幕末の会津戦争では多くの女性が鶴ヶ城に籠城しました。その中でも特に知られているのが後に新島八重と呼ばれる山本八重です。
八重は単に城内へ避難した女性ではありません。弟の衣服を着て男装し二本の刀と元込め式七連発銃を携えて城に入りました。さらに籠城中は夫の川崎尚之助らとともに鉄砲の扱い方を教え、城の防衛に加わったと伝えられています。
少女時代から鶴ヶ城籠城戦、京都で女子教育に関わり始めるまでを紹介します。
砲術師範の家に生まれた山本八重
山本八重は弘化2年(1845年)11月3日、会津藩砲術師範・山本権八の娘として生まれました。六人きょうだいの五番目で山本覚馬の妹にあたります。
山本家は代々兵学を家業とする家でした。家禄は100石で裕福な家ではなかったものの父母は子どもたちを明るく伸びやかに育てたと本書は記しています。
八重は幼いころから裁縫や機織りを覚える一方で薙刀や鉄砲の扱いも学びました。八重自身の回想によれば、少女時代から男子の遊びや振る舞いを好み、13歳のころには約60キログラムに相当する米四斗俵を、一日に四回も肩まで上げ下げしたといいます。これは八重本人が後年語った話であり、重量挙げの記録が残っているわけではありません。しかし周囲から「怪力の持ち主」と見られていた理由を伝える逸話ではあります。
やがて八重は会津藩校・日新館蘭学所の教授だった川崎尚之助と結婚しました。尚之助も砲術を得意としており、八重は父だけでなく夫からも火器の扱いを学んだとされています。

八重の銃術・逸話
八重の銃術に関する興味深い逸話として白虎隊員の伊東悌次郎に射撃を教えた話が紹介されています。山本家の隣に住んでいた白虎隊員の伊東悌次郎です。
悌次郎は砲術に強い関心を持っていました。そこで八重はゲベール銃を貸し与え自分は機を織りながら射撃を教えたといいます。弾が思うように当たらない悌次郎に対しては、銃口の照準を星に合わせる「照尺」の使い方なども教えました。
さらに八重は鉄砲だけでなく大砲の撃ち方も教えたとされています。つまり人に教授できるほど八重は銃の扱いができたという逸話です。

運命の慶応4年8月23日
慶応4年8月23日(1868年10月8日)、新政府軍が会津城下へ迫りました。
その日は朝から冷たい雨が降っていました。鶴ヶ城の周囲には約400軒の武家屋敷があり、およそ4000人の家族が暮らしていたと本書は記しています。
城下では敵軍の接近に備え、男性には登城命令が出されていました。女性や子どもについては鐘を合図とし一番鐘で準備、二番鐘で出発、三番鐘までに入城を終える手順が決められていました。
しかし新政府軍の進撃は予想以上に速く会津藩側は十分な籠城準備を整えられませんでした。雨の中で警報の鐘が鳴り、城下は大混乱に陥ります。
母の佐久や兄嫁は女性が城に入れば食料を消費するだけで、かえって足手まといになると考えていました。ところが八重は自分は死ぬ覚悟で入城すると主張します。
また男たちが食事や身の回りの仕事までしていれば戦闘力が落ちるため、城を守るには女性の力も必要だと説得しました。母たちは八重の意見に従い、一緒に鶴ヶ城へ入ることになります。
弟・三郎の姿で城へ入る
当時の八重は、本書の年齢表記では24歳でした。
八重は鳥羽・伏見の戦いで戦死した弟・山本三郎の衣服と袴を身につけました。足には麻の草履を履き、腰には大小二本の刀を差し、肩には元込め式七連発銃を担いだとされています。
さらに帯には約100発分の弾丸を巻きつけていました。
明治42年(1909年)の『婦人世界』に掲載された八重の手記によれば、八重は弟の敵を討たなければならないという気持ちから、三郎の姿をして城へ入ったと回想しています。
八重は母の佐久、兄嫁のうら、幼い姪のみねとともに城の北側へ回り、三の丸北門の埋門から入城しました。城内では父の権八や夫の川崎尚之助と再会しています。
圧倒的な火力差の中での籠城戦
本書が引用する『会津若松史』によれば、会津藩と新政府軍には大きな火力差がありました。
会津側の大砲が四斤山砲を中心としていたのに対し、新政府軍はアームストロング砲、施条砲、山砲、臼砲など100門を超える大砲を持っていたとされています。
会津藩も約4000挺の小銃を保有していましたが、その半数は火縄銃でした。雨の中では火縄銃の火薬が湿り、まともに発射できないこともありました。西洋銃もありましたが、弾薬不足によって十分に使用できなかったと本書は説明しています。開城時に新政府軍へ引き渡された会津側の銃は、西洋銃1170挺と火縄銃1811挺だったと記されています。
一方、新政府軍は約3万挺の小銃を持ち、その中にはスペンサー銃、エンフィールド銃、スナイドル銃などが含まれていました。会津側の銃より性能の高いものが2万挺を超えていたとされています。この差を見れば、鶴ヶ城を守る戦いがどれほど厳しかったかが分かります。
八重と夫の尚之助らは、城内の人々に鉄砲の撃ち方を教えました。兵役を外れていた高齢者たちにも城壁の狭間から射撃させ、八重自身も城の防衛に関わったとされています。

白旗が立った日
激しい籠城戦の末、会津藩は降伏を決断しました。
本書が『会津戊辰戦争増補』から紹介する記述によれば降伏を知らせる白旗は多数の白い布を集めて縫い合わせたものでした。縫っていた女性たちは涙を流し、針を進めることさえ難しかったと八重は回想しています。
白旗は三本用意されました。一本は正面の石橋西端、一本は黒鉄御門、もう一本は藩主の御座所前に立てられました。
9月22日午前10時、北追手門前に白旗が掲げられました。新政府軍の使者が各陣地を回り、すべての発砲を中止させたといいます。
死ぬ覚悟で弟の姿をまとい、七連発銃を担いで城に入った八重。その八重が最後に目にしたのは、勝利の旗ではなく、城内の女性たちが泣きながら縫った降伏の白旗でした。
兄・山本覚馬を頼って京都へ
会津戦争後の明治4年(1871年)11月、八重は母の佐久や姪のみねとともに京都へ向かいました。京都では、会津戦争中に死亡したと思われていた兄・山本覚馬が生きていました。
八重たちに覚馬の生存がどのように伝わったのかについて本書も「その辺は不明」としています。したがって、詳しい経緯を推測で補うことはできません。
京都に移った八重は覚馬の介護をしながら、兄が進めていた女子教育にも関わるようになりました。
覚馬は女子教育の重要性を主張し、明治5年(1872年)、九条家の旧屋敷を利用して女紅場を開設しました。本書では、これを日本最初の女学校と位置づけています。
八重は京都へ来て約5カ月後、覚馬の斡旋によって女紅場の教官となりました。辞令に記された役職は「権舎長兼機織教導試補」です。
少女時代から身につけていた機織りの技術が戦争後の京都で女子教育に生かされることになりました。銃を扱う八重の姿ばかりが目立ちますが彼女は機織りもでき、その技術を人に教えられる女性でもあったのです。

八重の本当の強さとは
山本八重の人生で最も印象的なのは七連発銃を担いで戦ったことだけではありません。
彼女は戦争が迫ると弟の姿をまとって城へ入りました。女性がいなければ男たちが戦いに集中できないと説き、籠城後には鉄砲の扱いを城内の人々へ教えました。
そして故郷が敗れた後も立ち止まらず京都へ移って女子教育に関わり始めています。ここからは個人的な感想ですが、私は八重を単純に「幕末最強の女性」と呼ぶよりも、置かれた状況に応じて自分にできることを実行した女性だと考えたいです。
城が危機に陥ったときには銃を持ちました。戦争が終われば今度は機織りを教えました。戦場と教室では、必要とされる力がまったく違います。それでも八重は、自分が身につけてきたものを無駄にしませんでした。
七連発銃を担いだ姿は確かに格好いい。しかし敗北の後にもう一度人生を立て直したことこそ、山本八重の本当の強さだったのではないでしょうか。

参考資料・出典
- 『山本八重 銃と十字架を生きた会津女子』
