【ルネサンス】フランシス・ドレークとは何者だったのか? 海賊か英雄か

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フランシス・ドレークの概要

フランシス・ドレーク(1540年頃~1596年)はイングランドの航海者・私掠船長・海軍指揮官です。1577年から1580年にかけて世界一周を成し遂げ1588年のスペイン艦隊(アルマダ)との戦いではイングランド艦隊の有力指揮官として戦いました。

ただし、ドレークを単純に「偉大な探検家」とだけ紹介すると人物像の半分しか見えません。彼の航海はスペイン領やスペイン船への襲撃と結びついており若い頃にはジョン・ホーキンスの奴隷貿易にも参加していました。イングランドでは英雄、スペイン側から見れば海賊。そして現代から見れば奴隷貿易にも関与した人物です。

いや最初から評価が三方向に割れています。ですがこの割り切れなさこそドレークという人物を知る面白さであり、難しさでもあります。

若き日の航海と奴隷貿易

ドレークは若い頃、親族でもあった航海者ジョン・ホーキンスの船団に加わりました。ホーキンスは西アフリカで人々を捕らえあるいは買い集め、スペイン領アメリカで売る大西洋奴隷貿易を行っていました。

船団に参加したジョブ・ホートップの航海記によれば、1567年にプリマスを出た船団には国王所有船ジーザス・オブ・リューベックやミニオンなどが含まれ、ドレークは小船ジュディスの船長を務めました。船団はアフリカで多数の人々を捕らえ、カリブ海方面へ運んで売買しようとしています。これはドレークの経歴から外すことのできない事実です。

1568年、船団はメキシコ湾岸のサン・フアン・デ・ウルアでスペイン側の攻撃を受け、壊滅的な損害を出しました。ジュディスを率いたドレークは脱出して帰国します。この経験は、のちのスペインへの敵意や襲撃活動を考えるうえで重要な転機になったと考えられます。

私掠船とは何か?

ドレークを語るうえで欠かせないのが「私掠船(しりゃくせん)」です。私掠船とは、君主や政府の委任を受け、敵国の船を拿捕する民間の武装船を指します。正規海軍を大規模に維持できない国にとっては、民間の船・資金・乗組員を戦争に利用できる仕組みでした。

  • 敵国の商船を捜索する
  • 船と積荷を拿捕する
  • 手続きを経て利益を出資者や乗組員で分配する

ただし、「国の支援を受けていたから、ドレークの襲撃はすべて合法だった」と考えるのも正確ではありません。ドレークがスペイン領を襲った1570年代、イングランドとスペインはまだ全面戦争に入っていませんでした。エリザベス1世の政府はスペインに打撃を与える航海を利用する一方、外交上は関与を曖昧にすることがありました。

つまりドレークは、明確な正規海軍軍人としてだけ活動したわけでも、国家と無関係な海賊だったわけでもありません。国家の黙認・支援、民間投資、略奪航海が重なった境界的な存在でした。イングランドの支援者から見れば功労者、被害を受けたスペイン側から見れば海賊。立場によって評価が変わる代表例です。

エリザベス1世とのつながり

当時のイングランドは、ヨーロッパと大西洋世界に巨大な影響力を持つスペイン王フェリペ2世の勢力と対立を深めていました。そこで王権中枢や民間の出資者は、ドレークらの航海を通じてスペインの海上交易に圧力をかけました。襲撃で得た財宝は、航海者だけでなく出資者にも大きな利益をもたらします。

世界一周から帰国したドレークに対し、エリザベス1世は1581年、デプトフォードに係留されたゴールデン・ハインドを訪れ、その船上でドレークをナイトに叙する式典を行わせました。「ナイト爵位」というより、正確には「ナイトに叙せられた」です。

スペイン船を襲って帰った船長が、戦利品を積んだ船上で名誉を与えられる。スペイン側からすれば、聞くだけで血圧が上がりそうな話です。ドレークは単なる船長ではなく、女王の対スペイン政策と結びついた重要人物になっていました。

スペイン領襲撃と世界一周

ノンブレ・デ・ディオス遠征

1572年、ドレークはパナマ地峡のスペイン拠点ノンブレ・デ・ディオスを襲撃しました。ここは南米側から運ばれた銀が集まる重要地点です。遠征の記録をまとめた『Sir Francis Drake Revived』には、町への夜襲、ドレークの負傷、銀を運ぶ隊商への攻撃などが描かれています。

この遠征で注目すべきは、ドレークが海上の船だけを狙っていたのではないことです。港、陸上輸送路、財宝の集積地点まで調べ、スペインの物流の弱点を突いていました。大胆さだけでなく、情報収集と現地協力者の利用が成功を支えていたのです。

1577~1580年の世界一周

1577年12月、ドレークは5隻・164人の船団を率いてプリマスを出航しました。ハクルートが収録した同時代の航海記によれば、船団は大西洋を南下し、南米南端のマゼラン海峡を通過して太平洋へ出ています。

ここで忘れてはいけないのは、この航海が純粋な地理探検ではなかったことです。ドレークは太平洋岸のスペイン領や船を襲撃し、大量の財宝を獲得しました。とくに通称カカフエゴと呼ばれたスペイン船からは、銀塊・銀貨・金などを奪っています。

その後、ドレークは北米太平洋岸へ進み、太平洋を横断。モルッカ諸島、インド洋、喜望峰を経て、1580年にイングランドへ帰還しました。出航時の船団から世界一周を完遂したのは、ドレークの旗艦ゴールデン・ハインドだけでした。

世界一周って、さらっと書いていますけど、当時は本当に命がけです。未知の海域、暴風、船体の損傷、病気、食料不足、船団の分裂。そのすべてをくぐり抜けて帰ったわけですから、航海者としての能力が並外れていたことは疑いありません。

ただし、その成功は「冒険心」だけでできていたのではなく、スペインから奪った物資と財宝にも支えられていました。世界一周の英雄譚と略奪航海は、別々の物語ではなく同じ航海の表と裏なのです。

ドレークの戦闘力と航海力

戦闘指揮

ドレークは剣豪として名を残した人物ではありません。強みは、攻撃目標を選び、相手の弱点を突き、船と乗組員を動かす指揮能力にありました。

  • 夜襲や奇襲を利用する
  • 港・航路・輸送経路の情報を集める
  • 大艦隊との正面衝突だけに頼らず、物流と指揮系統を乱す

1587年のカディス襲撃では、スペインの港に入り込んで艦船や物資に損害を与え、翌年に予定されていたイングランド侵攻の準備を遅らせました。1588年のアルマダ戦では、リヴェンジ号を率いる副司令官として参戦しています。

航海と船団運営

ドレークの真価がもっとも分かりやすく表れたのは、長距離航海でしょう。彼には、

  • 長期間にわたる航路の判断
  • 船団と乗組員の統率
  • 風・海流・季節の利用
  • 寄港地と補給手段の確保

という能力が必要でした。もちろん、世界一周の途中では船を失い、多くの乗組員も失っています。それでもマゼラン海峡から太平洋へ抜け、太平洋を横断し、喜望峰を回って帰国した事実は重いものです。GPSも正確な海図もない時代に地球を一周。さすがドレーク、と急にフレンドリーにもなります。

スペイン艦隊アルマダとの戦い

1588年、スペイン王フェリペ2世は大艦隊をイングランドへ送りました。計画の中心は、スペイン艦隊だけで上陸することではありません。艦隊がフランドル方面のパルマ公軍と合流し、その兵士たちをイングランドへ渡海させることでした。

ドレークはイングランド艦隊の副司令官として戦いました。アルマダ戦は「小さなイングランド艦隊が無敵艦隊を一方的に撃破した」と語られがちですが、イングランド側の書状を読むと、実態はもっと切迫しています。

Navy Records Societyが刊行した一次史料集『State Papers Relating to the Defeat of the Spanish Armada』には、指揮官たちの書状が収められています。そこでは、火薬・弾薬・食糧の不足が繰り返し問題になっています。勝った側も、普通に兵站で泣いていました。

8月8日付のウォルシンガム宛書状で、ドレークはアルマダが北へ去った後も警戒を解いていません。彼は、わずかな費用を惜しんで王国を危険にさらすような助言はできない、という趣旨を述べました。パルマ公はなお脅威であり、メディナ・シドニア公の艦隊と再び連絡を取ろうとする可能性があると見ていたのです。

これはかなり重要です。ドレークは「敵が北へ去った。はい解散」とは考えていませんでした。勝利ムードよりも、敵軍の再結集と上陸作戦の再開を警戒していたわけです。現場指揮官として、実に現実的です。

アルマダは「嵐だけ」で敗れたのか

ドレークの書状は、アルマダ敗北を「嵐だけ」で説明していません。8月10日付の書状では、スペイン艦の船体・マスト・帆・索具がイングランド側の砲撃で損なわれたこと、カレー沖の火船攻撃でスペイン艦が錨綱を切って混乱したこと、その後に風と荒天が追い打ちをかけたことを報告しています。

  • 砲撃によってスペイン艦隊に損傷が蓄積した
  • 火船攻撃で陣形と停泊態勢が崩れた
  • パルマ公軍との合流に失敗した
  • 北海へ追われた艦隊を悪天候が襲った

したがって、より正確なのは「海戦・火船・作戦上の連携失敗・悪天候が連続して敗北につながった」という理解です。嵐は大きな要因でしたが、それだけが原因ではありません。

なお、8月8日の書状の末尾で、ドレークは自分を「今は半分眠っております」と記しています。長い追撃、悪天候、補給不足、睡眠不足。華やかな勝利の裏側は、かなり泥くさい消耗戦でした。

英雄も眠い。それでも敵の再来を警戒し、軍勢の早すぎる解散に反対する。ここには、大胆な私掠船長だけではない、実戦的な指揮官としてのドレークが見えます。

↓アルマダについて↓

最後の遠征と死

アルマダ戦後のドレークが、いつまでも勝ち続けたわけではありません。1589年の対スペイン遠征は大きな損害を出し、期待された成果を挙げられませんでした。そして1595年、ドレークはジョン・ホーキンスとともに再びカリブ海へ向かいます。

この最後の航海に参加したトマス・メイナードの記録によれば、パナマ方面での作戦が失敗した後、ドレークは体調を崩しました。船団がポルトベロへ到着した1596年1月28日の朝、ドレークは船上で死去します。翌日、遺体は海に葬られました。

後世の伝記では死因を赤痢とする説明が広く見られますが、メイナードの参加者記録は病名を特定せず、病状が悪化して死亡したことを記しています。本稿では一次史料に合わせ、病名の断定を避けます。

海賊か、英雄か

フランシス・ドレークは、どの立場から見るかによって姿が変わります。

  • イングランド王権にとっては、スペインに打撃を与えた功労者
  • 出資者にとっては、莫大な利益を持ち帰った船長
  • スペイン側にとっては、港と船を襲う略奪者
  • 現代の視点では、奴隷貿易への関与も問われる人物

「英雄か海賊か」という問いに、どちらか一方だけで答える必要はありません。国家に貢献したこと、優れた航海者だったこと、スペイン領を略奪したこと、奴隷貿易に参加したことは、同時に成り立ちます。

歴史上の人物を理解するには、後世の英雄像だけでなく、本人たちの航海記、指揮官の書状、敵対者や参加者の記録を突き合わせることが大切です。ドレークほど、その必要性を分かりやすく示す人物も珍しいでしょう。

フランシス・ドレークのイメージイラスト

最後に

フランシス・ドレークは、世界一周を達成した航海者であり、スペインの海上交易を襲った私掠船長であり、エリザベス1世の対スペイン政策を支えた海軍指揮官でした。

  • 若い頃、ホーキンス船団の奴隷貿易に参加した
  • スペイン領とスペイン船を襲い、莫大な財宝を獲得した
  • 1577~1580年の航海で世界一周を成し遂げた
  • 帰国後、ゴールデン・ハインド船上でナイトに叙せられた
  • アルマダ戦では敵の再結集を警戒し、継戦態勢の維持を訴えた
  • 最後の遠征中に病を得て、1596年に船上で死去した

ドレークの書状を読むと、彼は単なる荒くれ者ではありません。砲撃や火船の効果、敵軍の合流、味方の弾薬不足を具体的に見ていました。その一方で、襲撃と奴隷貿易に関与した事実も消えません。

大胆さと冷静さ、航海技術と暴力、国家の英雄と他国の海賊。矛盾して見える要素をすべて抱えていたからこそ、フランシス・ドレークは16世紀の大西洋世界を象徴する人物なのです。

参考資料・出典

  • Richard Hakluyt, “The Famous Voyage of Sir Francis Drake into the South Sea, and Therehence about the Whole Globe of the Earth,” The Principal Navigations, Voyages, Traffiques and Discoveries of the English Nation. Project Gutenberg版(世界一周航海の同時代記録。近代版でFrancis Pretty作とされることがありますが、著者帰属には議論があります)
  • Job Hortop, “The Travels of Job Hortop,” in Richard Hakluyt, The Principal Navigations, Vol. XIV. Project Gutenberg版(1567~1568年のホーキンス船団に参加した人物の航海記)
  • Philip Nichols, Sir Francis Drake Revived, 1626. Project Gutenberg版(1572~1573年遠征の参加者証言をもとに編纂された記録)
  • John Knox Laughton (ed.), State Papers Relating to the Defeat of the Spanish Armada, Anno 1588, Vol. II, Navy Records Society, 1894. Internet Archive版(ドレーク、ハワード、ウォルシンガムらの書状を収録した一次史料集)
  • Thomas Maynarde, Sir Francis Drake His Voyage, 1595, ed. W. D. Cooley, Hakluyt Society, 1849. Project Gutenberg版(最後の遠征に参加した人物の記録)
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