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【中世後期】アランソン公とは?ジャンヌ・ダルクが「私の良き公」と呼んだ戦友

目次

はじめに

ジャンヌ・ダルクの物語ではどうしてもジャンヌ本人に注目が集まります。それは当然です。農民出身の少女が軍を動かし、オルレアンを救い、シャルル7世をランスで戴冠させる。人生の密度があまりにも濃すぎます。

しかし、ジャンヌは一人で戦ったわけではありません。彼女の周囲には実際に兵を動かし、戦場で行動を共にした武将たちがいました。

その中でも特に重要な人物の一人が、アランソン公ジャン2世です。

『ペルスヴァル・ド・カニー年代記』では、ジャンヌがアランソン公を「Mon bon duc」、つまり「私の良き公」と呼んでいたと記されています。これはかなり印象的です。ただしこれを恋愛感情と断定するのは危険です。中世の文脈では、深い信頼や親愛、戦友としての結びつきを示す表現と見る方が良いでしょう。

アランソン公とは?

アランソン公ジャン2世は、フランス王家につながる高位貴族アランソン家の人物です。ただし、彼の若い時代は順風満帆ではありませんでした。『ペルスヴァル・ド・カニー年代記』によると、アランソン公は若くして父を失い、さらに1424年のヴェルヌイユの戦いでイングランド側に捕らえられました。

捕虜となった彼は、ベッドフォード公のもとで3年以上拘束され、解放には多額の身代金を求められたと記されています。貴族だから楽な人生だった、というわけではまったくありません。むしろ、戦争によって家も財産も大きく揺さぶられた人物でした。

「公爵なのに捕虜。しかも身代金で大打撃」

この時点でかなりつらい人生です。

ジャンヌ・ダルクとの関係

ジャンヌが歴史の表舞台に現れるとアランソン公との関係が深まっていきます。

『ペルスヴァル・ド・カニー年代記』では、ジャンヌがオルレアン公の解放にも関心を持っていたことが記されています。そしてアランソン公は、オルレアン公の娘を妻としていたため、ジャンヌはアランソン公と親しくなったと説明されています。

さらにジャンヌは、アランソン公の母や妻にも会い、その後、アランソン公を他の誰よりも近しい人物として扱い、彼を「私の良き公」と呼んだとされています。

ここで大事なのは、アランソン公が単なる同行者ではなく、ジャンヌにとってかなり信頼された貴族武将として描かれていることです。

ジャンヌは神の使命を語る少女でした。一方、アランソン公は身代金で苦しみ、領地回復を望む若い高位貴族でした。立場は違います。でも「フランスを取り戻す」という目的では重なっていたように見えます。

ジャンヌから支援要請を受けるアランソン公

オルレアン解放後、ジャンヌとアランソン公はロワール方面へ動きます。『ペルスヴァル・ド・カニー年代記』では、ジャルジョー攻略後、ジャンヌがアランソン公を呼び、翌日ムン方面へ向かうので軍勢を準備するよう告げた場面があります。

ここは個人的にはかなり胸が熱くなります。

普通に考えれば若い少女が高位貴族に対して「明日ここへ行くから軍を準備して」と言う構図です。現代感覚でもかなり異常です。まして中世フランスです。身分差も性別の壁も大きい時代に、アランソン公はジャンヌと行動を共にしています。

「この子に任せて大丈夫なのか?」ではなく、実際に軍を動かす側に回っている。ここに、ジャンヌのカリスマだけでなく、アランソン公の決断力も見える気がします。ジャンヌが奇跡を語る人物なら、アランソン公はその奇跡を現実の軍事行動に変える側の人物だったのかもしれません。

ロワール方面作戦での活躍

ジャンヌとアランソン公はジャルジョー、ムン、ボージャンシー方面へ進みます。

年代記では、ジャンヌとアランソン公が並んで行動する場面が繰り返し出てきます。ジャルジョー攻略後、ムン方面へ向かい、さらにボージャンシーを攻める流れです。

この一連の戦いは、単なる地方戦ではありません。オルレアン解放後、フランス軍が勢いを取り戻し、シャルル7世のランス戴冠へ向かう重要な局面でした。

ジャンヌは象徴でした。しかし象徴だけでは軍は動きません。実際に諸将をまとめ、軍事行動を進める存在が必要です。その意味でアランソン公はジャンヌの戦友であり、実務面の重要な支えだったと言えるでしょう。

ランス戴冠とアランソン公

ロワール方面での勝利後、ジャンヌたちはシャルル7世をランスへ導きます。『ペルスヴァル・ド・カニー年代記』では、アランソン公がジャンヌとともに王の戴冠への道を進み、その後パリ方面まで同行したことが記されています。

ランスでの戴冠は、ジャンヌの使命の大きな到達点でした。王太子シャルルが正式に王として聖別されることは、政治的にも宗教的にも大きな意味を持ちます。

この場面にアランソン公が関わっていたことは重要です。彼はジャンヌの奇跡を遠くから眺めていた人物ではありません。ジャンヌの軍事行動の中心近くにいて、王を戴冠へ導く流れに加わっていたのです。

パリ攻撃と王の消極姿勢

しかし、ジャンヌとアランソン公の勢いはいつまでも続きませんでした。パリ攻撃の場面ではジャンヌとアランソン公は攻勢を続けようとします。ところが、シャルル7世側は慎重でした。

『ペルスヴァル・ド・カニー年代記』では、ジャンヌとアランソン公らがセーヌ川を渡って再び攻撃しようとしたところ、王がその意図を知り、アランソン公が架けさせた橋を夜のうちに壊させたと記されています。

これはかなり強烈な記述です。

もちろん、王側にも政治的・軍事的な判断があったのでしょう。無謀なパリ攻撃を避けたかった可能性もあります。ここは一方的に「王が悪い」と断定するのは危険です。ただ、年代記の描き方では、ジャンヌとアランソン公は前へ進みたかった。しかし王とその側近たちは止めた。そういう構図がはっきり見えます。勢いに乗っていた二人が、政治の壁にぶつかる場面です。

ジャンヌとアランソン公の別れ

パリ攻撃後、シャルル7世はロワール方面へ戻ります。アランソン公は妻のもとへ向かいジャンヌは王のそばに残りました。

この別れについて、年代記はジャンヌが大い悲しんだと記しています。特にアランソン公との別れを悲しみ、彼を非常に慕っていたという内容です。

ここも恋愛と考える必要はありません。でも、戦場で信頼できる相手を失うことのつらさは、現代人にも伝わります。

ジャンヌは孤独だったと思います。彼女は「神に選ばれた乙女」と呼ばれましたが、実際には人間です。味方の中でも、理解してくれる人、共に進んでくれる人は限られていたはずです。その中でアランソン公はかなり大きな存在だったのでしょう。

その後、アランソン公はノルマンディ方面への作戦のため、王にジャンヌを同行させてほしいと求めました。しかし、王の側近たちはジャンヌとアランソン公が再び一緒に行動することを認めなかったと記されています。

この部分は切ないです。ジャンヌにとっても、アランソン公にとっても、「一緒に戦えばまだ何かできたかもしれない」と思える別れだったのではないでしょうか。

復権裁判から見たジャンヌの名誉回復

もう一つの資料であるジャンヌ復権裁判関係の資料では1455年から1456年にかけて、ジャンヌの過去の有罪判決が見直され、最終的に無効とされた流れが説明されています。

この資料はアランソン公個人の行動を詳しく語る資料としてではなく、ジャンヌが死後にどのように名誉回復されたかを知るための資料として使えます。

つまり、アランソン公が支えたジャンヌは当時は異端者として処刑されました。しかし後に、その裁判そのものが不当だったと見直されたのです。

アランソン公がジャンヌを信頼していたことは、結果的に見ればまったく的外れではなかった。むしろ彼はかなり早い段階でジャンヌの力を信じた高位貴族の一人だったと言えます。

まとめ

アランソン公ジャン2世はジャンヌ・ダルクの物語において、もっと注目されてもよい人物です。

彼は若くして父を失い、ヴェルヌイユの戦いで捕虜となり、身代金によって大きな負担を背負いました。そんな苦しい立場にありながら、ジャンヌと出会い、ロワール方面作戦やランス戴冠への道で行動を共にしました。

『ペルスヴァル・ド・カニー年代記』では、ジャンヌが彼を「私の良き公」と呼び、他の誰よりも親しく接したと記されています。もちろん、この記述はアランソン家に近い人物によるものなので、少し慎重に読む必要があります。それでも、ジャンヌとアランソン公の関係が特別な信頼関係として描かれていることは間違いありません。

個人的には、ここに強く惹かれます。ジャンヌは奇跡の少女として語られます。でも、奇跡は一人では形になりません。

その言葉を信じて軍を動かす人がいて、危険な戦場で横に立つ人がいて、はじめて歴史は動きます。アランソン公は、まさにその一人でした。

ジャンヌが「私の良き公」と呼んだ若き貴族。それは単なる美談ではなく、絶望的な戦争の中で、互いに前へ進もうとした二人の記憶だったのかもしれません。

参考文献

  • ペルスヴァル・ド・カニー『ペルスヴァル・ド・カニー年代記』H. Moranvillé編、フランス歴史協会、1902年刊行版
  • T. Douglas Murray 編『Jeanne d’Arc, Maid of Orleans, Deliverer of France』所収「ジャンヌ・ダルク復権裁判」英訳資料
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