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【戦国】伊達政宗とは?「独眼竜」の実像・朝鮮出兵・母への手紙

伊達政宗の居城だった岩出山城のある岩出山町出身ですこんにちわ。自然だらけで江合川が流れているが福島へも遠い。そりゃ仙台に拠点移すよね(感想)。

目次

独眼竜!

伊達政宗と聞くと三日月形の前立を付けた兜や眼帯姿を思い浮かべる人が多いかもしれません。しかし政宗自身の書状や『伊達家文書』を読むとそこに現れるのは物語の中の豪傑だけではありません。

豊臣秀吉と初めて会った興奮を家臣へ伝える若者。朝鮮で軍勢を動かす侵攻側の大名。遠く離れた母へ朝鮮木綿を贈る息子。そして徳川家康と領地をめぐって交渉する領主でもありました。

伊達政宗とは?

伊達政宗は永禄10年(1567)8月3日、米沢城主・伊達輝宗の嫡男として生まれたと伝わります。母は最上義守の娘・義姫です。

幼名を梵天丸といい幼少期に疱瘡を患って右眼を失明したとされています。

13歳で愛姫を迎える

『性山公治家記録』によれば、天正7年(1579)の冬、13歳の政宗は三春城主・田村清顕の娘である愛姫を正室に迎えました。同記録には雪深い板谷峠を避けて小坂路を通ったという趣旨の記事があります。

これは二人の恋愛を伝える話ではありません。伊達家と田村家を婚姻で結ぶ政治的な意味の大きい婚姻でした。

ただし『性山公治家記録』は政宗たちの時代から百年以上後に編纂された記録です。輿入れの年や経路を伝える重要な史料ではありますが愛姫や政宗の内心まではわかりません。

↓愛姫について↓

15歳の初陣と18歳の家督相続

同じく『性山公治家記録』は天正9年(1581)に15歳の政宗が父・輝宗に従い伊具郡方面へ初めて出陣したと記しています。

政宗は最初から独立した「独眼竜」として戦ったわけではありません。父の軍事行動に同行するところから武将としての経験を積んだことになります。

天正12年(1584)には輝宗から家督を譲られました。その後の政宗は南奥州の諸勢力と戦い、天正17年(1589)には会津へ進出します。しかし中央では豊臣秀吉が全国統一を進めていました。政宗は翌年、小田原へ向かい秀吉のもとへ参陣します。

秀吉との初対面を喜んだ政宗

小田原参陣には「白装束で秀吉の前へ出た」という有名な話があります。しかし今回確認した政宗自筆の書状から直接分かるのは少し違う姿です。

天正18年(1590)の政宗自筆書状には秀吉から茶の湯に招かれたことや秀吉自慢の茶道具や刀剣を見せてもらったことが家臣へ報告されています。

政宗はかなり喜んでいたようで花押を書き損じたことまで追伸で知らせています。天下人との初対面を切り抜けた緊張と興奮がそのまま紙面に残っているようです。後世の派手な謝罪伝説よりも、本人の筆跡が残るこの書状の方が若い政宗の人間らしさをよく伝えていると感じます。

白装束で秀吉に参上した逸話は本当なのか?

伊達政宗と豊臣秀吉の関係で特に有名なのが政宗が死を覚悟して白装束で小田原へ参上したという逸話です。

「遅参したなら殺されても仕方がない。ならば最初から死装束で行こう」といういかにも政宗らしい派手なエピソードとして知られています。

しかし今回確認した『政宗君治家記録引証記』では少なくとも該当する小田原参陣の記事に白装束や死装束についての記述は見当たりませんでした。

記録によれば、天正18年(1590年)6月5日に政宗は小田原へ到着します。しかしすぐに秀吉との対面が許されたわけではありません。

6月7日には前田利家・浅野長吉・施薬院全宗らが政宗の宿所を訪れ会津を攻め取ったことや、佐竹氏・相馬氏などとの戦いを続けたことについて厳しく問いただしました。これに対して政宗は弁明しています。

そして6月9日ようやく秀吉の石垣山の陣営へ召し出されました。つまり今回の資料から確認できる流れは

  • 6月5日 小田原到着
  • 6月7日 前田利家らから詰問を受ける
  • 6月9日 秀吉の石垣山陣営へ召される

というものです。有名な白装束の逸話は後世の伝承としては非常に魅力的です。ただし少なくとも今回確認した記録だけでは「政宗が本当に白装束で秀吉の前に現れた」とすることはできません。

正直なところ眼帯姿と同じように政宗という人物は後世の創作と相性が良すぎる気もします。

遅参して秀吉を怒らせる。
死を覚悟して白装束で登場する。
それでも命を救われる。

「主人公イベントとして完成度が高すぎる」とはいえ実際に政宗が小田原参陣でかなり危険な立場にあったこと自体は、今回の記録からも確認できます。

これは命を懸けて秀吉のもとへ向かった政宗の覚悟を象徴する後世の伝承として考えるのが自然でしょう。

文禄の役で朝鮮へ渡る

豊臣政権に組み込まれた政宗は、文禄の役にも動員されました。

提示資料の『記録抜書』には、文禄元年(1592)に政宗が秀吉へ朝鮮渡海を願ったもののその年は許されなかったとあります。この記述が示すのは政宗について「最初から嫌々連れて行かれただけ」とは書けないことです。

ただし渡海を願った理由までは記されていません。名誉欲や領土欲などを勝手に補うこともできません。

文禄2年(1593)の動き

日付史料から確認できる動き
3月15日肥前名護屋から出航しようとしたが、風が悪く延期する
3月22日名護屋を出て壱岐方面へ進む
4月13日朝鮮の釜山へ上陸する
4月18日浅野長政父子とともに釜山を出る
4月23日蔚山方面で行動した後、梁山へ入る
7月24日母・義姫へ近況を報告し、朝鮮木綿を贈る

これは観光でも武者修行でもありません。政宗は豊臣政権による朝鮮侵攻に参加した大名の一人でした。史料を読む際もその事実を曖昧にしない方がよいでしょう。

日本側記録にある「朝鮮人八十三人討捕」

提示資料に収められた『記録抜書』には、浅野長政父子とともに蔚山方面で行動した政宗軍について「朝鮮人八十三人討捕」とあります。さらにその首を浅野方へ送ったという内容まで記されています。

ただしこれは日本側が残した戦果報告です。相手側の記録と照合せず83人を確定した死者数として扱うことはできません。それでも政宗の朝鮮渡海を華やかな海外遠征として描くだけでは不十分です。母へ土産を贈る人物と侵攻軍を率いた人物は同じ政宗でした。史料に残るこの両面を隠さないことが大切だと思います。

母・義姫へ朝鮮木綿を贈る

文禄2年7月24日付の保春院・義姫宛伊達政宗書状は仙台市博物館に現物が残る重要文化財です。『大日本古文書 伊達家文書』650号にも収録されています。

この書状からは政宗が朝鮮から母へ近況を報告し朝鮮木綿を贈ったことが分かります。政宗は家臣の病状や帰国に関する情報にも触れていました。

戦場にいながら母を安心させようとしたのでしょうか。それとも大名家の贈答として異国の品を届けたのでしょうか。本人の気持ちまでは断定できません。ただ遠征先から母へ手紙と品物を送った事実は確かです。

ここには「独眼竜」という呼び名だけでは見えない政宗の顔があります。

徳川家康の「領知覚書」と仙台移住

秀吉の死後、政宗は徳川家康側につきました。

関ヶ原合戦直前に家康が政宗へ与えた「徳川家康領知覚書」も現存しています。これは上杉景勝を牽制する見返りとして秀吉に没収されていた旧領などを政宗へ与えると約束した文書です。

実現すれば所領が百万石を超える内容だったため後に「百万石の御墨付」と呼ばれました。

ただしこれはあくまで約束を記した覚書です。記載された領地の全てが、最終的に政宗へ与えられたわけではありません。ここにも家康と政宗の間にあった現実的な取引が見えます。

慶長6年(1601)政宗は岩出山から仙台へ本拠を移し仙台城と城下町の建設を進めました。現在まで残る大崎八幡宮や瑞巌寺などの建築物も政宗期の文化事業を物的に伝える史料です。一方、北上川改修、石巻港、仙台米の流通を全て政宗一人の功績として一括する書き方には注意が必要です。

実際の事業は家臣、奉行、職人、農民など多くの人々によって進められました。政宗が藩主として事業を命じたことと、本人一人が造ったかのように語ることは分けるべきでしょう。

支倉常長をヨーロッパへ送る

慶長18年(1613)、政宗は支倉常長らを海外へ派遣しました。

支倉がスペインを経てローマへ到達したことは、ローマ市公民権証書をはじめとする国宝「慶長遣欧使節関係資料」によって確認できます。

この使節は通商と外交の交渉を担いました。しかし大きな通商成果を得た成功物語として、単純化することはできません。

支倉が元和6年(1620)に帰国した頃、日本ではキリスト教をめぐる政策が大きく変化していました。

それでも仙台から太平洋を越えて使節を送り出した事実は小さくありません。政宗が戦と国内政治だけでなく、海外との交渉に可能性を求めたことを示しています。

晩年と死

その後の政宗は仙台藩主としての立場を固めました。

寛永13年(1636)5月24日、政宗は江戸で死去します。数え年70歳でした。

死の直前の言葉や家光との会話については多くの逸話があります。

史料の政宗は格好よさだけでは語れない

伊達政宗は後世に「独眼竜」と呼ばれた戦国大名です。

若くして家督を継ぎ、南奥州で勢力を広げました。その後は豊臣秀吉に従い文禄の役では朝鮮へ渡りました。関ヶ原期には徳川家康と領地をめぐる約束を交わし、江戸時代には仙台を本拠とする大名として生き残りました。

政宗自身の書状を見ると秀吉との初対面を喜び、遠い朝鮮から母へ木綿を贈る人間らしい姿が見えます。

その一方日本側記録には朝鮮人を討ち取ったという生々しい戦果報告も残されています。

個人的にはこの矛盾した姿にこそ歴史上の政宗がいるように思います。家族を気遣う優しさがあったからといって、侵攻に参加した責任が消えるわけではありません。戦で冷酷な判断をしたからといって、私生活の感情まで全て失っていたとも限りません。派手な甲冑と眼帯だけなら、政宗はここまで長く人を引きつけなかったでしょう。

史料から見える政宗は野心的で現実的です。それでいて驚くほど細やかな手紙を残した人物でした。その単純には割り切れない人間らしさが、伊達政宗の本当の面白さなのだと思います。

参考文献

  • 『大日本古文書 伊達家文書』
  • 伊達政宗書状 文禄2年7月24日付 保春院宛(『伊達家文書』650号)
  • 伊達政宗自筆書状 天正18年 小田原参陣後の家臣宛書状
  • 伊達政宗卿伝記史料(『伊達家治家記録』第1 性山公・貞山公『政宗君治家記録引証記』『伊達鑑』)
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