピダンが記録したクラーケン
『ノルウェー博物誌』第VIII章第XI節でポントピダンはクラーケンを紹介しています。ここで原文はクラーケンを「三番目に取り上げるそして疑いなく世界最大の海の怪物」としています。
名称としては Kraken、Kraxen、Krabben のほか、Horven、Soe-horven、Anker-trold などが挙げられています。姿については丸く平たく、腕または枝のような部分が多数あると説明されました。
しかしポントピダン自身も得られた説明は完全なものからほど遠く、読者の好奇心を満たすというよりかえって刺激する程度だと認めています。
漁師は海の深さからクラーケンを察した
第XII節によるとノルウェーの漁師たちは海の深さと魚の集まり方からクラーケンがいると判断したといいます。
普段なら水深80〜100ファゾムほどあるはずの場所で、測ってみると20〜30ファゾム、時にはそれ以下しかないことがありました。そのような場所にはタラやリングなどの魚が多く、針を下ろすと次々に魚がかかったとされています。
漁師たちは浅くなった海底だと思っているものが実はクラーケンの背中であり、その上に魚が集まっていると考えました。そして測った水深がさらに浅くなるとクラーケンが海面へ上昇していると判断し、危険を避けるために急いで舟を離したというのです。
やがて海面に現れるとその背または上部はいくつもの小島が海藻に囲まれているように見えたといいます。ポントピダンは見えている部分の周囲を約1.5イングリッシュ・マイルと記しました。さらに海面から腕や角のようなものが伸び、時には中型船のマストほど高く太く見えたとも述べています。
もちろんこれは現代の測量によって確かめられた数値ではありません。ポントピダンが集めた証言の中にそのような途方もない大きさが語られていたという意味です。
沈む時に渦を起こす怪物
クラーケンは海面にしばらく留まった後、ゆっくり沈んでいくとされました。その際、巨大な体の動きによって海が盛り上がり、渦や強い流れが生じ、近くのものを引き込むと説明されています。
この記述を見る限りクラーケンは必ずしも人間を狙って襲う怪物ではありません。あまりにも巨大なため浮上や潜水だけで周囲の舟を危険に巻き込む存在です。意思を持った襲撃というより近づいただけで災害になる生物として恐れられていたように読めます。

クラーケンが魚を集める理由
ポントピダンの記述でもクラーケンは魚を周囲に集める存在です。ただしその仕組みは『王の鏡』とまったく同じではありません。
『ノルウェー博物誌』では、クラーケンが特有の強い匂いを発しそれに引き寄せられて魚が集まると説明されています。また老漁師たちの話としてクラーケンは数か月間食べ続けた後、同じほどの期間にわたって排泄し、そのため海面が濁って強い匂いや味を帯び、魚がさらに集まるという説も紹介されました。そしてクラーケンは腕や角のような部分を広げ、集まった魚を捕らえて食べるとされます。
しかしポントピダンは、この話を多くの者が語っているとしながらも確実だと保証することはできないと明記しています。生きたクラーケンを調べる機会がなかった以上、この説明を生態上の事実として扱うことはできません。
それでも「巨大な海の怪物が魚を誘い寄せて食べる」という骨格が『王の鏡』の英訳と18世紀の『ノルウェー博物誌』の双方に見える点は興味深いところです。
クラーケンは船を襲ったのか
ポントピダンはクラーケンが大きな害を与えた例はほとんど知られていないとしながら二つの話を紹介しています。
一つは1680年、若いクラーケンらしきものがアルスタハウグ教区の岩場の間に入り、伸ばした腕が岸辺の木々に絡んだという話です。木の根を曲げたり引き抜いたりしたものの岩の裂け目から抜けられなくなり、そのまま死んで腐敗し、耐えがたい悪臭を放ったとされています。
もう一つはフリードリヒシュタット近くの二人の漁師に関する話です。彼らが厚い泥のような粘液に覆われた大魚を引き上げた後、その場を離れようとしたところクラーケンの角または腕のような部分が船首側にかかり、舟が損傷して、辛うじて命をつないだと記されています。
さらにポントピダンは、順風を受けて帆走中の船が海上で停止したという話について、クラーケンが船底の下で腕を持ち上げた可能性を考えています。しかし直後に、自説を押し通すつもりはなく、判断は読者と将来の経験に委ねると述べました。
したがって、これらの資料だけから「クラーケンは触手で船を襲い、意図的に沈めた」とは分かりません。記録されているのは巨大な存在に舟が巻き込まれたという伝聞と、船を止める原因だったのではないかというポントピダンの推測です。
クラーケンは巨大イカとして描かれていたのか
ポントピダンはクラーケンを丸く平たく多数の腕または枝を持つ生物として説明しています。さらに多腕のポリプ状生物や枝分かれしたヒトデの仲間ではないかと考えました。ただしこれは18世紀の分類上の推測です。
『王の鏡』英訳のクラーケンは島のような巨大魚でありポントピダンのクラーケンは島のように浮かぶ一方で、腕や枝を持つ正体不明の生物です。少なくとも資料からは最初から姿の定まった「巨大イカ」だったとは言えません。
ダイオウイカはクラーケンの正体だったのか
『ブリタニカ百科事典』によるとダイオウイカは Architeuthis 属に分類される深海に生息する大型の頭足類です。八本の腕に加えて二本の長い触腕を持ち、非常に大きな目でも知られています。またマッコウクジラに捕食されることがあり、その体内からダイオウイカの痕跡が確認されることもあります。
巨大な体、長い腕と触腕、人間の目に触れにくい深海での暮らしはクラーケンと結びつけて考えたくなる特徴です。海上でその一部や死骸を見た人が正体不明の怪物だと思った可能性も想像できます。

海底だと思ったものが動き始める恐怖
自分が当時の小さな漁船に乗っていたと考えるとクラーケンの話がなぜ恐れられたのか少し分かる気がします。
いつもは深いはずの海が急に浅くなり、なぜか魚だけは次々に釣れる。喜んでいるうちに、その「海底」がゆっくり浮上し始める。やがて海藻に覆われた小島のようなものと、船のマストほどの腕が海面へ現れる――。
正体を知る手段も、海中を確かめる装置もない時代なら、巨大な怪物が下にいると考えてしまうのも無理はありません。私なら魚が釣れた喜びより、「今まで自分たちは何の上にいたのか」という恐怖の方が勝ち、全力で岸へ逃げると思います。
最後に
『王の鏡』のラーソン英訳ではクラーケンは魚より島に見える巨大な存在であり大口を開けて魚を誘い込みます。『ノルウェー博物誌』では海底や小島のように見え多数の腕や枝を伸ばし魚を集め、沈む時に渦を起こす怪物として紹介されました。
ただしどちらもクラーケンの実在を証明する資料ではありません。特にポントピダンは証言を集めながらも不確かな部分を認め、自分の分類や船を止めるという推測を読者に押しつけませんでした。
ダイオウイカには、巨大さ、長い触腕、深海に暮らすというクラーケンを連想させる特徴があります。しかし古い資料に含まれるすべての要素を説明できるわけではなく正体だと確定することもできません。が、考察は楽しい。
私にはクラーケンが特定の一匹の動物というより、海で出会った理解不能な現象や生物への恐怖が「島ほど巨大な怪物」という姿を与えられた伝承のように感じられます。正体が分からないからこそ人はその空白を想像で埋めてきたのでしょう。実在を断定できなくても暗い海の下に何かがいるかもしれないという感覚は、今読んでも不思議なほど怖く同時に心を惹きつけます。
↓他の伝説や伝承の話↓
参考文献
- 『王の鏡』(The King’s Mirror: Speculum Regale—Konungs Skuggsjá), ローレンス・マーセラス・ラーソン英訳, The American-Scandinavian Foundation, 1917年, p.125(クラーケンと訳された巨大魚の記述)
- エーリク・ポントピダン『ノルウェー博物誌』(The Natural History of Norway)英訳版, 1755年, 第VIII章第I節・第XI〜XIII節, pp.185–186, 210–218
- 『ブリタニカ百科事典』“Giant squid”(ダイオウイカの分類・形態・生態に関する記述)



コメント