陸遜の概要
三国志における陸遜(りくそん)といえば夷陵の戦いで劉備の大軍を火攻めによって破った名将として知られています。しかし、正史に記録された陸遜の仕事はそれだけではありません。地方官として飢饉に苦しむ人々を救い山越の反乱を鎮圧し、関羽を油断させて荊州攻略を成功へ導きました。その後も石亭の戦いで魏の曹休を大破し、蜀との外交や呉の内政にも関わり最後には丞相へ昇っています。
陸遜は字を伯言(はくげん)といい本名は陸議でした。
呂蒙が陸遜を後任に推薦した時点ではまだ遠方にまで名声が届いておらず関羽から警戒される人物ではなかったとされています。

正史と裴松之注釈における陸遜
江東の大族に生まれた陸遜
陳寿『三国志』巻五十八「陸遜伝」によれば陸遜は呉郡呉県の人で陸氏は代々江東に勢力を持つ大族でした。幼くして父を亡くし、一族の廬江太守・陸康のもとで暮らします。陸康は孫策に攻められた人物でしたがのちに孫権は兄・孫策の娘を陸遜へ嫁がせました。ここから孫氏政権と呉郡陸氏が過去の対立を乗り越え婚姻によって結び付いたことが分かります。
陸遜は二十一歳で孫権の幕府へ入りのちに海昌の県政を任されました。旱魃が続くと倉を開いて穀物を貧民へ配り農業と養蚕を奨励しています。また、会稽の山賊・潘臨や鄱陽の尤突らを討ち山越の人々を再編して精兵数万人を得ました。
陸遜は最初から机上の軍師として登場したわけではありません。地方行政で民を救い反乱鎮圧で兵を動かし人材と戸籍を整理するという、地道な実務を重ねて頭角を現した人物でした。
自分を告発した役人を褒めた
陸遜の人柄を示す興味深い記録があります。
会稽太守の淳于式は陸遜が民衆を無理に徴発し各地を苦しめていると孫権へ訴えました。ところが後日、陸遜は孫権の前で淳于式を「立派な役人です」と評価します。
孫権が理由を尋ねると陸遜は、淳于式が自分を告発したのは民を養おうと考えたからであり自分まで彼を悪く言えば君主の判断を乱してしまうと答えました。孫権はこれを「長者の行い」と称賛しています。もちろん淳于式の告発がどこまで事実だったのかは不明です。しかし陸遜が個人的な恨みよりも行政の目的を優先する人物として描かれていることは確かです。
関羽を油断させた「無名」という武器
建安二十四年(219年)、関羽が樊城方面で曹操軍を追い詰めていた頃、陸遜は呂蒙に対し関羽が戦功によって驕り北方への攻撃に集中しているためその背後を突くことができると進言しました。
呂蒙は孫権から後任を尋ねられると陸遜は思慮が深く、大任に堪えられる人物であるうえ「まだ遠くに名が知られておらず、関羽が警戒する相手ではない」と推薦します。
陸口へ着任した陸遜は関羽へ極端にへりくだった手紙を送りました。于禁を捕らえた関羽の功績を古代の名将以上だと持ち上げ、自分を未熟な書生のように見せたのです。関羽は手紙を読んで安心し陸遜に対する疑いを持たなくなりました。その後、陸遜は呂蒙とともに荊州攻略の前部を務め公安・南郡を攻略。宜都方面でも蜀の拠点を奪い降伏者を受け入れました。荊州奪取全体の中心は呂蒙でしたが関羽の心理を読み、油断させた陸遜の役割も非常に大きかったといえます。
夷陵の戦い―味方に疑われながら劉備を破る
黄武元年(222年)関羽の死に怒った劉備が呉へ侵攻すると孫権は陸遜を大都督に任命しました。陸遜は朱然・潘璋・韓当・徐盛・孫桓らを含む約五万人を指揮します。
劉備軍の士気が高いうちに戦うことを避けた陸遜は守備を固めて敵の疲労を待ちました。劉備が呉班の部隊を平地へ出して挑発しても伏兵を疑って攻撃を許しません。実際に劉備は谷間へ八千の兵を伏せており陸遜の判断は的中しました。
しかし、呉軍の諸将は陸遜の考えを理解できませんでした。陸遜を臆病者だと思い怒りを抱いたと記されています。しかも彼らの中には孫策時代から戦ってきた古参の将や孫氏一族の貴人がおりそれぞれが自負を持って陸遜の命令に従おうとしませんでした。陸遜は剣に手を掛け自分が任命されたのは「恥辱に耐え、重い任務を背負うことができるからだ」と言い軍令に従うよう厳命します。
劉備軍が長く駐屯して疲弊し山林の中へ陣営を移すと陸遜はついに攻撃へ転じました。最初に一つの陣を攻めた際は失敗しましたがそれによって敵陣を破る方法をつかみます。兵士一人一人に一束の茅を持たせ火を放ってから全軍で攻撃し、四十余りの陣営を撃破しました。
したがって夷陵の火攻めは『三国志演義』の創作ではありません。陳寿の正史本文にはっきりと記録された戦法です。
劉備は白帝城まで敗走しました。勝利後、呉軍の諸将はようやく陸遜へ心服します。孫権が「命令に背いた諸将をなぜ最初に報告しなかったのか」と尋ねると陸遜は彼らはいずれも国を支える腹心・爪牙・功臣であり国家の大事を成し遂げるために自分がへりくだったのだと答えました。
陸遜は敵に対して忍耐強かっただけではありません。自分を軽んじる味方に対しても感情的にならず勝利という結果が出るまで軍を壊さなかったのです。
また徐盛や潘璋らが劉備への追撃を求めた際、陸遜は魏が呉の背後を襲うと判断して撤退を決めました。ほどなく魏軍は三方面から呉へ侵攻しています。勝った勢いに任せず次の危険まで見抜いていたことも陸遜の優れた点でしょう。

石亭の戦いと軍政家としての陸遜
黄武七年(228年)呉の周魴が偽りの降伏によって魏の曹休を誘い出すと陸遜は大都督として迎撃しました。朱桓と全琮を左右に配置し自ら中央軍を率いて曹休を石亭で大破。正史は斬首・捕虜が一万余り牛馬や車両も一万に及んだと記しています。
その後の陸遜は、武将の枠を越えて呉の軍政を担いました。孫権は劉禅や諸葛亮へ送る外交文書を陸遜に確認させ必要があれば修正させています。陸遜は法を過酷にしすぎないよう求め危険の大きい夷州・珠崖遠征にも反対しました。
さらに陸遜は、「国は民を根本とし、強さは民の力から生まれ、財は民から出る」と論じています。火計で知られる人物でありながら、国家の土台を軍事力だけでなく民の生活に見ていたのです。
黄龍元年(229年)に上大将軍・右都護となり、赤烏七年(244年)には顧雍に代わって丞相へ就任しました。関羽を油断させた無名の青年はついに呉の軍事・政治・外交を支える最高幹部へ上り詰めたのです。
二宮事件と悲劇的な最期
陸遜の晩年、孫権の後継者をめぐって皇太子・孫和と魯王・孫覇の対立が深刻化しました。いわゆる二宮事件です。
陸遜は皇太子は正統な後継者として盤石の地位に置き、藩王である魯王とは待遇に明確な差を設けるべきだと主張しました。三、四度にわたって上書し都へ出て直接意見を述べることまで求めましたが孫権は許しませんでした。
陸遜に近い顧譚・顧承・姚信は流刑となりたびたび陸遜と書簡を交わしていた吾粲は獄中で死亡します。孫権は使者を何度も送り陸遜を厳しく叱責しました。
正史はその結果を「陸遜は憤恚して卒するに至った」と記しています。赤烏八年(245年)六十三歳でした。病名や医学的な死因は不明であり自殺したとも記されていません。確認できるのは相次ぐ叱責に憤りながら亡くなったことまでです。死後、家には余分な財産が残っていませんでした。
陳寿は陸遜について若く威名もまだ高くなかった時期に天下の英雄・劉備を破った知略を称賛し最後には「忠誠を尽くし国を憂えて身を滅ぼした。社稷の臣に近い」と評価しています。
陸遜の死後、息子の陸抗は父にかけられた二十項目の疑惑へ一つずつ返答しました。孫権は後年、陸抗に涙を流しながら讒言を信じて父との大義を損ねてしまったと認め陸遜を追及した文書をすべて焼かせています。

ここからは裴松之注釈における陸遜
裴松之注は、陳寿本文とは別の史書や家伝を引用し陸遜の経歴を補っています。
裴松之が引用する『陸氏世頌』によれば、陸遜の祖父・陸紆は城門校尉、父・陸駿は九江都尉を務めました。また『呉書』は夷陵で陸遜が持久策を説明しても諸将が理解せず、臆病だと思って憤ったことを詳しく伝えています。『呉録』には石亭へ出陣する陸遜に対し孫権自身が鞭を執って送り出したという破格の厚遇も記されています。
ただし裴松之は陸遜を無条件に称賛していません。
嘉禾五年(236年)陸遜は魏領の新市・安陸・石陽を襲撃しました。石陽では突然の攻撃に驚いた住民が城門へ殺到し門を閉めようとした魏側が自国の民を斬ったため多数の被害が出ました。
裴松之は小さな戦果のために無実の民を惨害へ追い込んだとして陸遜を厳しく批判しています。捕虜を後から保護しても大きな害を埋め合わせることはできないとも述べました。さらに魏将・逯式と文休の不仲を利用し偽書によって逯式を失脚させた計略についても陸遜ほどの人物が用いるには小さな策略だと批判しています。
裴松之は民間人被害と陸氏の子孫の没落を因果応報のように結び付けていますがこれは裴松之自身の道徳的な意見であり歴史的に証明できる因果関係ではありません。
裴松之注から見える陸遜は功績を補強する逸話を持つ一方で批判されるべき作戦も行った複雑な人物です。名将だからといってすべての行動が正しかったわけではありません。
『三国志演義』における陸遜
『三国志演義』の陸遜は正史の出来事を土台にしながら「若い書生が老練な英雄を知略で破る」という物語へ作り替えられています。
第七十五回では、陸遜は呂蒙の病気が仮病であることを見抜きます。そして関羽が警戒する呂蒙を退かせ名声のない人物を後任に据えて関羽を油断させる策をより明確な形で提案しました。
陸遜が後任になったと聞いた関羽は「孫権は見識が浅く、この若造を将に用いた」と笑います。正史では関羽が陸遜を警戒しなかったことまでしか分かりませんが『演義』は侮蔑の言葉を加え関羽の慢心と陸遜の若さを分かりやすく強調しています。

第八十三回では劉備軍を迎え撃つ大都督を誰にするかで呉の朝廷が割れます。闞沢は陸遜を「周瑜に劣らない」と推薦しますが張昭はただの書生、顧雍は若く人望が軽い歩騭は郡を治める程度の人物だと反対しました。
そこで孫権は壇を築き宝剣や白旄・黄鉞を授け陸遜を大都督として公に任命します。『演義』は陸遜を「身長八尺、顔は美玉のよう」と描きました。この容貌の記述は正史本文にはありません。それでも韓当や周泰らは書生に軍を任せることへ納得せず陸遜を公然と軽んじます。陸遜は孫権から授かった剣を抜き命令に従わなければ斬ると宣言しました。味方から侮られる構図は正史にもありますが、『演義』では会話や対立を増やしより劇的に描いています。
第八十四回の夷陵の戦いでは陸遜が劉備軍の七百余里に及ぶ連営を見抜き東南の風に乗せて硫黄や硝石を仕込んだ茅へ火を放ちます。正史にも火攻めはありますが風向き、火薬類、作戦の細部、炎に包まれる戦場は『演義』によって大きく脚色されました。そして勝利後、追撃する陸遜は諸葛亮が残した石兵八陣へ迷い込みます。黄承彦に助けられて脱出すると、「孔明には及ばない」と認めて兵を退きました。
この八陣図の怪異は正史本文にも裴松之注にもありません。『演義』は陸遜を劉備に勝つ天才として称賛する一方、最後には諸葛亮をさらに上位へ置くことで物語上の知将の序列を示したのでしょう。
第九十六回では石亭の戦いも描かれ陸遜は再び曹休を破ります。ただし陸遜が率いる兵を七十余万とするなど軍勢の規模は大幅に誇張されています。
正史・裴松之注釈・『三国志演義』の陸遜を比較
| 比較項目 | 陳寿『三国志』本文 | 裴松之注釈 | 『三国志演義』 |
|---|---|---|---|
| 出自 | 呉郡呉県の人。「代々江東の大族」と明記 | 『陸氏世頌』が祖父・陸紆と父・陸駿の官歴を補足 | 家系を紹介したうえで、美青年の書生として演出 |
| 若年期 | 地方行政、貧民救済、農桑の奨励、山越討伐で実績を積む | 地名や陸氏一族に関する情報を補足 | 行政官としての活動は目立たない |
| 関羽攻略 | 遠方での名声がなく、関羽に警戒されないことを利用。へりくだった手紙で油断させる | 主要な筋は正史本文にある | 呂蒙の仮病を見抜き、交代策を直接提案。関羽は陸遜を「若造」と嘲笑 |
| 夷陵での兵力 | 孫権から約五万人を任される | 『呉書』が持久策と諸将の反発を詳しく補う | 築壇・宝剣・節鉞の授与など、就任場面を劇的に描く |
| 味方との対立 | 孫策以来の古参や孫氏の貴戚が自負を持ち、命令に従わなかったと明記 | 諸将が陸遜を臆病と思い、憤ったことを補足 | 韓当・周泰らが書生の陸遜を公然と軽視 |
| 火攻め | 兵士に一束ずつ茅を持たせ、四十余りの陣を破る | 火攻め自体は正史本文の記録 | 東南風、硫黄、硝石などを加え、七百余里の連営が燃える大決戦へ脚色 |
| 八陣図 | 記録なし | 記録なし | 石兵八陣に迷い、黄承彦に救われて諸葛亮に及ばないと認める |
| 石亭の戦い | 朱桓・全琮を左右に置き、曹休を大破 | 『呉録』は孫権自身が鞭を執って陸遜を送ったとする | 基本的な勝敗は採用するが、七十余万の大軍など規模を誇張 |
| 政治家としての姿 | 外交文書の確認、法の緩和、民力の回復、遠征反対などを詳しく記録 | 複数の逸話や別史料を加える | 軍師・大都督としての見せ場が中心 |
| 否定的評価 | 石陽襲撃や偽書の計略そのものを記録 | 民間人被害と小細工を裴松之が厳しく批判 | これらへの道徳的批判は描かれない |
| 最期 | 二宮事件で孫権から繰り返し叱責され、「憤恚して卒す」。六十三歳 | 最期に関する大きな別説は示さない | 二宮事件と悲劇的な死を詳しく描かない |
比較すると、『演義』は陸遜の若さと鮮やかな策略を強調しています。しかし地方行政、外交、民政、後継者問題まで含めた人物の大きさは、むしろ正史の方が詳しく伝えています。

陸遜はなぜ周瑜より軍をまとめるのに苦労したのか?
ここからは史料で確認できる事実を踏まえた私的な考察です。
正史は陸氏を「世江東大族」と明記しています。一族の陸康は廬江太守を務め、陸遜自身も孫策の娘を妻に迎えました。陸遜は少なくとも江東社会では屈指の名門に属する人物です。
ただし周瑜の家系はさらに華やかでした。周瑜伝によれば一族の周景と周忠は後漢の太尉を務め父の周異は洛陽令でした。中央政界での官歴だけを比べれば周瑜の家は陸遜の家より天下に名の通った家柄だったと見る余地があります。一方の陸氏は江東に根を張る有力豪族です。しかし陸遜が夷陵で軍をまとめるのに苦労したという部分には明確な史料的根拠があります。
陳寿は陸遜の配下に孫策時代からの古参や孫氏一族の貴人がおりそれぞれが自分の経歴と地位を誇って命令に従わなかったと記しています。裴松之注所引の『呉書』も諸将が陸遜を臆病だと思い怒りを抱いたと伝えています。
周瑜は若い頃から孫策とともに江東平定を戦い二十四歳で「周郎」と呼ばれました。孫策の死後には張昭とともに孫権政権の中枢を担っています。赤壁の戦い以前から孫氏との個人的な結び付きと軍事的な実績を重ねていました。
それに対し夷陵以前の陸遜には関羽攻略という大功がありましたがその役割は正面から敵将を討ち破る華やかなものではありません。手紙で関羽を油断させ背後から荊州を崩す仕事です。能力は証明していても古参武将たちを黙らせるほどの戦場での威名はまだ完成していなかったのだと思います。
陸遜が苦労した理由は「名門でなかったから」というより、「名門の出身ではあるが、大都督として古参を従わせるだけの軍事的権威が、まだ共有されていなかったから」と考える方が自然です。
そして私はこの状況で陸遜が味方を処罰して恐怖で従わせるのではなく辱めに耐え、作戦を変えず、最後は勝利によって心服させたことに強くひかれます。
劉備の挑発にも、古参武将の悪口にも耐えた。最初の攻撃に失敗し、また笑われても耐えた。そして最も効果的な瞬間まで待ち続け、一度の火攻めで戦局をひっくり返した。陸遜の本当の強さは、火を放った瞬間よりも、それ以前の長い時間を耐え抜いたことにあったのかもしれません。
だからこそその最期はあまりにも悲しく感じます。
関羽を欺き、劉備を破り、曹休を退け、外交と内政でも孫権を支えた人物が最後にはその孫権から繰り返し疑いをかけられました。戦場では敵の罠を見抜き味方の反発さえ抑え込んだ陸遜も老いた君主の疑念と宮廷内部の後継者争いからは逃れられなかったのです。
正史は「憤恚して卒す」と、驚くほど短い言葉でその死を伝えます。しかし三、四度も上書し、都へ出て直接訴えることまで願いそれでも聞き入れられず親しい者たちが流刑や獄死へ追い込まれていく過程を読むとその短い四字が非常に重く感じられます。
もちろん裴松之が批判した民間人被害や偽書の計略もあり陸遜を完全無欠の聖人として描くことはできません。それでも呉のために働き続けた丞相が敵ではなく自らの君主の叱責によって憤りのうちに世を去った結末にはやりきれない思いが残ります。
孫権は後になって自らの過ちを認め陸抗の前で涙を流しました。しかしその謝罪を陸遜本人が聞くことはありませんでした。夷陵では陸遜は待つことで勝利しました。けれども晩年、孫権が目を覚ます時まで待つことはできなかった。その事実が陸遜の生涯を三国志屈指の悲劇にしているように思えてなりません。
参考資料・出典
- 陳寿『三国志』巻五十八・呉書十三「陸遜伝」「陸抗伝」、巻五十四・呉書九「周瑜伝」「呂蒙伝」
- 裴松之注所引『陸氏世頌』『呉書』『呉録』ほか
- 『三国志演義』第七十五回、第八十三回、第八十四回、第九十六回

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