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【朝鮮】李舜臣とは?一次資料で読む鳴梁海戦・失脚・最期と日本軍側の記録

目次

はじめに

李舜臣(イ・スンシン、1545~1598年)は豊臣秀吉による朝鮮侵攻、いわゆる文禄・慶長の役で水軍を率いた李氏朝鮮の武将です。1591年に全羅左道水軍節度使となり翌年の開戦後は玉浦・泗川・閑山島などで日本水軍と戦いました。のちに三道水軍統制使となりますが1597年には罷免・投獄され、一兵卒にまで落とされます。その後、元均の率いた朝鮮水軍が漆川梁で壊滅すると復職し残存艦隊を立て直して鳴梁海戦に臨みました。1598年、明水軍とともに戦った露梁海戦で銃弾を受け戦死します。

現在の李舜臣は「国を救った英雄」として語られます。しかし英雄物語だけを先に置くと史料が伝える人物像をかえって見失います。彼の強さは奇跡や無敵伝説ではありません。船を整え、兵糧を集め、偵察を続け、崩れた組織を再建する力にありました。また日本軍が李舜臣個人を名指しして「恐れた」とする同時代文書は、確認できる範囲では存在しません。

朝鮮・明側の一次資料に残る李舜臣像

朝鮮側史料から見る李舜臣

朝鮮側で最も重要なのは李舜臣自身の『乱中日記』と朝廷へ送った報告の草案を集めた『壬辰状草』です。『乱中日記』に並ぶのは華々しい勝利だけではありません。天候、見張り、船の修理、兵糧、人事、病気、処罰、家族への心配が淡々と記されています。そこから見えるのは超人的な「軍神」というより毎日の準備を怠らず艦隊という組織を動かし続けた実務家の姿です。

『壬辰状草』では泗川海戦で亀船を先鋒として用いたことや閑山島海戦で日本船を広い海へ誘い出し、鶴翼の陣を敷いて火砲を集中したことが報告されています。亀船の実戦参加は同時代史料で確認できますが船体全面を鉄板で覆った「鉄甲船」だったとまでは断定できません。またこれらは李舜臣側の戦果報告なので撃破数などは日本側史料とも照合する必要があります。

日記には逃亡や命令違反をめぐる厳しい処罰も出てきます。李舜臣は誰にでも優しい聖人として軍を率いたわけではありません。規律を保つためには苛烈な判断も下した軍人でした。英雄を美化せずこの厳しさまで含めて読むことで戦時の艦隊を維持することがどれほど重い仕事だったかが見えてきます。

復職後の鳴梁海戦について朝鮮王が明へ送った報告は、李舜臣らが戦船十三隻と哨探船三十二隻を集め百三十余隻の敵船と戦ったと記します。さらに計三十一隻を破ったと主張しますが数字をそのまま中立的事実とみなすことはできません。それでも漆川梁の敗北後に残存艦隊を再編し、日本軍の西海進出を阻んだという骨格は明瞭です。

一方『宣祖実録』には冷酷な政治の現実も残ります。1597年3月、宣祖は李舜臣を「朝廷を欺いた」「敵を討たず逃した」「他人の功を奪った」などと責め法によれば死刑に当たるとして徹底した拷問取調べまで求めました。これはあくまで王が掲げた容疑であり罪が証明された記録ではありません。しかし王の態度が異常なほど苛烈だったことは確かです。

戦死後、李徳馨は沿岸の民が口をそろえて李舜臣を称賛し深く慕っていたことを朝廷に報告しました。古今島では短期間に人家と兵糧が集まりその死を聞いた老若が泣き、互いに慰め合ったといいます。戦場の英雄である以前に人と物資が集まる秩序を作れた指揮官だった。これこそ朝鮮側史料に残る李舜臣像です。

明側史料から見る李舜臣

ここで注意したいのは『明史』が明代そのものの一次資料ではないことです。同書は清代に完成した官撰史書なので本章では明将の同時代報告と『明神宗実録』を中心に見ます。そこに現れる李舜臣は朝鮮国内だけで称賛された英雄ではなく明の軍人や官僚にも能力を認められた同盟軍指揮官でした。

鳴梁海戦後の『宣祖実録』には明の経略・楊鎬と宣祖の対照的な発言が記録されています。宣祖が李舜臣の戦果は職分を果たしただけで大功ではないという趣旨を述べると楊鎬は「李舜臣は好漢である」と反論しました。散り散りになった戦船を収拾し敗戦の後に大功を立てたことは大いに褒賞すべきだ、と評価したのです。これは李舜臣の価値が後世の神格化によって初めて作られたのではなく戦時中の明側にも認識されていたことを示します。

露梁海戦直後には明水軍の指揮官・陳璘が「統制使李舜臣、身先士卒、中丸而殞」と報告しました。李舜臣は兵士に先んじて戦い、弾丸に当たって死んだ。という意味です。別の陳璘の軍事報告では包囲された李舜臣を見て自ら救援に向かい日本軍を退かせたこと、李舜臣と明将・鄧子龍が戦死したことが記されています。陳璘自身の功績を上申する文書でもあるため戦果の数字には慎重であるべきですが李舜臣が最後まで前線の戦闘に加わっていたことは味方の明将による即時報告からも裏づけられます。

陳璘は李舜臣の死を報告すると同時に統制使の職を空席のままにできないとして速やかな後任任命も求めました。この事務的な一文は重要です。明軍にとって李舜臣はただ称賛される象徴ではなく、連合作戦の継続に欠かせない指揮官の一人だったことがうかがえます。

明中央の『明神宗実録』も戦後の論功で陳璘の水軍功績を最上位に置きながら、李舜臣を名指しし朝鮮側で顕彰と恩恤を行うよう記しています。つまり明側史料は李舜臣だけが戦争を終わらせたとは語りません。明水軍の役割を中心に据えつつ同盟軍の有力な指揮官としてその死と功績を公式に認めています。

なお、有名な「戦いは急である。私の死を知らせるな」という最期の言葉は柳成龍の戦後回想『懲毖録』に見える伝承です。陳璘の即時報告には記されていません。「流れ弾」だったとも確認できません。英雄らしい言葉を完全に否定する必要はありませんが同時代の即時報告と戦後に書かれた回想は分けて扱うべきでしょう。

日本軍側からはどう見られていたのか

結論から言えば確認できる同時代の日本側文書には李舜臣を実名で評して書いた記録は見当たりません。ただし朝鮮水軍が日本軍の海上交通にとって重大な障害だったことは日本側の文書から読み取れます。

1597年7月16日付の小西行長・藤堂高虎・脇坂安治・加藤嘉明・島津義弘らの連署状は朝鮮側の「番船」が唐島を拠点に日々出動し「日本通船、渡海一切不罷成」すなわち日本船の通航や渡海ができない状態になったと訴えています。日本軍は諸将の水軍を集めて攻撃し朝鮮船多数を破ったと報告しました。これは朝鮮水軍の存在を放置できず共同作戦を組むほど重く見ていた証拠です。

しかしこの文書が書かれた時期、李舜臣はすでに罷免され水軍の指揮官は元均でした。しかも文書は日本側の勝利を申告する戦果報告です。李舜臣が不在でも日本軍が朝鮮水軍そのものを海上輸送上の脅威と認識していたことを示す史料です。

また1593年3月3日付の漢城在陣諸将連署状には釜山方面からの兵糧輸送が山道や分断された経路のため容易でないという認識が現れます。ただしそこにも李舜臣の名はなく輸送難のすべてを彼の水軍だけに帰すことはできません。日本軍は対馬・釜山間の航路や沿岸拠点を維持しており「補給を完全に断った」という表現も誇張です。

日本側一次資料から慎重に推測できるのは李舜臣を含む朝鮮水軍の活動が日本軍に護送・警戒・水軍の集中を強いる現実的な軍事問題だった。というところまでです。後世の『脇坂記』『高麗船戦記』『甫庵太閤記』を同時代人の率直な証言のように扱わずこの限界を守る方がかえって李舜臣の実績を確かなものにできます。

李舜臣への感想と朝鮮王朝内部の責任

李舜臣の生涯で最も胸を打つのは、「一度も負けなかった英雄」という飾られた看板ではありません。疑われ拘束され、地位も艦隊も失った後で、それでも残された船と人を集め直し再び海へ出たことです。病や不安、家族への悲しみを抱えながら職務を投げなかった。その粘り強さに私は激しいほどの敬意を覚えます。

同時に宣祖と朝廷の一部が見せた対応には、強い怒りを禁じ得ません。敵軍が国内にいる最中、実績ある水軍指揮官を苛烈な容疑で引きずり下ろし死刑と徹底した取調べまで口にする。後任の元均のもとで艦隊が壊滅すると今度は李舜臣を呼び戻す。彼が鳴梁で戦果を挙げても宣祖は職分の範囲だと功績を小さく扱い、明の楊鎬の方が率直に「大功」と評価しました。能力を冷静に使うより猜疑、面子、派閥、人事上の責任逃れを優先した政治は国家と兵士を危険にさらしたと言わざるを得ません。

さらに皮肉なのは李徳馨も元均の話で李舜臣を誤解し、現地で初めて民衆の支持を知ったことです。現場を見ず対立する将の言葉や宮廷内の空気で人物を判断する。この足の引っ張り合いは醜く戦時指導として厳しく非難されるべきです。李舜臣は自国の不信と混乱にも耐え続けたのです。

ただしこれを「朝鮮人は仲間の足を引っ張る民族だ」という話にしてはいけません。史料が責任を問わせる相手は朝鮮人全体ではなく、宣祖、朝廷の意思決定者、誤った情報を広めた一部の将官です。同じ朝鮮人の沿岸住民は李舜臣を慕いその死を聞いて泣きました。彼を支えた兵士、船大工、物資を運んだ民もいたはずです。民族への悪口に逃げれば誰が何を誤ったのかという本当の問題がぼやけます。

李舜臣を偉大にしたのは伝説の亀船でも敵が震えたという未確認の逸話でもありません。準備を積み崩壊した組織を立て直し、不当な扱いを受けても任務を放棄せず、最後には兵の先頭で命を落としたことです。神話を削ってなお、いや神話を削ったからこそその姿はいっそう重くまぶしく見えます。

参考資料・出典

  • 李舜臣『乱中日記』
  • 李舜臣『壬辰状草』
  • 『宣祖実録』
  • 陳璘「揭帖」「四提督塘報」
  • 『明神宗実録』巻339
  • 慶長2年7月16日付、小西行長ほか連署状
  • 文禄2年3月3日付、漢城在陣諸将連署状
  • 柳成龍『懲毖録』
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