【戦国】浅井三姉妹とは? 初・江・茶々の生涯と最期

目次

はじめに 「浅井三姉妹」は史料にどう現れるのか

茶々、初、江は北近江の戦国大名・浅井長政とお市の方との間に生まれた三人の娘として知られています。

父・長政の最期は太田牛一『信長公記』天正元年(一五七三)八月の記事から追えます。そこには八月二十七日に浅井久政が自害し翌日に長政と赤尾清綱が「生害」したこと、長政の十歳の嫡男が関ケ原で処刑されたことが記されています。しかし市の方や三人の娘の退去は書かれていません。

成長後の三人は確かな書状や日記に姿を現します。初は京極家に連なる常高院として大坂の和平交渉に立ち江は徳川秀忠の妻となり茶々は秀吉の書状でお拾、のちの秀頼の母と呼ばれました。同じ親から生まれた姉妹が京極・徳川・豊臣という異なる家に結び付いたのです。この記事ではそんな三人の生涯をたどります。

初―二つの陣営を往復した常高院の生涯と最期

彼女は京極高次の妻となり高次の死後には常高院と呼ばれました。

初の行動が最も鮮明になるのは大坂の陣です。『駿府記』慶長十九年(一六一四)十二月十八・十九日条は「京極若狭守母常高院殿」が大坂城から京極忠高の陣所へ出て徳川方の阿茶局、本多正純と会ったと記します。同書はさらに常高院を秀頼の母の妹だと注記します。ここでいう「京極若狭守母」は家中での母・家長格を示す呼称であり、この一語だけから忠高の実母だとは判断できません。『当代記』にも阿茶局と城内から出た大蔵卿局および京極高次の妻がもっぱら和平について対談したとあります。二つの記録は初が単なる使いではなく、両陣営が対面する場に立ったことを裏づけます。ただし会談の発言内容は残っていません。「初一人の説得で和睦が成立した」「姉を泣いて説得した」といった場面までは分かりません。

和平後の慶長二十年正月六日、豊臣秀頼が常高院へ送った自筆書状も現存します。秀頼は年始などの祝儀への礼を述べました。これは初が徳川方との交渉に関与しながら甥・秀頼との贈答関係を保っていたことを示す静かな史料です。『駿府記』には同年春にも常高院が大坂へ入る記事があり、彼女は一度だけでなく両者の間を往復していました。しかし夏の陣を止めるには至りませんでした。

初は落城後も生き寛永十年(一六三三)八月二十七日に没しました。常高寺の墓塔には正面に「常高寺殿松岩栄昌大姉」側面に「寛永十暦癸酉年」「八月廿七日」と刻まれています。これらから確実にいえるのは初が姉のいる豊臣方と京極・徳川方との接点に立ち三姉妹のうち最も遅い時期まで生きたということです。

江―「秀忠夫人浅井氏」から大御台所へ

江について最も慎重に扱うべきなのは幼少期と最初の婚姻です。佐治一成、羽柴秀勝、徳川秀忠へと三度嫁いだという生涯は広く知られますが佐治家との婚姻時期や実態には異説があり秀勝との婚姻年にも説の違いがあります。

確かな一通が文禄五年(一五九六)の伏見大地震後に徳川家康が送った返書です。原文の宛所は「御屋しき」署名は「内府」で本文そのものに「江」とは書かれていません。しかし伝来と文書調査によって「徳川秀忠夫人浅井氏に送った消息」と特定されています。家康は地震を心配する手紙を受け取ってうれしく思うこと自分と息子は無事だから安心するように、やがて江戸へ下った折に会って話そうと伝えました。この書状によって遅くとも一五九六年には浅井氏の女性が秀忠の妻であり家康と直接書状を交わす立場にあったことが確認できます。

政治や家系だけでは見えない生活の断片も残ります。京都の呉服商・雁金屋の注文帳には慶長九年(一六〇四)江の注文とされる呉服十反について紅を基調とし、模様を「いかにも小柄に」とする指示があります。ここから直ちに江の性格まで論じることはできませんが、将軍家の女性が衣服の色、構成、模様の大きさを具体的に注文した事実は注目されます。また江が姉・常高院へ送った手紙も伝わります。将軍が北ノ丸へ移るめでたい日に天候がよいことを喜び祝儀の魚への礼を述べ、署名を「五」としました。形式的な礼状であっても姉妹間の往復書簡が続いていた証拠です。

江は寛永三年(一六二六)九月十五日に江戸で没したと同時代に近い記録群は伝えます。『東武実録』には江戸から「大御台所」が同日に逝去したとの知らせが届いたとする記事があります。

茶々―秀頼の母として大坂城に残った生涯と最期

彼女が確かな肉声に近い形で現れるのは、豊臣秀吉の自筆書状群です。太閤の手紙(桑田忠親)によれば茶々宛ての秀吉自筆書状はごく少数ながら残り、天正十八年(一五九〇)九月の「おちゃちゃ」宛書状などが知られます。少なくともこの頃には彼女が秀吉の身近な女性として書状を受け取る位置にいたことが分かります。後世に広まった「淀君」という一つの名だけで通すと書状が示す「茶々」や秀頼との関係を示す「御ふくろ様」という異なる顔を見落としてしまいます。

とりわけ重要なのが文禄二年(一五九三)八月から文禄五年閏七月ごろまでの間に書かれたと考証される新出書状です。病気の茶々が嫌っていた灸を我慢して受けたことを秀吉が褒め食事を取るよう勧め、「さいり」、すなわちサンマを送ると記しています。追伸には「さすかおひろい御ふくろとミへ申候」とあります。「お拾」は後の豊臣秀頼ですから、この一文は茶々が秀頼の母であることを同時代の当事者の筆で直接示します。同時に、病気、灸、食事、贈り物という日常の具体性も伝えます。

慶長三年(一五九八)三月十五日の醍醐の花見では醍醐寺の義演が『義演准后日記』に秀吉と女中たちが終日桜を見たと記しました。醍醐寺の史料解説は、この女中に淀殿や北政所らが含まれたとします。これは茶々が秀吉晩年の大規模な儀礼の場にいたことを示します。秀吉の死後、茶々は幼い秀頼の母として大坂城にありました。現存史料で一貫して見えやすいのは「政治家・茶々」よりも、まず「秀頼の母」という位置です。

大坂冬の陣の和平では妹の常高院が徳川方の阿茶局らと会いました。『駿府記』『当代記』は会談の存在を記す一方、茶々自身が何を語りどの条件をどう判断したかは記していません。後世の物語のように、姉妹が面前で激しく言い争ったと描く根拠はありません。慶長二十年(一六一五)五月六日付の長崎奉行・長谷川藤正書状は戦場で得た情報として秀頼と「御ふくろ様」は大坂で一戦し果てる意向だと報じます。これは落城二日前の生々しい情報ですが書き手は大坂城内にいたわけではありません。茶々本人の決意表明ではなく徳川方周辺で伝えられた戦況情報として読むべきでしょう。

五月八日の『駿府記』は秀頼と「御母儀」大野治長、速水守久らが二ノ丸の一画に籠もったと記し幕府側から秀頼母子らへ切腹を命じる判断が下されたと伝えます。国立公文書館の史料解説もこの日に秀頼と淀殿が自害し、大坂夏の陣が終わったと整理しています。

浅井三姉妹を史料で比較

比較項目初(常高院)江(崇源院)茶々(淀殿)
正確な生年同時代史料では確定できない通説は天正元年諸説があり
史料上の主な呼称常高院殿、京極若狭守母秀忠夫人浅井氏、御屋しき、五、崇源院おちゃちゃ、御ふくろ様、御母儀、淀殿
確実な婚家・立場京極高次の妻、京極家の母・家長格徳川秀忠の妻、将軍家の大御台所秀吉の妻の一人、秀頼の母
大坂の陣との関係徳川方と豊臣方の和平会談に参加夫・秀忠の徳川方に属する。本人の具体的行動は史料上不明秀頼と大坂城に残り、最終局面をともにした
最期寛永十年八月二十七日没。墓塔銘で確認寛永三年九月十五日没。翌年の忠長建立供養塔が追善慶長二十年五月八日、秀頼とともに大坂城で死去
史料から見える特徴陣営間を移動し対面交渉に立った書状・注文・墓碑から将軍家での生活と母の立場が見える秀吉書状と戦況記録から、秀頼の母としての位置が一貫して見える

三者三様の人生に乱世そのものを見る

ここからは筆者の感想です。三姉妹の人生を並べた時まず覚えるのは率直な驚きです。同じ父母のもとに生まれた三人が、初は京極家、江は徳川将軍家、茶々は豊臣家へと分かれました。大坂の陣ではその三つの家の結び付きが一つの戦場に集まります。初は両陣営の間を通り、江は攻城側の将軍・秀忠の妻であり、茶々は城内で秀頼と最期を迎えました。一つの家族の系図がそのまま天下の権力地図になったかのようです。

さらに驚かされるのは姉妹を結ぶ痕跡が戦争の記録だけではないことです。江は初へ祝いの魚の礼を書き、秀頼は常高院へ年始の贈り物を感謝しました。秀吉は病む茶々に食事を勧め、サンマを送りました。いずれも短い記録ですが、城、軍勢、婚姻政策という大きな言葉の奥に、贈り物を受け取り、相手の無事を案じ礼を返す日常が確かにあったことを知らせます。その日常の延長にやがて姉の城を妹の夫の軍が包囲する現実が来たと思うと言葉を失います。

初は和平の場に立ちながら姉と甥を救い切れずその後も十八年を生きました。江は滅んだ浅井家の娘でありながら新しい徳川政権の将軍の妻、次代の将軍の母となりました。茶々は天下人の栄華の中心に立ったのちその子とともに大坂城の一画へ追い詰められました。誰が最も幸福だったのか本人たちの言葉が乏しい以上、私たちには決められません。長く生きたことと心が安らかだったことは同じではなく敗れて死んだことだけで一生の価値が決まるものでもないからです。

それでも三人を眺めると、「乱世を体現した姉妹」という表現が大げさには思えません。父の家の滅亡、母の再婚と死、天下人の政権、新しい幕府の成立、そして豊臣家の滅亡。その大転換が、三人の婚家、子ども、住まい、最期に直接刻まれています。しかも進んだ道は三者三様でした。橋を渡り続けた初、新政権の内側で次代へ血をつないだ江、旧政権の最後まで母として残った茶々。姉妹でありながらまるで戦国の終わり方を三方向から見せられているようです。

資料は彼女たちの胸の内を十分には語りません。その沈黙を小説的な台詞で埋めるのではなく分からないものは分からないまま受け止めたいと思います。残された短い手紙、日記の一行、墓石の年月日だけでも三人が時代に流されるだけの影ではなく、それぞれ異なる場所で生き、書き、交渉し、母となり、最期を迎えたことは伝わります。これほど近い血縁がこれほど違う歴史の出口へたどり着いた。その事実こそ浅井三姉妹の人生が今なお胸を打つ最大の理由ではないでしょうか。

参考史料

  • 太田牛一『信長公記』巻六、天正元年八月二十七・二十八日条
  • 大村由己『柴田退治記』(天正十一年成立)
  • 小瀬甫庵『太閤記』巻六 
  • 太閤の手紙(桑田忠親)
  • 『義演准后日記』慶長三年三月十五日条
  • 徳川家康書状 秀忠夫人浅井氏宛
  • 雁金屋注文帳(慶長九年、江の呉服注文)
  • 江書状 常高院宛
  • 豊臣秀頼自筆書状 常高院宛(慶長二十年正月六日付、大阪城天守閣蔵)
  • 『駿府記』慶長十九年十二月十八・十九日条、慶長二十年五月八日条
  • 『当代記』慶長十九年十二月十八・十九日条
  • 長谷川藤正書状 長崎町年寄中宛
  • 常高院墓所宝篋印塔銘(常高寺)
  • 『東武実録』寛永三年九月十五日条
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