幕末の会津戦争には武士だけでなく女性たちも深く関わっていました。その中でも強烈な印象を残す人物が中野竹子です。
竹子は会津藩士・中野平内の娘として語られる女性で母こう子、妹優子とともに後世「娘子軍」とも呼ばれる会津の婦女隊に加わりました。ただし今回参考にした資料では、彼女たちを単純に「女性だけの正式な軍隊」とは描いていません。
むしろ城下が危機に陥り、藩主家を守りたい、会津のために戦いたいという思いから、自ら戦場へ向かった女性たちとして描かれています。その姿は華やかな英雄譚というより、追い詰められた城下で「自分たちにもできることをしたい」と立ち上がった人々の記録に近いです。
新政府軍を拒んだ鶴ヶ城
会津戦争の舞台となった鶴ヶ城は、深い堀と強固な石垣を持つ堅城でした。資料では、門も重い鉄扉で、虎口と呼ばれる出入口の構造も巧みだったと説明されています。つまり簡単に敵を通す城ではありませんでした。
しかし新政府軍は会津へ迫り、城下にも戦火が及びます。城の周辺では砲撃があり、小田山からも城へ砲弾が撃ち込まれました。城内には多くの女性たちも入り、照姫を囲んで守ろうとしていたとされています。
資料には、大書院で女性たちが照姫を囲み、懐剣を持ち、いざとなれば城を枕に討死する覚悟をしていた、という内容が見えます。この部分はかなり重いです。現代の感覚では「逃げればいい」と思ってしまいますが、当時の彼女たちにとっては、城と主君を見捨てることができなかったのでしょう。
中野竹子たちが戦場へ向かった理由
水島菊子の手記として紹介される記述では、竹子たちが最初から鶴ヶ城に入っていたわけではありません。
中野竹子、母こう子、妹優子、そして依田菊子・依田まき子らは、照姫が坂下にいると聞いて向かったものの、それが誤報だと知ります。そこで家老・萱野権兵衛に、自分たちも戦いたいと願い出たとされています。
その結果、翌日、鶴ヶ城へ向かって進撃する衝鋒隊に同行することを許されました。ここで重要なのは、彼女たちが「命令されて戦場に出た」というより、自分たちから戦うことを望んだと記されている点です。
しかもその夜には、非常に痛ましい相談もありました。手記によれば、中野こう子と竹子は、まだ若く美しい優子が敵に捕らえられ、辱めを受けるくらいなら、今夜のうちに殺してしまおうと相談していたといいます。
それを聞いた水島菊子と姉の依田まき子が、どうにか思いとどまらせた、という内容です。ここは、読んでいて胸が詰まります。戦場に行く覚悟だけではありません。女性として敵に捕らえられる恐怖まで現実のものとして考えなければならなかった。会津戦争の悲惨さが、この一場面だけでも強く伝わってきます。
薙刀を手にした六人
翌朝、六人は身支度を整えます。資料では、髪を結い、着物は女性のものながら、羽二重の鉢巻と襷をかけ、細い兵児帯に裾をくくり、脚絆に草履を紐で締め、大小の刀を差し、薙刀を持って出発したとあります。竹子の薙刀には、短冊が結び付けられていました。
そこには、次の歌が詠まれていたとされます。
ものゝふの
猛き心にくらぶれば
数にも入らぬ
我身ながらも

この歌は、自分は武士たちの勇ましさに比べれば数にも入らない身である、という謙遜のようにも読めます。しかし実際の竹子は戦場へ向かっています。
口では自分を小さく見せながら行動では命を懸ける。この落差がかえって竹子の覚悟を強く感じさせます。途中、六人は百姓家に立ち寄り食事を受けます。
彼女たちは百円、二百円という大金を持っていましたが死ぬ覚悟でいたため、もう不要だとして百姓に与えたと記されています。この描写も印象的です。
「どうせ死ぬなら金はいらない」と言うのは簡単ですが、実際にそれをして戦場へ向かうのは普通ではありません。この時点で彼女たちは、帰るつもりではなかったのだと思います。
涙橋での戦い
竹子たち六人は、幕府脱走兵を中心とする衝鋒隊の後ろについて進みます。資料では、その人数は四百余人とされています。一行は、阿賀川の支流である湯川にかかる涙橋に達しました。現在は柳橋と呼ばれる場所です。
この橋は、かつて罪人が家族と水盃を交わし、涙ながらに別れた場所であったため、涙橋と呼ばれていたと説明されています。そこで会津方は防衛線を張り、長州・大垣の兵を待ち受けました。やがて衝鋒隊が襲撃を受け、多くの死傷者を出します。資料では、衝鋒隊側に七十人もの死傷者が出たとされています。
その激戦の中に、竹子たち婦女隊もいました。水島菊子の手記によれば、中野竹子は正面から来た弾丸を額に受けて亡くなったとされています。さらに妹の優子は、母こう子に対して、姉の首級を敵に渡さないよう、自分が介錯すると申し出たとあります。
優子は敵と戦いながら竹子のもとへ近づき、首を取って白羽二重の鉢巻のようなものに包んだと記されています。ただし、女性の力だけでは髪が絡んで容易に取れず、男性が手伝ったとも書かれています。
この場面は、美談として軽く扱えません。姉を守るために首を落とす。敵に渡さないためとはいえ、妹にとってどれほど残酷な行為だったか。読む側も、簡単に「勇ましい」とだけは言えない場面です。
竹子の死後、城へ入った女性たち
竹子を失った後、婦女隊は衝鋒隊とともに退きます。その後、家老の萱野権兵衛らから「城外で戦えば死ぬだけだ。それより城に入り戦傷者の看護にあたってほしい」と頼まれたとあります。彼女たちはこれを受け入れ三日ほど後、武装して城門へ向かいました。
城門では合言葉として「山」「川」のやりとりがあり入城を許されたとされています。城に入った女性たちは戦いの様子を伝えると「女子ながらよく働いてくれた」と褒められ、菓子をもらったとも記されています。
竹子はすでにいません。しかし、残された女性たちは、戦うだけでなく、城内で負傷者の看護という役割を担うことになります。ここも会津婦女隊の大事な部分だと思います。彼女たちは「戦って散った女性たち」だけではありません。生き残った者は、別の形で会津を支えたのです。
中野竹子という人物をどう見るべきか
中野竹子については、後世の伝説や美化も多い人物です。
今回の資料だけで見るなら、断定できるのは竹子が母こう子、妹優子らとともに戦場へ向かい、涙橋付近の戦闘で命を落としたと記されていることです。また、彼女の薙刀に辞世のような歌が結び付けられていたこと、妹優子が敵に首級を渡さないよう介錯したことも、水島菊子の手記に基づく記述として確認できます。
資料では六人の婦女隊の行動が中心に描かれ、竹子はその中で最も象徴的な戦死者として語られている印象です。だからこそ、竹子を語る時は、彼女ひとりを英雄化しすぎるより、母こう子、妹優子、水島菊子、依田まき子ら、同じ場にいた女性たちの存在も一緒に見るべきだと思います。

まとめ
中野竹子は、ただ「薙刀を持って戦った美しい女性」というだけの人物ではありません。資料から見える彼女は、会津が追い詰められる中で、自ら戦場へ向かい、涙橋で命を落とした女性です。
その周囲には、娘を殺してでも辱めから守ろうとした母、姉の首級を敵に渡すまいとした妹、そしてその場面を記憶に残した水島菊子たちがいました。正直、この話はかっこいいだけでは済みません。痛ましいし、苦しいし、現代の私たちから見れば「そこまでしなくても」と思う部分もあります。
けれど、彼女たちが守ろうとしたものは単なる城ではなかったのでしょう。主君への忠義、家の名誉、会津で生きてきた誇り、そして自分たちの尊厳。
それを失うくらいなら、戦う。
そう考えた女性たちが確かにいました。中野竹子の名前が今も残るのは、若くして散った悲劇性だけではなく、追い詰められた時に「自分はどう生きるか」を選んだ姿が、読む人の心に刺さるからだと思います。強いから美しいのではなく、怖くても退かなかったから、彼女の姿は今も忘れられないのです。
参考資料・出典
- 『山本八重 銃と十字架を生きた会津女子』
- 水島菊子「會津婦女隊の思ひ出」
